コーヒーブレイク
     お城とお酒と一人旅の思い出を綴ります。



静岡県掛川市の巻
お城  「高天神城」という名前に何か神秘的なものを感じ、興味を持っていた。調べてみると、菅原道真を祀った高天神社があったことが謂れらしい。
 高天神城といえば徳川と武田の三度に及ぶ攻城戦で有名であるが、北条家にも若干所縁がある。川越夜戦でその名を上げた玉縄北条家の祖、北条綱茂(北条氏綱の養子となり、福島から改名した)の父福島正茂の居城でもあったのだ。そんな訳で北条の旅を、ここ高天神城から始めた。
 遠州小笠郡にある高天神城は、北の掛川城とともに駿遠間の通路を扼する要衝にある。標高132メートルの鶴翁山の山頂に築かれた城で、比高は104メートルである。一般に比高100メートル以上が山城であり、ぎりぎり山城と言っていいらしい。確かに、山城というには小ぶりで奥行きがなく、春日山城や七尾城に比べ思いの外早く山頂に辿り着いた。
 しかし、高天神城といえば難攻不落の名城と謳われているだけあり、東南北の三方向が断崖絶壁、西方が渓谷と険しい尾根という自然の地形、「信玄も落とせなかった城」なのである。全山の山容を遠く眺めれば、確かに頷ける話である。

<高天神城の大手道からの山容>
*山頂部、右が本丸、
左が御前曲輪である。
左下が三の丸である。
断崖絶壁の山城が
イメージできる。


<右:大手口広場>
*ここから本丸まで
休まず歩けば約15分。

<大手口の山道>
*行き当ったところが大手門跡。

<搦手方面からの高天神城>

 *高天神城の縄張は、大きく東峰と西峰という二つの部分からなっている。一つの山の中に、二つの城をドッキングさせた形である。
 東峰には、本丸、御前曲輪、元天神社址があり、下ってその北側や北東側に帯曲輪が絶妙に配置され防備を固めている。その南東20メートル下に三の丸がある。本丸は千畳敷と呼ばれ広い。
 西峰は西ノ丸、馬場、二の丸、堂の尾曲輪、帯曲輪がある。馬場からは犬戻り猿戻りの狭隘な峰が続く。
 ドッキング部には、南北から深い谷が迫り井戸曲輪が配置されている。
 全体的には、小さな尾根が櫛の歯のように出っ張っていて、軍学者の言う「横矢掛」にうってつけであり、防備に固い構えである。

<搦手門跡>
*こちら搦手道の方が大手道より
綺麗に整備されている。
西峰にある現在の高天神社への参道として
利用されているのであろう。
山城と言うより里にある平山城と言う方が
ピッタリするかも知れない。
因みに私は険しくても・・・遠回りでも・・・
大手道から登る主義である。
それが往時を偲ぶルートだと信じているので。

<上:本丸東側の崖>
*確かに険しい崖である。これでは登れない。
下に、帯曲輪の跡が見える。
<右:御前曲輪から東方を望む>
高天神六砦が築かれた方面である。
 徳川と武田の第一回目の戦さは、1571年(元亀2年)信玄が家康との今川領「遠駿分割の密約」を破り、大井川を越え高天神城に攻めかかった時である。この時信玄は2万の軍勢、一方城主小笠原長忠(氏助)は2千の城兵、「功者三倍の法則」を充分満たし、城は簡単に落とせる筈であったが、信玄は力攻めせず、兵を引いている。信玄をして簡単には落とせない城構えだったのであろう。信玄は翌1572年(元亀3年)、2万5千の大軍で上洛の途についてが、この時は因って高天神城は素通りし、浜松城の西北方向の三方が原において家康軍を散々に打ち破っている。
 第二回目の戦さは、1574年(天正2年)信玄の後を継いだ四男の勝頼が、「三、四年は喪を秘匿とし、分国の備えを堅固にして国を鎮めよ」との信玄の遺言に従わず、信玄以来の重臣に自己の存在をアピールするために起こした戦いである。2万の軍勢を率いる勝頼は「何としても父信玄も落とせなかった城を落としたい」の一念で猛攻を繰り返し、ついに本丸、御前曲輪、堂の尾曲輪を残すのみとなった。この時の高天神城主は同じく小笠原長忠(氏助)で、2千の兵は徹底抗戦を続けよく守っていた。勝頼は戦さが長期化し家康及び信長の援軍が到着することを恐れ、勧降工作に切り替えていった。勝頼は小笠原長忠の親戚でその気質をよく知る岡部丹波守を和談の使者として派遣し「城中の者は残らず助命し、武田に随身するも徳川に戻るも自由とし、城主長忠には富士の裾野にて一万貫(十一万石)の所領をつかわす」との好条件を出した。長忠は援軍要請をしてもいつまで経っても返書ばかりの家康に見切りをつけ、降伏開城を受け入れた。こうして、いずれにせよ、勝頼は父信玄が落とせなかった高天神城を手中に収めたのである。

<左:千畳敷といわれる本丸跡 右:本丸と御前曲輪の間にある元天神社跡>
 高天神城を陥落させたことで天狗になりつつあった勝頼は、翌1575年(天正3年)1万5千の大軍で三河の長篠城を包囲した。しかし、今度は信長軍3万、家康軍8千の連合軍が応援に駆けつけ、これと戦うことになった。世にいう「長篠・設楽原の戦い」である。天下にその名を轟かせた最強武田騎馬軍団も、織田方の3千3百5十挺の鉄砲と三重の馬坊柵の前に、無策に正面攻撃を掛け歴史的大敗を喫してしまった。これ以後武田家は衰勢の一途をたどる。
 高天神城攻城の第3回目の戦さは、1578年(天正6年)から始まり1581年(天正9年)まで足掛け4年に渡る、今度は家康が勝頼に奪われた高天神城を奪い返す戦略戦である。この時の城番は岡部丹波守長教(又は真幸)で、軍監が横田甚五郎尹松(ただとし)である。
 家康は高天神城を攻略するのに力攻めでは難しいと考え、対の城として横須賀城を築き、更に、「高天神六砦」といわれる6ヶ所の砦を、武田方の量糧・弾薬の補給路に次々築き、高天神城の孤立化を図っていった。
 これに対し甲斐の勝頼は、織田・徳川、北条に囲繞され、高天神城へ援兵などとても出せる状況ではなかった。勝頼に見捨てられた形になった高天神城では、遂に1581年(天正9年)城番岡部丹波守らが軍議し、家康に矢文で降伏を申し出たが、信長と相談した家康は拒絶している。死を覚悟した城兵7百は早朝城門を開き果敢に討って出たが、逆に徳川軍に城内へ攻め込まれ、壮烈な玉砕を遂げた。因みにこの前夜、家康は城兵の所望に応じ、搦手門付近で幸若舞の太夫に「高館」を舞わせている。
 こうして1571年(元亀2年)から1581年(天正9年)、足掛け11年に及ぶ高天神城攻防戦はピリオドが打たれ、家康は再び高天神の要害が敵の手に落ちることを恐れ、即廃城とした。この後、高天神城は再び使われることはなく、故に戦国期の典型的な城郭遺構をそのまま残している魅力的な城跡となっている。

<大河内幽閉の石窟跡>
*天正2年、徳川の軍監大河内源三郎政局
(まさもと)は、1人勝頼に屈せず幽閉された。
初代武田城番横田甚五郎は政局の義に感じ
密かに厚く持て成したとか?・・・
天正9年、家康城奪還後、城南検視の際
石窟内の政局を発見、救出した。
家康過分の恩賞を与え労ったとか?・・・
しかし、足掛け8年ここで。。。何と!

<馬場の先端にある犬戻り猿戻り入口跡>
*天正9年落城の時、軍監横田甚五郎尹松(ただとし)は
この尾根続きの険路を辿って信州へ脱出し、
甲斐の勝頼の元へ落城の模様を報告したと云われている。

<土井酒造の店内>
*右の門構えを入り右に行くと、店舗があった。
しかし、何度呼んでも誰も出てこない。
工場の方まで行ったらやっと社長が出てきた。
清楚で、閑静な酒蔵である。
この酒蔵は、高天神城の湧き水で醸している。

株式会社 土井酒造場
<開運 純米吟醸 「高天神」 720ml 2,551円>

<原材料:米・米こうじ>
<原料米:山田錦>
<精米歩合:50%>
<日本酒度:+5>
<アルコール度:16.0度以上17.0度未満>
<杜氏:波瀬正吉(能登杜氏)>


 軽やかな香り、フルーティーな酸っぱさを感じつつ
舌に纏わりつく感じのやや濃醇な口当たり、
程好い酸味と旨味のバランスが絶妙である。
喉越し後には辛味を感じ、
酒通にも十分満足できる味である。
酒名の通り、水は高天神城の湧き水であり、
太く貴高い酒質は高天神城の
イメージにピッタリである。
また重厚なイメージの角ボトルが好い。