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両国高校定時制

都立両国高校定時制
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空襲下での授業

学校は大正13年に三中夜学としてスタートしました。
ちょうど、そのころに宮沢賢治の詩集「春と修羅」が世に出ました。その作品の一節です。

春と修羅  
mental sketch modified)

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のはらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんのてん曲(ごく)模様
(正午の管楽よりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
・・・・・・・・・・・・ 

つづいて、川端康成の「伊豆の踊り子」や島崎藤村の「夜明け前」などが現れます。大正とはどんな時代だったのでしょうか。これらの作品からみると精神的にはかなり豊かな時代だったように思われます。
ところで、学校創立のころに生徒はどのように学んだのでしょうか。どんな先生がいたのでしょうか。その様子を知りたいと思いました。そこで、80周年記念誌を調べてみましたが、そのころの学校の様子を記したものはありませんでした。でも、これはしかたがないことです。すでに80年も経っているのですから。・・・・・・・・・・

それから時は過ぎて、学校は桂友中学に名称が変わります。80周年記念誌には昭和17年の卒業生が思い出を寄せています。それ読むと戦時下での厳しい学校生活が窺えます。
「国家総動員法が制定され、国民徴用令により軍事産業に労働者を徴用し、中学生や未婚女性まで強制的に勤労動員する体制がしかれました」と記しています。
資源に乏しい日本はアメリカに対抗するために精神力で立ち向かうことを余儀なくされました。衣食住でも窮乏生活を強いられました。
そんな大変なときによく勉強を続けたものと思います。
つづいて、昭和20年の卒業生が戦時下で勉強した思い出を寄せています。

入学当時は教室に電気を赤々とつけて勉強することができた。しかし戦況が不利になるにつれ、警戒警報が発せられると窓のカーテンを閉めざるを得なかった。空襲警報が発せられると消灯し直ちに帰宅させられた。
授業は空襲で校舎が全焼するまで続けられた」と記しています。

これらの思い出を読むと大変な苦労をして勉強していたことが窺えます。先輩がたが灯火管制の下で机に向かっている様子が目に浮かびます。思わず「がんばってください」と叫びたくなります。今では、空襲下での勉強など考えることもできません。このような状況下での勉強には驚きさえ覚えます。学びたい思いの上に学校は成り立っていると思います。
なお、80周年記念誌に掲載されている卒業生の思い出を一部引用させていただきました。
2007.11.10)