彭徳懐(ボン・ドーファイ ほうとくかい)
−毛沢東に、なぶり殺しにされた、誠実な将軍
                        2012年3月 Minade Mamoru Nowa
出典:ディヴィット・ハルバースタム著
 
『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争 下』 文藝春秋 09年10月発行

彭徳懐は毛沢東の腹心だった。農民の将軍だった。
彭徳懐は政治的な問題に関しては常に毛沢東に従った。

「最初は兄貴分としての毛沢東に、
次に教師としての毛沢東、最後には指導者としての毛沢東に」従った。

毛沢東は、彭徳懐を「老彭(ラオポン)」と呼んだ。
彭徳懐は、毛沢東を、親しみをこめて、「老毛(ラオマオ)」と呼んだ。

中国共産党指導部のなかで、毛沢東に対して、このような呼び方を
使うことができたのは、彭徳懐だけだった。

軍事問題などで、毛沢東が、やや空論を述べすぎていると思われるときには、
内輪で、毛沢東のことを「教師」と呼んだりもした。
だが彭徳懐は、毛沢東に、へつらっていたわけではなかった。
しかし、このような彭徳懐の独立した姿勢が、結局は、高くつくことになった。

朝鮮戦争が終わってから数年して、彭徳懐は、
いくつかの政治問題で毛沢東に異論を唱えたので、
晩年には【毛沢東の敵】、すなわち【人民の敵】とされた。

「老彭(ラオポン)」と呼ばれた彭徳懐は、投獄され、辱められ、
残虐に叩きのめされ、ついには、拷問死した。



彭徳懐は新たに作られた軍隊の戦術について、
抜け目のない現実的な感覚をもっていた。
その軍隊は戦う場合、武器に関しても、兵力に関しても、
ほとんど常に敵軍より劣勢にあった。

彭徳懐は1934年、中国共産党の軍事指導者の破滅的な戦略に
異議を唱えたことがあった。その軍事指導者とは、モスクワが
中国に派遣してきた、硬直的なプロシャ人、オットー・ブラウンだった。

彭徳懐の見解では、ブラウンの戦術は絶望的なまでに伝統的で、
中国共産党の脆弱な軍事状況に適したものではなかった。

戦術決定の闘争で、彭徳懐がブラウンに勝ったことは、
長征における最初の大きな勝利だったといえる。
彭徳懐と毛沢東を固く結びつけたのは長征だった。
それは究極の試練だった。逃げ、かつ戦いながら
一万キロ以上を移動した大行軍だった。
戦った相手は、順不同で挙げれば、蒋介石軍、各地の軍閥、
険阻な地形、きびしい気象条件、そして常につきまとう飢餓だった。

中国南東部を出発したとき8万人だった部隊は、1年と3日後、
はるか北部の荒涼たる貧困の地に着いたときには、8千人ほどに
減っていた。

長征の最終段階に陜北(シヤンペイ)の呉起(ウーチー)で、
20日以上にわたる困難な戦いの後、国民党の騎兵隊5個連隊、
四千〜五千の軍勢が攻めてきた。

毛沢東は彭徳懐に攻撃部隊を陣地に寄せつけないよう反撃を命じた。
彭徳懐がその任務を達成したとき、毛沢東は彭徳懐のために六言詩を書いた。
「山高路遠坑深、大軍縦横奔馳。誰敢横刀立馬、惟我彭大将軍)と。

彭徳懐を理解し、彭徳懐が、なぜ、あれほどよく戦ったのかを知ることは、
ごく普通の中国兵士を理解することでもある。

中国兵士たちを駆り立てた不満を理解すれば、
人民解放軍の成功を理解することができるだろう。

中国兵士たちの信念は単純である。中国兵士たちの信念は、
この上なくきびしい生活のなかで生まれたものだった。

彭徳懐は、「金持ちは残酷だ。貧乏人は単に貧しいだけでなく、
富裕層に対してまったく無防備である」と信じていた。

彭徳懐は、「貧乏人の日常生活には基本的な残忍さが、四六時中、ついて回る。
それを変えるための闘争なら命を捧げるに値する」と信じていた。

彭徳懐は、1898年、極貧の農家に生まれた。
母親は彼が幼いときに亡くなった。
父親は病気で働くことができなかった。
8人家族は、1エーカー(約40アール)ほどの山畑を頼りに生きていた。
彭徳懐は早くに学校を止めた。家の稼ぎを手伝わなければならなかったからだ。
彭徳懐は、いつも、基本的な不公平と、容赦のない残酷さを思い知らされていた。
4人兄弟の一番下の弟は、生後6か月で飢死した。

子供のころ、食べ物をもらうために、祖母と一緒に物乞いに出された。
彭徳懐はそれが嫌で、二度と物乞いをやろうとしなかった。
その代わりに、森へ行って薪を切り、わずかな値段で売った。

何年も後に、かれが苦い思いで語ったのは、降りしきる雪と
身を切るような風のなかを物乞いに出ようとする70歳の祖母のことだった。
祖母は杖をついて、2人の弟を連れていくのである。
弟の一人は、まだ4歳になっていなかった。

祖母は少しばかりの米をもらって帰ってきた。

彭徳懐は「わたしは乞食で得た食べ物を食べる気にはならなかった」と
回想している。

彭徳懐は、子供のころ、わずかの金をもらうためにあらゆる雑用をした。
薪を割ったり、魚を捕ったり、石炭を運んだりした。
金持ちの農家のために牛飼いをやった。13歳になると、
幼年労働者として炭鉱で働いた。坑内から水をくみ出す大きな車輪を回した。
一日、わずか数銭で石炭運びもやった。子供には重労働だった。
しかもその炭鉱が倒産して一年分の賃金がふいになったことで、
一段とつらい経験になった。彭徳懐が後に語ったように、背中が少し曲がって
しまったのは、そのときの仕事のせいだという。かれは約束された賃金の
半分を懐にして家へ帰ってきた。草履を買えないので裸足で、
足の皮膚は傷だらけだった。

「お前は汚れているし、顔色も悪い。人間のようには見えない。
あんなところで、丸二年も、ただで働いたわけだ。」
父親はそういって泣いた。
もっと大変なこともあった。その地方で大きな干ばつがあり、
地主や商人たちは、価格をつり上げるために穀物や米を貯めこんだ。
彭徳懐はそれに抗議する農民運動に参加したため、逮捕されないように
村から逃げ出さなければならなくなった。

1916年3月、18歳の誕生日の直前、かれは湖南省の軍隊に入隊し、
一兵卒として六元の月給をもらい、そのうち三元を実家へ送金した。
一家は、その三元で、ぎりぎりながらも暮らすことができた。
それが彭徳懐の軍隊生活の始まりだった。

彭徳懐が入隊した正規軍は、軍閥との戦いを経て、蒋介石を
指導者にいただくようになった。彭徳懐は政治意識を高めていった。

蒋介石軍ではよくあることだったが、兵士の給与が支払われない
こともあった。彭徳懐は、最初のうちは、蒋介石は真の革命家であり、
より公正な新しい中国の創造を意図しているものと信じていた。

だが、蒋介石軍での生活のなかで、蒋介石に対する尊敬の念は薄れていった。
彭徳懐は、徐々に共産党に傾倒するようになった。

当時の彭徳懐らは「革命を行なうために入隊した。軍閥、腐敗官吏、
土豪劣紳を倒し、地代や金利の引き下げを実現するために入隊した」
のであった。

ところが、蒋介石軍では、革命の話も、地代や金利引き下げの話も
聞かれなくなった。命令されるのは「共産党弾圧と農民組合撲滅」だけだった。
だれがそんなことを命令するのか。ほかならぬ蒋介石が命令するのである。

兵士は月6.5元の月給をもらうが、食費に3.3元取られるので、
3.2元しか手元には残らない。まったくみじめな境遇だった。
麦わら帽さえ被れず、安煙草も吸えなかった。
もちろん親や妻子を養うことなどできなかった。」

彭徳懐は階級が上がったので、指揮下の部隊を使って、
たちの悪い地主を懲らしめた。しかし軍紀違反で逮捕された。
一部の兵士たちの助けで、彭徳懐は蒋介石軍から逃げ出すことができた。

1928年2月、中国共産党への入党を認められた。
彭徳懐は、正規の教育を受けていなかったが、中国共産党の
部隊が力をつけるまで、どのような戦術をとらなければならないか、
という点はすぐに理解した。

1934年には、彭徳懐の考え方は、毛沢東の考え方と、ほぼ似通ったものに
なっていた。そして毛沢東と共に、中国共産党の軍事戦略の最初の設計者と
なった。敏捷なゲリラ戦争を戦って、蒋介石の国民党軍に正面からは
挑戦しない、迅速に移動して敵がもっとも無防備な状態のときに、
致命的な攻撃を加える、という戦略がそれだった。

以上