コーヒーブレイク
     お城とお酒と一人旅の思い出を綴ります。



長野県長野市の巻
お城  戦国時代の戦さで信州川中島といえば、北信濃略取を狙う甲斐武田信玄と義に生きた越後の雄上杉謙信の五度にわたる川中島の戦いが脳裏に浮ぶ。
 私の「お城とお酒と一人旅」も、2006年越後上杉謙信、2007年甲斐武田信玄であり、2008年が信州の真田氏絡みで川中島に来たとすれば、ここで一つの調和的終結を感じる。川中島へは来るべきにして来たということか・・・
 川中島の千曲川の対岸には1560年頃築城された海津城(松代城)がある。信玄が川中島経略のために山本勘助、馬場信春の縄張で築いた平城である。初代城主は高坂昌信である。そしてここを重要な舞台の一つとして、戦国史上空前の激戦、第4次川中島の決戦が行なわれたのである。

<海津城(築城時)の石垣址>
*城名は1600年森忠政が城主の時「待城」に改名、
その後「松城」と呼ばれ、真田三代目藩主幸道の時、
幕命により「松代城」と改名された。

<江戸時代末期の松代城のイメージ図>

<中央:松代城本丸内の「海津城址の碑」、左右:太鼓門と前橋と内堀>
 第4次川中島合戦は、越後上杉軍1万6千が妻女山に陣を敷き、甲斐武田軍2万は海津城に入城、お互い八幡原の対岸に陣取るというおかしな膠着状態が続いた。
 そこで、業を煮やした信玄は軍師山本勘助の策略「啄木鳥戦法」を採用した。先ず隊を二つに分け、別働隊1万2千が早暁妻女山裏手から上杉軍に奇襲をかける。本体8千は上杉軍が千曲川を渡って逃げるのを八幡原で待ち伏せするというものである。
 しかし、その策動は知謀の謙信に見抜かれ、密かに上杉軍は深夜のうちに妻女山を降り、早暁に千曲川を渡っていた。従って合戦前半は武田軍の大苦戦となった。信玄の実弟典廐信繁や軍師山本勘助も討ち死にした。別働隊が急ぎ駆けつけた後半は挟み撃ちとなる形の武田方有利に展開し、上杉方に戦死者が激増、ついに謙信は越後へ撤退していった。
 この合戦は武田軍の死傷者1万7千5百、上杉軍の死傷者9千4百とされ、まさに凄絶極まる大激戦であった。が、しかし、この両者の代償の結果、これ以後、川中島一帯は当分の間武田方の支配地として安定することになる。

<海津城から謙信が陣を張った妻女山を望む>
*謙信は本当に2キロ離れた妻女山から
この海津城の炊煙が判別できたのであろうか?

<武田信玄が待ち伏せをした八幡原>

<信玄が陣を構えた八幡原に建つ八幡社(左・中)と逆槐(右)>
*逆槐(さかえんじゅ)は、自生の槐を逆茂木にしたものが芽を出し今に残っているらしい。なんと?

<執念の石>
*謙信・信玄一騎打ちの際、信玄の家臣、原大隈が、信玄の傍らにあった青貝の長柄を取って、謙信めがけひと槍突き出したが打ち損ね、無念やる方なくこの石を突き通したという。
ほんとかいな?

しかし、本当に穴は空いている。

<有名な信玄、謙信一騎打ちの象>
*謙信が馬上から三度刀を振り下ろしたら、
信玄の軍配には刀の傷が七ヶ所あったという。
ほんとかいな?

<左から:千曲川堤防脇にある典廐寺①と典廐信繁公の墓②、
そのやや下流更埴橋付近の対岸河川敷にある山本勘助の墓③④>

株式会社 宮坂酒造店
<純米酒 「合戦龍虎」
720ml 1,600円>

<原材料:米、米こうじ
使用米:美山錦
精米歩合:65%
日本酒度:+4
酸度:1.5>
 夏のゲリラ豪雨の中、やっと店に到着した。お店はこじんまりとしていて気持ちがいい。ただ、お酒以外のお土産も多く、ちょっと酒蔵としては期待外れである。
 辛口の純米酒で切れのある淡麗である。酒銘「合戦龍虎」をイメージできる辛さと切れがある。海津城天守から八幡原を望んで口に含んだら・・・至高のお酒になるでしょう。<このお酒は冷やして飲むと更に切れが出て旨いでしょう>