コーヒーブレイク | |
お城とお酒の地元紹介です。 |
<復元された堀、御三階櫓、
鐘楼(二ノ丸にあったもの)>
<別名「浮き城」ともいわれる忍城鳥瞰図>
<純米生原酒
720ml 1,100円>
<精米歩合:60%>
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<忍城今昔地図:青字は史跡で、黒字は現在の状況である>
1589年(天正17年)北条方の家臣(沼田城代)猪股邦憲が豊臣秀吉の「真田沼田領の3分の2を北条方に割譲する」という裁定を無視し、残りの真田領の名胡桃城をも謀略をもって奪取してしまった。秀吉はこれに激怒、北条攻めを決意し、翌1590年(天正18年)関東小田原へ総勢21万の兵力で出兵した。
その時、北条方の支城は百余りを数えたが、秀吉方の圧倒的な勢力におされ次々に落城していったのである。だが、唯一つ小田原城が落ちるまで落ちなかった城があり、それがこの武蔵忍城である。
忍城は、石田三成を総大将とし、大谷吉継、長束正家、その他関東の佐竹、結城、宇都宮などの軍勢、約2万3千に包囲されたが、この城は周囲1里ほどの沼の中にあり、本丸や二の丸などそれぞれの島が細い道で迷路のように繋がっていて、更に川や深田で幾重にも守られていて中々落ちなかった。そこで三成はかつて秀吉が備中高松城を攻めた時の奇策、水攻めを着想した。
三成は丸墓山付近に着陣し、そこから周囲へ長さ7里(約28キロ)、高さ1間から2間の堤防を僅か7日間の突貫工事で完成させ、利根川、荒川の水を引き入れた。
しかし、大雨の中でも忍城は沈まず、「あの城は水に浮くらしいぞ」という噂まで流れ、結局、この水攻めは堤防が決壊し失敗した。
三成はここでも頭でっかちの戦ベタを証明してしまったのか? <石田堤の概観図>
<埼玉古墳群にある石田三成が陣を構えたという丸墓山>
<右:
船着き場跡>
埼玉県行田市には、国宝の金錯銘鉄剣が出土した稲荷山古墳で有名な埼玉(さきたま)古墳群があり、埼玉県名の発祥の地といわれている。
戦国時代には、行田周辺の武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田顕泰(なりたあきやす)が台頭し忍城を築城、以後親泰、長泰、氏長と四代に亘り、1590年(天正18年)まで、約百年のあいだ成田氏が忍城主として治めた。そして江戸時代には、阿部氏、松平氏の下、10万石の城下町として栄えた。
この地は利根川と荒川に挟まれた扇状地で、小さな川が乱流するとともに伏流水が寄り集まって広大な沼地となっていた。それで、そこに残る島や自然堤防をたくみに利用し忍城を築いたので、下の鳥瞰図のような水城が完成した。
しかし、1873年(明治6年)明治政府から総ての建造物の取り壊しを命ぜられ、忍城は姿を消した。
右の御三階櫓(ごさんかいやぐら)は1702年(元禄15年)阿部正武が建てたものを、1988年(昭和63年)に本丸跡付近(正確には諏訪曲輪内)に再建したものである。
鐘楼
船着き場
中学校
小学校
三階櫓
125号
<上:皿尾口跡;僅かにガードレールとブロック塀の間に堀跡が残る>
<上:諏訪曲輪跡内の忍東照宮>
<左:国道125号を挟んで右が本丸跡(現在郷土博物館)、左が諏訪曲輪跡>
<左:持田口跡>
<丸墓山から僅かに
残る石田提の跡>
<丸墓山から行田市内を望む>
<左、下共:
堤根の石田提の跡>
<上、右共:
概観図の○印、
現在地付近>
<純米吟醸 「浮城」
720ml 1,575円>
<原料米:美山錦
精米歩合:59%
日本酒度:+3
酸度:1.5>