コーヒーブレイク
     お城とお酒と一人旅の思い出を綴ります。



静岡県伊豆の国市の巻
お城  司馬遼太郎の「箱根の坂」(講談社文庫)を読んだ。後北条氏の創始者早雲についての印象が明確に変わった。箱根の坂は全三巻であるが、二巻までが京・駿河での描写である。ここまでに早雲の優しい心根や自分の生き方への迷い、また信念や政治思想が叙述されていて、大変興味深かった。そして最後の三巻目に、その理念の実現のために関東掌握の野望を抱き立ち上がった早雲の行動が小気味好く書かれていた。いつの時代も仁徳者でないと人は付いて来ないし、自分の思いも実現しないものだとつくづく感じた。
 「韮山城」は、そんな伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が関東掌握を構想し、その最初の拠点とした城である。それ以前は今川領の興国寺城主であったのだが、1491年(延徳3年)伊豆を統治していた堀越公方足利茶々丸を“国主の器にあらず”として追放し伊豆を掌握した。早雲は龍城山にある平山城である韮山城を修築しそこを最初の拠点としたが、後に要害の悪さを思い、韮山の「北条」という地に一重の堀をうがち、屋敷を建てて移り住んだ。・・・これ以後早雲は、土地の人から北条様といわれるようになったとか・・・。尚、興国寺城は僅か5歳の氏綱(北条二代目)に譲った。
 早雲はこの後小田原城を奪い、後北条氏の礎を築いた。その後韮山に戻り、晩年の33年間88歳で没するまでここで過ごした。韮山城は小田原北条氏の西方の守りとして重要な拠点であり、1590年(天正18年)秀吉の小田原征伐の時は、北条氏規が3千の城兵で約4万の大軍に抗戦した城でもある。
 その前に、始めに対象地域外ですが、早雲が一番最初に領主となった地の城、興国寺城跡(沼津市根古谷)を紹介します。

<海からの直線道路の突き当たり根古谷のT字路から見る興国寺城跡と立看板>

<左:本丸跡の北条早雲碑や説明板 右:本丸裏手の大空堀跡(深いです)>

<左:本丸土塁西櫓跡から駿河湾を望む 右:興国山本法寺からみる興国寺城跡全景>
続いて韮山城跡及び早雲が移り住んだ北条地域を紹介します。
隣接する江川邸は賑わっているようでしたが、韮山城跡は訪れる人々もなく・・・という感じで、縄張の説明板もなく、城の詳細は良く分りませんでしたので、悪しからず・・・

<左:韮山城跡入口の落ちてしまった看板 右:登坂口>

<左:権現平跡(多分?) 右:二の丸への登り口>

<左:二の丸跡 右:本丸跡>

<左:蛭ヶ小島跡 中・右:蛭ヶ小島から望む韮山城跡>

<堀越御所や北条邸の在った守山(北条地区)の案内図>

<左:堀越御所跡の現況 右:北条邸跡の現況>
 万大醸造は、高く積み上げられた石垣の上に建つ。昔の豪族の館や城郭を思わせる佇まいである。酒銘「萬耀(ばんよう)」も、遠く戦国の初期の明應六年、伊勢新九郎が村境に接する柏窪に愛宕山城を築き、之により足利(堀越)公方がたの伊東氏を破り、祝杯を重ねた早雲が、「これぞ正しく萬代に萬の国に耀(かがや)ける酒「萬耀」と命名したと酒談義されているとの謂れがある。
 昔この一帯が火災にあり、色々な文献がみんな燃えてしまったのだと・・・この店の先代の奥さんが言っていたが、誠に残念である。敷地内からは、石器や土器(“かわらけ”等の陶器では?)やらたくさん出土していて、展示してあった。

<万大醸造合資会社>

<鶴生館の商品の陳列棚>
この右側に出土品が展示してある。
尚、鶴生館はH20年4月に閉館した。

<万大醸造正面玄関と左奥が鶴生館>
<伊豆 「萬耀」 純米吟醸 年川湧水仕込>
<720ml 1,600円>

<原材料:米・米こうじ>
<原料米:譽富士(静岡県産酒造好適米)>
<精米歩合:60%>
<日本酒度:+3>
<アルコール度:16.0度以上17.0度未満>
<杜氏:星野啓治(新潟杜氏)>


フルーティーな口当たりであるが
純米酒特有のとろっとした重みがある。
口中で重量感のある米の旨味が伝播していく感じ。
それでいて、喉越しはスッキリしていて、
辛味・酸味・渋味の軟らかいハーモニーが
口中に残る。
男らしい辛口のスッキリした切れのある酒であり、
東北の濃醇な旨味の純米酒とは一味違った
重厚感のある酒である。