コーヒーブレイク
     お城とお酒と一人旅の思い出を綴ります。



神奈川県小田原市の巻
お城  北条早雲を始祖とする後北条氏の居城小田原城は、豊臣秀吉が大阪城を築くまでは、天下無双、難攻不落の巨大な城郭であった。五代氏直の時、つまり秀吉の北条征伐の時が最大規模を誇り、その惣構は本丸を中心に、東西・南北を横・縦軸にほぼ菱形をなしていて、東北は酒匂川近辺、西南は早川近く、北西は現在「城山」と呼ばれる地区辺りまで総掘が広がっていて、南東は相模灘に面していた。
 しかし、早雲が1495年(明応4年)扇谷上杉家の重臣大森藤頼が守る小田原城を奪取した当時の小田原城は、城山地区の八幡山付近(現在の小田原高校辺り)にあるごく小規模の城砦だった。
 早雲はこの城砦を、謀略といわゆる「火牛の計」により一夜にして落としたと云われている。

<小田原城本丸跡に建つ天守閣>
*江戸時代に造られた雛形や引き図を基に、
昭和35年に復興された3重4階の天守と付櫓・渡櫓である。
内部には甲冑・刀剣・絵図・古文書などが展示されているが、
鉄筋コンクリート造りなのが誠に残念!!。

<秀吉の北条征伐当時の小田原城惣構図>
*この惣構の総延長は5里(20キロメートル)と「北条五代記」には記されているが、
実測によると9キロメートルのようである。

この城下町を全部包み込んだ惣構の構築は、
秀吉の小田原攻めを不可避とみた1589年(天正17年)頃からである。
*地図の「本丸」の場所に復興天守閣が建つ。「現在地」の場所は大森氏小田原城があった八幡山付近である。

<左:JR小田原駅西口前の「火牛の計」早雲銅像 右:小田原城小峰の大堀切>
*謀略と「火牛の計」のことをちょっと述べると、小田原城主大森藤頼に珍しい品物を贈って油断させて置いて、
鹿狩りに託つけて、小田原城の裏山に逃げ込んでしまった鹿を箱根の山に追い返すからと、勢子(実は軍勢)を
裏山に入れる許しを得、そして機を見て夜襲を掛ける。一方、別働隊が石垣山において、牛の角に二本の松明を
つけて、しきりに山中を往来し、大軍の後詰を装い、敵を驚愕させ、本隊が一気に城を攻め落とした云う・・・

<右図現在地から望む二の丸>
*江戸時代の小田原城が、
後北条氏が盛時の本丸・二の丸跡
でしかなかったことを思えば、
後北条氏小田原城が
如何に壮大であったかが判る。

<現在の小田原城跡公園案内図>

<左:二の丸の入口にあたる銅門 中:本丸の入口常盤木門 右:本丸にある時計台>
 さて、秀吉の小田原征伐の前、小田原城には2度の危機があった。
 1度目は1561年(永禄4年)3月、関東管領に代わって関八州に正義を取り戻すと北条討伐に立ち上がった上杉謙信(長尾景虎)に、10万の兵でもって攻囲された時である。この時、3代氏康は大要塞小田原城を頼み、徹底した籠城作戦で退けている。
 2度目は1569年(永禄12年)10月である。信玄は前年の1568年の駿河攻略に氏康が邪魔立てしたことに激怒し、小田原城下に攻め入ったのである。氏康はこの時も籠城し、結果として武田軍を撤退させている。
 小田原城はそれ程堅固な城であった。故に、城に対する過信が五代氏直を始め北条方にあり、兵農分離(職業軍人化)した秀吉20万余の軍勢の力を正当に評価できなかったのであろう。
 さて1590年(天正18年)3月の秀吉の小田原進攻の計略は、皆さんもご存知の通りで、最初箱根越えの要衝で堅城と云われた山中城を僅か1日で攻め落とし、小田原城へ迫り攻囲した。しかし、力攻めはせず、関東100余に及ぶ支城を順次陥落させて孤立無援としていく作戦であった。また、「一夜城」で知られる石垣山城を完成させ、籠城方を驚愕させると共に士気を削いでいる。関東の支城で最後に残ったのは韮山城と武蔵忍城だけである。

<石垣山中腹から小田原城方面を望む>

<石垣山本丸跡物見台より小田原城を望む>
*視力0.8の私の肉眼では見えなかったが、カメラの望遠で
確かに石垣山城跡から小田原城は見ることができた・・・

<小田原城天守より石垣山を望む>
*確かにあんな近くの高台に、一夜で立派な石垣の城が
できたとしたら、籠城方は驚愕し脅えるだろう!

<山中城西ノ丸の障子堀>
*障子堀は横堀に畝を設けることで防御効果
を高めた北条流築城術の一つである。

<山中城概観図>
*国道1号を挟み右側が本丸・二の丸・西ノ丸、左側が岱崎出丸。
岱崎出丸は秀吉軍襲来に備え急遽整備された。

<石垣山城跡 左:南曲輪の石垣 中:井戸曲輪の石垣 右:本丸跡>
*山上に崩れた石がごろごろしていた。井戸曲輪の石垣は圧巻であった。井戸底には僅かな水が湧いていた。
<左:小田原合戦攻防図>
*豊臣方軍勢水陸合わせて約22万。
徳川家康らを先鋒とする
秀吉の本隊は東海道、
前田利家・上杉景勝率いる北国勢が
上野から北条氏の領国に侵攻、
長宗我部元親・九鬼嘉隆らの率いる
水軍が兵員・物資を搬送し、
海上封鎖に従事した。
*迎える北条軍は完成した惣構内に、
北条氏直・氏房・氏政・氏照、松田憲秀、
山角康定、そして武蔵忍城の成田氏長
などの軍人と住人総勢6万が籠り、
秀吉・家康をはじめ、織田信勝・
蒲生氏郷・羽柴秀次・宇喜多秀家・
池田輝政・堀秀政など
名だたる戦国の英雄を迎え撃ち
3ヶ月余りに及ぶ攻防戦を展開した。
*当主氏直は、氏規守る韮山城が陥落
したと早とちりし、自ら降伏してしまった。
秀吉は北条氏の領国を全て没収、
氏政・氏照兄弟を切腹させ、氏直を
高野山に追放した。早雲以来五代百年
に及んだ北条氏は、ここに滅んだ。
 「火牛」という銘柄に惹かれて相田酒造店へ行ってみた。箱根登山鉄道入生田駅から徒歩1分のところにある落ち着いた近代的建築の酒蔵であった。なんでも以前は小田原市街にあったそうですが、2005年に移転したのだそうです。(納得・・・)
 さて店内に入ると、中はこじんまり綺麗にレイアウトされていた。そこに不釣合いな小父さんが出てきて、応対してくれた。
 この蔵は、移転を機に、醸すすべての酒を純米酒にしたそうです。また、越後杜氏から南部杜氏に切替えたとか。更に無濾過酒の製造は止めたともおっしゃっていました。(これはお客様とのトラブルがあったとか・・・)

<合資会社 相田酒造店>

<店内の様子>
*テーブルで様々試飲をしたり
色々酒談義をさせて頂きました。
無濾過酒については意外でしたが、
否定的なお話をしていました???・・・
<対応してくれた小父さん>

小父さんとは失礼しました。
多分蔵元の大経営者の方と
思います・・・
ご無礼ご容赦下さい。

箱根水系の水で醸した
というこの「火牛」は、
「箱根から押し寄せた
早雲の軍勢」と重なり、
何か感慨深いものを
感じました。

最後にお願いして
写真を取らせて頂きました。
<箱根爽酒 純米吟醸 「火牛」>
<720ml 1,522円>

<原材料:米、米こうじ>
<原料米:(麹米)五百万石、(掛米)美山錦>
<精米歩合:55%>
<日本酒度:+2>
<酸度:1.8>
<アミノ酸度:1.5>
<アルコール度:15度以上16度未満>


 箱根爽酒と言うとおり、淡麗の辛口である。
スッキリとしていて呑み易い口当たりである。
箱根に相応しいワイン的な味わいであり、
動物に例えれば軽快な鹿をイメージできる。
日本酒初心者や女性に合う酒質である。
白身魚の刺身で一杯やったら堪らないだろう。
個人的な趣向からいえば、酒銘の「火“牛”」という
鈍重なイメージからは若干掛離れた味わいであるが、
純米酒らしい重みはある味である。