コーヒーブレイク
     お城とお酒と一人旅の思い出を綴ります。

山梨県甲府の巻

お城

<躑躅ヶ崎館跡正面>

<甲府駅南口の信玄の銅像>

<積翠寺から館、甲府市内を望む>

信玄は、上洛の途上1572年「三方ヶ原の戦い」で、徳川家康軍を散々に打ち破り、更に織田信長と決戦を挑もうとした。しかし三河野田城攻略の後、病(肺結核?)に倒れ、已む無く甲斐へ帰陣の途についたが、途中信州伊奈谷の駒場(こまんば)において1573年(天正元年)病没した。53歳である。
 信玄は、「喪を3年秘すように」遺言し、勝頼は3年後この岩窪の地(二十四将の一人、土屋昌次の邸内)で遺骸を荼毘に附し、恵林寺(甲州市)にて壮大な葬祭を行なった。

<武田神社(躑躅ヶ崎館跡)参道>

<館の背後、積翠寺と要害山>

躑躅ヶ崎館の跡は、この反対側にある。

お酒

<武田家の菩提寺である
恵林寺の参道入口>

<「春鶯囀」純米辛口ぷらす9
720ml 1,145円>

富士川の上流、釜無川と笛吹川の合流地点、増穂町に春鶯囀の蔵元はある。因みに躑躅ヶ崎館跡から直線で17キロの距離にある。江戸時代は富士川の舟運によって栄えた交通の要所である。
 酒名の「春鶯囀」は、1933年与謝野晶子の詠じた和歌「法隆寺などゆく如し甲斐の御酒 春鶯囀のかもさるゝ蔵」から改名したとのこと。それまでは1790年の創業当時から「一力正宗」の名で親しまれてきた。
 この蔵は、1978年から純米酒の製造を始め、酒造好適米「玉栄」を地元で栽培するなど精進し、純米酒比率は79%、全量の平均精米歩合も58%という純米酒党の私にとっては大変嬉しい数値である
 「春鶯囀 純米辛口ぷらす9」は、精米歩合60%、日本酒度+9であり、サッパリとしていて酸味の利いた濃くのある辛口、喉越しは爽やかで、清純な香りが口中に漂う。

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「春鶯囀(しゅんのうてん)」蔵元、
株式会社萬屋醸造店

甲府即ち甲斐の府中である。甲斐の謂われは「山峡(やまかい)つまり山の狭い土地」からきているらしい。
 現在、山梨県の県庁所在地が甲府市であるが、ちょっとややこしい。東に山梨市と隣接し、更にその東に甲州市がある。当然どれもみんな違う行政単位であるが、市名からくるイメージは同じである。これでは、市名はただ単なる番号と同じであり、情緒もない。残念である。
 これから甲府を旅する方は心してかかれ!

甲府駅北口から真っすぐに伸びる参道の行き着くところが躑躅ヶ崎館である。相川の扇状地らしくなだらかな上りである。

躑躅ヶ崎館は、晴信(信玄)の父信虎の築城、武田三代の居城である。北と東西は山に囲まれ天然の要害である。
 しかし、甲斐、信濃、西上野、更には駿河統治の拠点としては、余りにも簡素な屋敷である。まさに信玄の心情は「人は城、人は石垣、人は濠、情けは味方、仇は敵なり」の有名な歌の如くか。

晴信誕生の寺「積翠寺」と詰め城としての要害山(要害城)

<岩窪の信玄の墓>

<恵林寺の本堂>

<恵林寺の三門>

<恵林寺の信玄墓所>

「三門」とは、三解脱門の略である。1582年(天正10年)3月11日、武田勝頼が天目山にて討ち死にし武田家が滅亡した後の4月3日、恵林寺の快川国師は、近江の佐々木承禎ら残兵を匿った罪で信長の逆鱗に触れ、百余人の僧侶と共にこの三門で壮絶な火定を遂げた。
 その際の有名な一句が「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ずから涼し」である。現在、この三門の両脇にこの遺偈が掛けれている。