「この都で鬼を退治できるのは、晴明様
だけじゃ」「うむ、地鎮祭の折りに何度か
言葉を交わした事があるでな…」「じゃあ
源佐師匠、全てお願いしときまっせ!」
「ああ、任せとき」そういう事になった…
そして今、安倍晴明の邸、門の前に
立っている。右手に瓶子を二つぶらさげて…
弥生三月、春の柔らかい日差しの中で。
既におよその次第は使いを出して書状を
だしておいた。この日に伺う事も…
門は開け放たれているが、人の気配が無い…
広々とした庭園には様々な花が咲いている。
何やら薬草らしき草木もあちらこちらに
生えている。しかし…はて…どうしたものか
思案顔の源佐師匠である。「まあ、なんとか
なるやろ…」一歩、門の中に歩みを進めた
途端、何処からともなく甘い香りがする。
そして門の中に入った時、突然目の前に
女が現れたのである。「何時のまに…」
源佐が声をかけようとしたとき、それを
見透かしたように女が声をかけた。
宮廷官女のような美しい女であった。
見事な、十二単が一層引きたてる。
「これは源佐殿、ようこそおはこび
くださいました。主がお待ち申し上げて
おります故、ご案内いたしまする。
どうぞこちらに…」「あ、いやこちらこそ
お世話になりまする」女の後に続いて行く
東の対へ向かって行くようだ。どこかの
野原をそっくり持って来たような庭には
雑然としたようでいて何らかの意志が
働いているようだ。妙に落ち着いた気持ちに
なって行く。源佐もこれまでに様々な
庭園を見て来たが、目の前に広がるこの様な
庭は初めてである。作れと言われて作れる
ような庭ではない…そして濡れ縁に通された
そこに、白い狩衣姿の男が素焼きの杯を
乗せた膳の前に胡座をかいてこちらを
見つめている。安倍晴明…陰陽師である。
伝承によると生年は延喜二十一年(921)
であるが定かでない。大阪市南部、阿倍野
にある安倍晴明神社が生誕の地という石碑が
あるのだが、全国各地に同様の碑が多く
残る。父の名は安倍益材。大膳大夫、宮内省
大膳職の長官である。宮廷の食材を調達し
調理を司る人々を従えている。帝への配膳
には特に細心の注意を払わねばならない。
重要な職務であった。そして母の名は諸説
あるのだが葛子と伝えられ、白狐の化身とも
言われている。しかしながらその殆どが
謎である。さて、案内された源佐が晴明を
見て慌てて床に平伏す。官位は従五位上…
(後に従四位下となる)口上を述べるべく
咳払いを一つした時であった‥「よせよ…」
「はっ?…」「堅苦しい挨拶さ…」「え?」
「ははは…はっ?とかえ?しか言わん
のか?」「あ、いや、そのおう…」
「まあよい。源佐殿、もっと近こう
寄れよ。その瓶子も重かろう…」「はあ…
しかしぃ…」「俺は構わぬよ‥今、魚を
炙らせている。飲みながら話そう。それは
酒だろう?」「は、はい!これ伏見の
酒ですわ‥」「うまそうだな、豊かな
香りがするぞ」「へえ、極上ですわ」
「それは張込んだな…ん?どうやら
支度が整ったようだぞ」そこへ源佐を
案内してきた女が炙った魚と杯を乗せた
膳を運んできた。音も無く気配も無く…
「うぅむ…いつもながら美味い酒だな」
「いかにも…」とかくこういう時は
酒が進むものである。話の切っ掛けを
模索している源佐…それを察したように
晴明が話題を切り替えた。「鬼が出た
そうだな…」「そ、そうなんですわ!
なんとも恐ろしい事で…」「およその
事はわかったが公達の中にもな、いるのさ」
「えっ?鬼ですか!」「いやいや、違うよ
見た者がいるってことさ」「あぁ…驚いた」
「ははは…すまぬな‥」「いえ、とんでも
ない」「うむ、実はな帝のお耳にも入って
いるのだ…相談も受けているのさ」「そう
でしたかぁ!」「源佐殿、今宵はどうだ?」
「は?何です…」「鳥辺野へさ」「えっ?
行くんでっか…」「当たり前だろう…」
「どうした、恐いか」「は、いえ!
晴明様と一緒なら、何処へなりとも」
「そうか、ならば今宵、行ってみよう」
「畏まりました」そう言う事になった。
話が早い…月が出始めた頃、源佐師匠は
松明を持ち、晴明の後に続く…春の
夜風が心地よい。僅かな月明りの中を
何かが飛ぶ…ひらひらと。蝙蝠だろう…
四、五匹はいるようだ…
掘川端の柳の道を南へと歩みを進める…
四条を越えまもなく五条へ差し掛かる。
この当時、五条と呼んでいたのは現在の
松原通りの事である。やがて五条を東へ
入る…じじっと松明が音を立てる。
晴明の白い狩衣が月明りに映える…
飄々としいている晴明…時折、辺りを
見廻す源佐師匠。結構、怪しく見える…
まもなく鴨川の橋に出た。
きっ、ぎぎぃっと橋が軋む…思わず首を
竦める源佐師匠…徐々に空気が重く
感じられるようである。そうして…
まもなく六道の辻…ここはあの世と
この世の界、彼岸への入り口である。
その六道の辻を過ぎてゆるゆると
坂道を行くと前方に大きな影が動く…
驚いた源佐が立ち止まり、目を凝らすと
それは…死人を背負う男と分かった。
晴明と追い抜き様に改めて振り返ると
老父だろうか、亡骸を背負い鳥辺野へ
向かうのであろう…片手拝みしつつ
源佐師匠は晴明の後を追う…とうとう…
来てしまった。荒涼とした鳥辺野…
所々に灯明だろうか、灯りが揺れて
いる。鬼火のように見える…漂い始めた
死臭に源佐は都の貧しさ、哀しさを
思い知らされるのであろう…沈鬱な面持ち
で歩いて行く。晴明は黙ったまま屍の
横を進む。もう辺りには累々たる骸、屍が
横たわる…足の踏み場も無くなってきた…
だが、晴明は墨黒の闇の中を歩いて行く…
源佐師匠は、付いていくのに苦労している。
「ふう…やはり不思議な御方じゃ…」
足元を照らさないと歩けない。骸が
ぼうっと浮かび上がり、よろけてすぐ側の
屍を踏みそうになった。濃い死臭が衣に
染み付いているだろう…後ろに亡者達が
付いて来るような気がする。ふと、源佐は
自分も死んでいるのではないかと思う…
生きている実感が無い…ここは冥界なのだ
…地獄なのだ…無限の闇だ…と、その時に
声がした。「ついたぞ。源佐殿」はっと我に
返った源佐であった。「これを見ろ」
松明の灯りに照らし出されたのは人形の
窪み。そしてきれいに並べられた骨…
古い骨、真新しい骨…「晴明様、これは
なんでっしゃろか?」「うむ、ほほう…
何やら粉が掛けてあるな…」それは頭蓋骨
…腕、肋骨、足の骨にも…一つまみすると
臭いを確かめている晴明…「なんです?」
「なるほど、分かったぞ‥源佐殿」「は‥」
「これは反魂の術だ」「はんごん‥?」
「ああ、人骨を集めて蘇らせるのさ」
「そんな事ができるんでっか!」「簡単では
ないがな…但し、時が経ち過ぎては出来ぬ」
「ほおっ、驚きましたわ…」「魂魄両方を
入れるのは素早くしないとだめだ。」
「魂魄?」「そうだ。魄は死んで骨に
なってもしばらくはこの世に留まるが
魂は七日かけて彼岸へ行ってしまうからな
…」「そうでしたんかぁ…じゃあ、もしも
魄だけならどうなりますぅ?」「うむ、
それはな源佐殿、人の形はしていても
人ではないのさ」「では‥作蔵が見たと
いうのは…」「そうだな、ここにある
骨は色んな物がある。一人や二人では
ないな。これでは化け物しか出来ぬよ」
「どうなさいます?このままでは大変な
事になりますやろな…」「ふふふ、まあ
案ずるな。この程度の反魂なら長くは
持つまい…腐り行くのを止められぬ」
「どのくらいで…?」「二三日だろうよ」
「すると作蔵が化け物を見てからそろそろ
三日…」「そうだ、今宵さ。さあ松明を
消して、待とうか」「するとここに
来ますんで?」「ああ、必ずな」そうして
松明は消された…濃い闇に包まれる…
「うん、どうやら奴らが来たようだぞ…」
息を殺して草叢に身を隠す源佐…
背中に冷たい物がつたう…闇の中から
ぼうっとした灯りが見える…松明だ…
ゆうらりゆうらり揺れながら近づいて
くる…落ち着かない様子の源佐…
やがて草木を踏みしめる音と供に、ぐじゃ!
ぺきっ、ばりん!とおぞましい音が
混じる…そして灯りの中に浮かぶ、黒衣の
男…後ろには天を突くような大男が続く…
血の様に赤い目が光る…だが片方の目は
眼窩より垂れ下がり、顔の半分は腐って
いる…身体のあちこちも崩れていて腐臭が
凄まじい…源佐は身体中の血が凍るような
気がした。「確かにこれは鬼だ‥人なんか
じゃ無い!」心の中で叫ぶ…口の中が
からからに乾く。逃げ出したい…いつまで
正気でいられるか分からない…どんどん
近づいてくる…がたがた震えが止まらない。
「源佐殿、大丈夫さ。結界を張っておいた…
向こうからは見えないよ」「はい…」
既に、背中はびっしょりと脂汗をかいて
いる。静かに微笑む晴明に漸く自分を
取り戻した。黒衣の男と崩れながら付いて
行く化け物が目の前を通り過ぎて行く…
一際、大きな人形の前で立ち止まると
黒衣の男が印を結び何やら呟き始めた…
その時、横に立っていた化け物が身体を
大きく揺らし始めた!「ぐがぁっ…
げぼおぅっ…ぎょげぇっ!」「くそっ!」
どすんと膝を付き、もがきはじめた…
どろどろとどす黒い血が流れ出し…
ばらばらと肉が腐り落ちて行く…
「ちっ、これまでか…役立たずめが!」
赤々とした灯りに照らされた男の頬が
歪む…「くかかかっ…まあよいわ!
また骨を集めて術を施すまでの事じゃ
ここならいくらでも集まるからのお…
今宵必ず、帝を殺し、わしの術で
蘇らせ思いのままに操るのじゃ…」
「唐土より渡りついて百年余り…
必ずこの日の本の国を我が物にして
くれるわい…げけけけけけ〜」そう言い
残すと男は松明を持ち、再び鳥辺野の
闇の中へと消えていった。「さあて、もっと
近づいて見るとするか…」「戻って来まっせ
…」「まあな、ん?源佐殿、あれは
祭壇のようだぞ…」「え?どこに…」
「あの茂みの影さ」そう言って晴明は
蝋燭に火を灯して祭壇に近づく…
さして中央に掲げられている札には
赤い文字で(大元尊神荼枳尼天)とある。
「ほほう、これは凄いな…」「なんです
…それは?」「これか、これはな、滅多に
見られる物ではないぞ…いいや俺を含めて
三人くらいだろうな…これは賀茂家に
伝わる秘法だからな」「賀茂家?」
「そうさ、俺の師匠のな…」「す、すると
…あの男は…」「ああ、違うさ‥あんな
下司はいないからな‥それにあいつは
人ではない…」「す、すると鬼なんで?」
「ふふふ…、これさ‥」晴明が何かを
摘んでいる。「へ?なんです…犬の毛の
ようにも見えますなぁ…」「うむ…
これはな、狐だな‥」「きつねぇ?」
「それもただの狐ではないな‥妖狐だな‥」
「物の怪なんで?…」「いいや‥もっと
性質が悪いな、この赤茶けた毛の色を見ろ
本朝の狐ではないぞ‥唐土の妖狐だ‥」
「もろこし…」「そうだ‥なるほどなぁ‥
あれが伝え聞く妖狐なのか‥齢一千年の
狐‥こんな所に隠れていたのか…」
「晴明様、ご存知なんて゛…」
「…かつて、吉備の真備公を殺めよう
とした事がある…」「なんか、どえらい
化け狐ですなあ〜…」「なあに、相手の
正体が知れたのだ‥打つ手はある‥」
そう言うと祭壇の前に進み出て印を
結ぶと低く呟くように呪言を唱え始めた…
時に高く、低く続く…そうして先程の
赤茶けた一摘みの毛を祭壇の香炉に入れた…
すると一際濃い紫色の煙が立ち昇る…
何やら血の臭いがしてくるようだ…
「ようし、良いぞ。奴が戻ってくる‥
源佐殿、結界の中へ‥」「はいっ!…」
あわてて飛びこむ源佐。「晴明様早く!」
「いや、俺はここで待つよ‥」やがて濃い
闇の彼方からぼうっとした灯りが見えた。
ゆうらり、ゆうらり揺れながら…少しづつ
少しづつ、近づいてくる…「源佐殿‥
そこを動くなよ!」そして晴明の姿が闇に
溶けて行く…黒衣の男が近づいてきた…
右手に松明を持ち、左の小脇には瓶を
抱えている。かさり、かさりと足音が
してくる…瓶からはぴしゃ、ぱちゃり‥と
音がする…漸く黒衣の男が祭壇の前に
戻って来た。瓶を祭壇の上に置き、松明を
掲げると今度は、辺りの屍から骨を集め
始めている。黙々と拾い集めている…
そして、剥ぎ取った着物で骨を包むと
再び、祭壇の前に戻り包みを解く…
黒衣の男は中の骨を足元の人形に並べ
嬉々としてあれこれ並べ替えている…
真新しい骨からは燐光が輝きそれが
徐々に人の形を作り始める…男は満足
そうな笑みを浮かべると、祭壇から
瓶を手にして人形へ来ると、蓋を取り
赤黒い液体を骨にかけている…ぞぶり‥
ぞぶり…むせ返るような血の臭いが
辺りに充満する…ぞぶり‥ぞぶり…
びしゃびしゃとかけていく…男は一滴
残らずかけ終ると瓶を側に置き、祭壇の
前に佇む…そして両手を大きく広げると
印を結び、呪文を唱えだした。陰々滅々…
地の底から響くような呪文である…
晴明も祭壇の影で印を結んで静かに
呪言を唱えている…ナウマク、サマンダ
ボダナン、キリカ、ソワカ…すると突然
黒衣の男が喉を掻き毟り、凄まじい叫び声を
上げた。口から血を吐き、その場に倒れると
ごろごろと人形の上を転がり出した…
ごろごろ…ごろごろ…並べられていた骨は
ばらばらになり、頭蓋骨も蹴り飛ばして
のたうちまわり、夥しい血を吐いている…
身体は大きく捻じ曲がり、顔が崩れていく…
既に手足は殆ど、骨だけになり眼窩からは
目玉が流れ落ちた…辺りには臓物が飛び散り
がしゃがしゃと骨がぶつかる音だけが
聞こえる…ぼろ布の様な黒衣の裂け目から
尾が見えている…一、二、三、…五、六…
「やはり九尾か…」やがて男の身体は
濃い紫色の煙に包まれ見えなくなった。
今は何の音もしない…次第に紫色が薄れて
きた…「源佐殿、もういいぞ‥」「はあ…」
声を掛けられた源佐が結界の中から恐る
恐る出てきた。祭壇の松明を取り、薄く
消え行く煙を照らすとそこには、散らばった
骨と襤褸屑のような黒衣だけが残っていた。
男の姿は何処にも無い…その黒衣に松明の
火を寄せながら「これで全ては終わったぞ‥
何もかもな…」「何処へ消えたんで?…」
「うむ、消滅したのさ、もう二度と現れぬ…
二度とはな‥」火の点いた黒衣から赤々と
した炎が地を這うが如く燃え広がり、祭壇
へと辿り着き、たちまちめらめらと音を
立てて包み込む…そして天空を焦がすかの
ように業火が立ち昇る…炎に照らされて
辺り一面、真っ赤である。その中で晴明は
祭壇にくるりと背を向けると、微笑みながら
歩き出す…「さあて、そろそろ戻ろう‥」
「ふう〜‥」大きく息を吐くと漸く、面に
安堵が広がる…振り返ると炎の中で音も無く
祭壇が崩れて行った…
気が付けば、何時の間にか靄は晴れている。
傾き始めた月が照らし出す景色は、鳥辺野…
だが、不思議と恐ろしさはもう無かった。
銀色の月明りの中を都へと向かう、二人の
影…「どうだ、源佐殿‥これから酒を
飲みながら暁を迎えるというのは…」
「はいぃ、よろしおますなぁ‥あのぉ‥
ところで晴明様…どのような術を‥」
「ああ‥あれか、うむ、荼枳尼天の秘法を
用いたのさ…但し、奴が反魂なら俺は
その逆、奴の血肉の全てを食い尽くす
よう呪言を唱えた…奴の毛を香炉に
入れたのはその為さ‥」「なるほど!
それで跡形も無くでっかぁ…」「そうだ‥
骨までもな‥だから、門外不出の
秘法なのさ‥今では俺にしか出来ぬよ…」
源佐師匠はこの時、改めて晴明の恐ろ
しさを思い知らされた…この都で鬼を
滅ぼす事の出来る陰陽師、人智を超えた
異界を見通す男…安倍晴明…この男の
目にはいったい何が見えるのだろうか…
闇は闇で無くなる…この男のまえでは…
「晴明様、作蔵はどうなりますやろ…」
「おお、作蔵か‥何、今頃いびきをかいて
寝ている事だろうよ‥もう大丈夫だ」
「はあ〜、安心しましたわ…」まもなく
六道の辻‥その先は現し世…鴨川を
渡る風が心地よい。東の空が薄く青く
変わり始めている…まだ都はひっそりと
して、暗い闇の中である。人と魔物が
同じ屋根の下で暮らしていた時代…
闇と光明がお互いの領域にのみ存在し
混在していなかった時代…人々が
闇を恐れていた時代…やがて喧騒の中
それぞれの暮らしが始まる。忙しく
往来する荷車や、様々な人々…変哲の無い
日々の営みが繰り返される…
完