丸亀の坂本龍馬の謎
(右の二枚は、)坂本龍馬が二十七歳の文久元年十月(1861)に讃岐丸亀に剣術修行に来て、撮ったと言われている写真です。
横のいくぶん年長と考えられる人物は、
丸亀の
矢野道場の指南役・原吉雄(はらよしお)という人物です。
撮影者は、丸亀藩士の
百々主計(どうどかずえ)という人だと言われています。(龍馬堂管理人の松裕堂さんのメールより)
坂本龍馬?

矢野道場 原吉雄 指南役

矢野道場 原吉雄 指南役

坂本龍馬?

 この下の写真は香川県善通寺市のとあるうどん屋に原敬と龍馬として掛けられていたものを、高知の龍馬研究会の主幹であった江藤治雄氏が偶然発見し、香川県丸亀市の金崎正雄氏(下の写真の鵜丸紙版所有者、鵜丸紙版は所在不明)の協力も得て原吉雄指南役の子孫を大阪、東京に捜し出し、東京の原猛氏の秘蔵していた上の写真(ガラス原版)に遭遇したことが、龍馬研究に記されております。平成60年の事でです。

 矢野道場の道場主、
矢野市之進の子孫はアメリカに移住し連絡は取れないそうです。撮影者の百々主計については、長崎に遊学しオランダ人から写真術を習得して丸亀に帰藩、明治後は写真館「百々香影」を経営したとされており(宮地佐一郎著、龍馬百話 p61坂龍飛騰)、電話帳では百々姓が現在も丸亀市に多く残るものの記録が残っているかどうかは不明です。真偽の手がかりはこのように写真以外には無いようです。

長崎の上野彦馬写真館での龍馬
(慶応2年)

湖海苔屋

当時の丸亀は瀬戸内海に面した京極氏6万石の小藩であり、中心部の亀山に築かれた丸亀城は今でも石垣の美しさで有名です。当時土肥大作という勤王の志士がいて矢野道場の近くに家がありました。
日本の湿版写真の開祖は上野彦馬ということになっていますが、この写真の主が龍馬ならば
日本写真史を塗り替える大発見ということになります。上野彦馬が文久2年(1862)に上野彦馬撮影局を開業する前年の文久元年、四国の小藩にアマチュアながら湿版写真師がいた事になりますから。彦馬がポンぺに学んだあとほぼ独学で写真術を始めたことは有名ですが、百々主計は彦馬と無関係に長崎でオランダ人から写真術を習得していたということでしょうか。

2005年4月ごろ松裕堂さんが掲載しておいでた丸亀の龍馬について質問させていただき、上記のお返事を頂いて触発され、私:湖海苔屋は「丸亀の龍馬」についての研究をボチボチ開始したのです。

丸亀の龍馬1

丸亀の龍馬2

丸亀城

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