山本五十六の
  対米英 3大貢献


真珠湾奇襲攻撃の大成功で
       米国は対独参戦ができた!


真珠湾奇襲攻撃は
米国国民の戦争反対意識を粉砕した!


真珠湾奇襲攻撃は
米国国民の日本に対する
強い怒り
憎しみを大きく燃え上がらせた!


真珠湾奇襲攻撃の成功は、山本五十六が主導した10年あまりの
空母建造、零戦開発製造、航空魚雷改善、パイロット猛訓練の賜物ではあるが、

真珠湾奇襲攻撃の成功を願っていたルーズベルト大統領の
真珠湾停泊の太平洋艦隊の将兵は見殺しにするという
冷酷な決意
がなければ、到底、成功しなかったと思う。

真珠湾奇襲攻撃の成功は、八百長(やおちょう)勝負であった。

You Tube: ルーズベルト大統領の戦争宣言演説  7分38秒

この演説を聞くたびに、議員たちの拍手の凄まじさに驚かされる。この演説にある通り、
奇襲攻撃は真珠湾だけではなく、太平洋の島々と、東南アジア全域て゜行われた。

日本の陸海軍の最高指導者たちは、奇襲攻撃に対する米国国民の怒りが、
彼らが想像できなかったほど、凄まじいものになるとはまったく考えていなかった。

当時の日本政府においても、陸海軍においても、昭和天皇、山本五十六を含めて、
当時の日本の最高指導者たちは、誰一人米国や、中国の国民感情について
意見を述べていない。旧大日本帝国陸軍の御用機関に成り下がっていた大新聞も
米国や、中国の国民感情について意見を述べていない。

日本の国全体が、相手国の国民感情について100%情報音痴であった。
1941年当時のあまりにも無知で、あまりにも愚かであった
当時の日本政府、陸海軍の最高指導者たちは、

ある時点で、米国と和平ができると思って
対米開戦を決断したのである。


中国の蒋介石政権との和平すらできなかったのにである。

 



英国軍のダンケルク撤退(1940年5月10日〜6月4日)、フランス降伏(1940年6月22日)以後、
1941年、ヒトラー・ドイツは、英国以外の全欧州大陸を席捲(せっけん)していた。

ヒトラー・ドイツのソ連侵攻(1941年6月22日)以前の1941年春の時点での
欧州と米国・中南米の情勢は次の通りであった。
@
ドイツとイタリア(枢軸国)は、ソ連を除く欧州大陸全域を軍事支配していた。
A
ヒトラー・ドイツの全世界支配戦略に対抗して戦っているのは英国だけであった。
B
ドイツとイタリア(枢軸国)の宣伝が成功して、
米国においては、国民も議会も、ドイツと戦争する気持ちはまったくなかった。
C
ドイツとイタリア(枢軸国)は、中南米諸国における革命を扇動していた。
中南米において革命が頻発すれば、米国の安全は大きく脅かされることになる。
D
英国が敗北すれば、米国はドイツから直接攻撃をうける危険に曝される。
E
英国海軍の戦闘艦艇や輸送船は、英国が敗北すれば、ドイツとイタリア(枢軸国)
ものになり、米国の安全を脅かす道具になる。

英国は、敗北・滅亡の瀬戸際に立たされていた。
危機にある英国を救い出すために、

米国のルーズベルト大統領は、
一刻も早く、対独参戦に踏み切りたいと焦っていた。

しかし、上述の通り、米国国民と米国議会は、

ドイツと戦争する気持ちはまったくなかった。

しかも、ルーズベルト大統領は、1940年秋の大統領選挙において、

「米国の若者たちを欧州の戦場には送らない」と公約していた。

ルーズベルト大統領は、どうしても、対独参戦に踏み切れないでいた。

米国の大統領選の直前、あまりにも無知で愚かであった旧大日本帝国の
陸軍は、昭和天皇と海軍の強い反対を押し切って、1940年9月27日、
ヒトラー・ドイツ、及び、イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結した。

当時、厳しい言論弾圧の結果、完全に旧大日本帝国陸軍の御用新聞
成り下がって、連日、日中戦争における「皇軍の赫々たる戦果」報道に
明け暮れていた、大手新聞を含む日本のマスコミは、このあまりにも
愚かであった日独伊三国軍事同盟締結を大歓迎する報道を行い、
日本国民を地獄への道へ追いやった。

ルーズベルト大統領とマーシャル陸軍参謀総長は、1940年10月、
3選されたルーズベルト大統領の政権の海軍長官に就任した
共和党の大物政治家、ノックス氏の助言により、米国海軍きっての
日本通といわれ、皇太子時代の昭和天皇にダンスを教えたこともあると
いわれる海軍情報部極東課長、マッカラム海軍少佐の進言による
日本挑発計画、すなわち、日本海軍に真珠湾奇襲攻撃させることによって、
日本と軍事同盟を結んだヒトラー・ドイツに対米宣戦布告をさせるという計画を
組織的に実施することになった。

マッカラム少佐は、ルーズベルト大統領と同様、
【日本抹殺論者
(日本人皆殺し論者)で、
日本が、日独伊三国軍事同盟を締結したことは、
米国が対日開戦をして、さらに、対独参戦して、
日本とヒトラー・ドイツを、地球上から抹殺するための
絶好の機会と信じていた。

日本挑発計画
@
太平洋の英国軍事基地、特にシンガポールの英国軍事基地を
米国が使用できる協定を結び、公表する。
A
オランダ領東インド(現在のインドネシア)の軍事施設を米国が使用できる協定を結び、
公表する。それと共に、オランダ政府は米国がオランダ領東インドで軍需資材を
調達することに全面的に協力するとの協定を結ぶ。
B
中国の蒋介石政権にパイロット付き戦闘機派遣を含む、可能なかぎりの
あらゆる軍事援助を行う。
C
遠距離航行能力を持つ重巡洋艦を旗艦とする艦隊をフィリピン、もしくは、
シンガポールに派遣する。
D
二つの潜水艦艦隊をフィリピン、もしくは、シンガポールに派遣する。
E
ハワイ諸島にいる米国太平洋艦隊の主力の維持を続ける。
(1940年5月、ルーズベルト大統領は米国の主力艦隊を大西洋からハワイへ移駐させた。)
F
オランダ政府に、日本の不当な経済的要求、特に石油に関する要求を、
断乎、拒否させる。
G
英国と共に、日本に対して、全面的な通商禁止を行う。

マッカラム少佐は、日本海軍きっての実力者である山本五十六が、
ロンドン条約当時から、対米開戦を主張する艦隊派であり、
対米開戦のための空母建造、艦載機開発、航空魚雷改良を主導し、
対米開戦のためのパイロットたちの猛訓練を主導していたことを熟知していた。

彼は、山本五十六が、日独伊三国軍事同盟に強硬に反対していたことも、十分、
承知していた。しかし、対米開戦に関しては、山本五十六が10年前から
真珠湾攻撃を口
(くち)にしていて、艦隊派であることを熟知していた。

「対米開戦論者のヤマモトは、この計画に挑発され、
必ず、真珠湾奇襲攻撃をする」と確信していた。

日本の海軍軍令部、海軍省、さらには第一航空艦隊の司令部は
真珠湾奇襲攻撃に猛反対した。しかし、
「この作戦を承認しないならば、オレは連合艦隊司令長官を辞める」と言って
猛反対を押し切って、山本五十六連合艦隊司令長官は真珠湾奇襲攻撃を強行した。

真珠湾奇襲攻撃は、米国太平洋艦隊の主力戦艦をことごとく撃沈・撃破すると同時に、
米国国民と米国議会の戦争反対意識・対独参戦反対意思を
完全に、木っ端微塵
(こっぱみじん)に粉砕した。

3日後、ドイツのヒトラーが、日独伊三国軍事同盟を守って、米国に宣戦布告した。
ヒトラーは、「米国こそユダヤ人の本拠地」と米国を憎悪していたから、
米国に宣戦布告することになんらの迷いはなかった。

すべて、マッカラム少佐が予想した通りであった。

真珠湾奇襲攻撃を成功させるための、機動艦隊創設、すなわち、空母を建造し、
艦載爆撃機を製造し、航空魚雷を改良し、その上で、パイロツトを訓練するという
ことは、1年〜2年の短期間でできることではない。

【山本五十六神話】の伝道者たちの言う、山本五十六が
真珠湾奇襲攻撃を開戦数年前に思いついたということは事実に反する

山本五十六が対米開戦に反対していたということも事実に反する。
反対するどころか、
山本五十六が対米開戦を主導したのである。

海軍次官に就任以降、山本五十六実質的には【海軍の天皇】であり、
「海軍の中では、誰も、山本五十六に楯突く(たてつく)事はできない」存在であった。

もし、山本五十六が対米開戦に強く反対していたならぱ、

昭和天皇が願っていた
海軍が反対すれば対米開戦はできない」実現したはずである。

真珠湾奇襲攻撃は、
山本五十六の10年あまりにわたる努力で可能になったのである。
それが、ルーズベルト大統領の冷酷な決意と相俟って、
奇跡的に大成功したものである。

山本五十六連合艦隊司令長官の真珠湾奇襲攻撃の、
まさしく、劇的な大成功によって、


ルーズベルト大統領は、誰憚る
(だれはばかる)ことなく、
正々堂々と、英国を救うため、ドイツとの戦争を始めることになった。

英国のチャ−チル首相は、山本五十六連合艦隊司令長官の
真珠湾奇襲攻撃の劇的な大成功
偉業に歓喜・感激した。



第1頁・第2頁より抜粋

日本語版 まえがき

1941年12月7日の日本の真珠湾攻撃に至るまでの経緯と決定事項に関して、
これまでに語られてきたさまざまな多くの事項に対して、本書は疑問を投げかけ、
主張を異にするものである。

著者である私の唯一の目的は、海軍基地及び周辺の陸軍施設に破壊的攻撃を
もたらすに至った出来事の真相を明らかにし、それがフランクリン・ルーズベルト
大統領とその軍事・政治顧問である側近高官の多くの者にとっては、
決して「奇襲」ではなかった事実を伝えることにある。

本書は、アメリカ合衆国が自由世界を恐怖させた血なまぐさい戦争に、
いかにして介入したか、そのありのままの物語である。

本書は、アメリカの戦争介入が賢明であったか否か、を問うものではない。

太平洋戦争を経験した退役軍人の一人として、50年以上もの間、
米国国民に隠蔽され続けた秘密を発見するにつれて、私は憤激を覚える。

しかし、私は、ルーズベルト大統領が直面した苦悶のジレンマも理解した。
自由を守る戦いに参加するため、孤立主義に陥っている米国国民を説得するに、
彼は回りくどい手段を発見するほかなかった。

そのためには人命を犠牲にするだろうことをルーズベルト大統領は承知していたが、
それが何人になるかは知ることができなかった。

米国国民は、第1次世界大戦において、「世界を民主主義のために安全」ならしめん
とする米国の理想が失敗したことに、幻滅を感じていた。米国国民の多くは、
再び起こる戦争の恐怖から若者たちを守るため、孤立主義を唱え、ルーズベルト大統領が
息子たちを「外国の戦争には」送らないだろうと信じていた。

しかし、ルーズベルト大統領は、米国国民は、自国に対する明らかな武力行為には
反撃するだろうと考えていた。そこで、ルーズベルト大統領が側近たちと示し合わせて
下した決定は、一連の行動を通じて、日本を明らかな戦争行為へと、
つまり、真珠湾攻撃へと挑発することであった。

第357頁より抜粋

11月28日から12月6日の間に傍受された7通の日本海軍無線電報により、
日本は開戦を企図しており、その戦争は真珠湾で開始されることが確認された。
米国の諜報無線局に飛び込んできたその証拠の数々は、圧倒的な説得力を持っていた。

これらの傍受電報には共通事項があった。それは、どの電報もキンメル司令長官には
提出されていないということである。

ハワイにいた米海軍の暗号解読の第一人者は、この件について言い訳を考え出した。
それは、日本海軍は実際に無線封止を守り、真珠湾が攻撃目標になっていることを
どんな方法でも決して漏洩しなかったと。

この言い訳は、米国と日本の人びとに保証した強力な声明であった。

「JN125、あるいは、他の海軍システムに、攻撃を予報する何かが含まれていたと
信ずる理由はまったくありません」。この言葉は、当時、傍受局HYPOの副局長兼暗号
解読主任だったトーマス・ダイヤー少佐が、1983年6月4日付の著者あて手紙の中で
述べている。

しかし、HYPO局の傍受電報記録には、攻撃を予報する電報が多数混じっていた。
以上

米国のルーズベルト大統領、マーシャル参謀総長、空母艦隊のハルゼー司令官と
情報機関の暗号通信解読者たちは、日本の南雲艦隊の真珠湾奇襲攻撃計画を
かなり以前から知っていた。

彼らは、南雲真珠湾奇襲攻撃艦隊が択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)
11月26日午前6時(日本時間)に出航した時点から、艦隊の航行状況を正確に
把握していた。

しかし、南雲艦隊が奇襲攻撃のため真珠湾へ向かっていることを、真珠湾の
キンメル米太平洋艦隊司令長官や、ショート陸軍司令官などのハワイの陸海空軍の
首脳たちには、一切、知らせなかった。

日米開戦後、この事実の隠蔽のため、関係したすべての部門において、
関係する書類
は、FBI によって徹底的に破棄された。
情報機関の暗号通信解読者たちは秘密厳守を誓約させられた。

ルーズベルト大統領とマーシャル参謀総長は、真珠湾奇襲攻撃の当日、12月7日
(米国時間)は、早朝から行き先を告げず外出するという念の入れようであった。
ハルゼー司令官と空母は、真珠湾から数百キロ離れた海洋を航行中であった。


この映画では山村聰が山本五十六を演じている。

参考サイト:ルーズベルトの戦争犯罪



山本五十六が
     対米開戦を主導した


1934年当時から、山本五十六は、真珠湾攻撃を口(くち)にしていた。
「俺も軍人だからね。どうしても米国とやれといわれれば、やってごらんに
いれたいね。真珠湾攻撃は、俺の夢なんだからね。

空母10隻、航空機800機を準備する。機動艦隊を編成して真珠湾と
マニラを奇襲すれば、米国太平洋艦隊と米国アジア艦隊を潰すことは
確実にできるんだよ」と、1934年9月、岩永祐吉(同盟通信社の創立者)邸で、
同郷の斉藤博駐米日本大使に語ったと伝えられている。

山本五十六は、豪語するだけではなかった。彼の強力な主導により、
海軍は膨大な軍事予算を注ぎ込んで空母を次々と建造した。




1941年12月の日米開戦時において、日本が保有していた艦隊型空母は、
赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、鳳翔、龍驤の9隻であった。

米国が保有していた艦隊型空母は、レキシントン、サラトガ、レンジャー、
ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット、ワスプの7隻であった。
この他に日本は4隻、米国は5隻の空母を建造中であった。

ちなみに、当時、英国が保有していた空母は、アーガス、フューリアス、
ハーミーズ、イーグル、アーク・ロイヤル、イラストリアス、フォーミダブル、
ヴィクトリアス、インドミタブルの9隻であった。

1939年には画期的な性能を誇る零式艦上戦闘機が開発・製造された。

1941年12月の日米開戦時において、日本海軍が保有していた航空機は
実に、1,395機に達していた。育てたパイロットは5,537人にのぼる。





1931年以降、日本の航空魚雷は、次々と改良を重ねていった。
平均水深12メートルの真珠湾で使用できる特殊な魚雷が開発された。

その上で、真珠湾の米太平洋艦隊を全滅させるという目的の
パイロットの猛訓練が行われた。

日米開戦直前、南雲機動部隊の草鹿龍之介参謀長は真珠湾攻撃に
反対だった。そこで、同じく反対意見を述べていた大西瀧治郎少将と
戦艦・長門に山本連合艦隊司令長官を訪れ反対論を述べた。

しかし、山本長官は草鹿龍之介参謀長の意見には耳をかさず
持論を滔々と述べた。すると大西瀧治郎少将が
「草鹿君、長官がああまで言われるなら、長官に従って
みようじゃないか」と真珠湾攻撃に反対するとの前言を翻した。
ちなみに、大西瀧治郎少将は、海軍航空隊において、山本長官の
一番弟子といわれていた。

山本長官は草鹿参謀長を長門の舷門まで見送り
「真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。
どうか私の信念を実現することに全力を尽くしてくれ」と
草鹿参謀長の背後から肩を叩いた。
司令長官が部下を舷門まで見送るということは、
かってなかったことであり、その後もまったくなかった極めて異例のことである。

草鹿氏は、戦後、取材記者に対し「あのときは参った」と語っている。

1941年9月に、海軍大学校で行われた真珠湾攻撃図上演習では、
南雲機動部隊は大戦果をあげると同時に、
空母3隻が沈没、空母1隻が大破という結果であった。
宇垣連合艦隊参謀長は、あわてて沈没判定を取り消して、演習を続けさせた。


真珠湾攻撃図上演習に使われた立体真珠湾模型

   山本五十六長官の実像

山本五十六は対米開戦を主導して日本を破滅させたバリバリの艦隊派であった。


山本五十六は、1930年のロンドン海軍軍縮会議には次席随員として参加した。
現地で、山口多聞海軍中佐(当時)と共に、強硬に対米7割を主張して、
若槻禮次郎全権を困らせた。

大蔵省から参加した賀屋興宣氏が、財政面から多額の軍備拡張負担には
堪えられないと言うと、山本五十六は、

「黙れ、賀屋!なお言うと鉄拳が飛ぶぞ!」 と怒鳴りつけた。

青ざめた賀屋興宣氏は、慌てて次の言葉を飲み込んだといわれる。

ちなみに、賀屋興宣氏は1932年の第1次近衛内閣や東条内閣では
大蔵大臣を務めた。大蔵省の最高幹部であった。最高実力者であった。
1929年のロンドン海軍軍縮会議では山本五十六と鼻血を出す殴り合いを
したともいわれる。


この事件は、当時から、山本五十六は、条約派でなく、艦隊派であることを
明確に示している。以後、海軍内で、対米開戦の推進力として
重用されることになった。

連合艦隊司令長官に就任後、山本五十六長官は、毎日、朝夕、30分間入浴した。
この習慣は、戦時中、停泊中、航海中とも変わることがなかった。
毎日、5足以上の靴を磨かせて並べて履き替えていた。

毎日、山本五十六長官のために豪華な食事がつくられた。
食事時には軍楽隊に演奏をさせていた。
注:これは明治時代から続く連合艦隊司令長官としての格式で、
別に、山本五十六が新たに始めたことではないが。


午後8時になると艦橋作戦室で渡辺安次参謀と将棋に耽った。

1942年4月18日の米国空軍のドーリットル空襲があった。
この空襲事件が山本長官のミットウェイ島攻略作戦策定の動機である。

ミッドウェイ海戦大敗北後、海軍の関係者全員に厳しい緘口令がしかれたが、
山本五十六長官は名刺に近況を書き愛人・河合千代子に送っている。

元海軍中佐で戦史作家の千早正隆氏は山本五十六長官が躁鬱病であり、
真珠湾攻撃時は躁状態、ミッドウェイ海戦時は鬱状態だったと語っている。

東京裁判に引き出されたが、1票差で、辛うじて絞首刑を免れた、
陸軍省軍務局長であった佐藤賢了陸軍中将によると、太平洋戦争開戦直後に、
海軍省軍務局長であった岡敬純海軍中将が、本来、御前会議に提出する筈だった
対米開戦の可否を検討する資料を、佐藤賢了陸軍軍務局長のところへ
持ち込んだ事があった。

その資料は、対米戦争を遂行するのは不可能であると
判断せざるを得ないものだった。

しかし御前会議には、山本五十六長官が勝手にすり替えた
「対米戦争遂行可」とする資料
が提出された。

佐藤賢了陸軍軍務局長は、岡敬純海軍省軍務局長に
「どうして、海軍は対米開戦に、強く反対しなかったんだ」と問いただした。

この問いかけに対して、岡敬純海軍省軍務局長は、
「海軍の中では、誰も、対米開戦を唱える
山本五十六長官に楯突く
(たてつく)事は
できなかった」
と答えたという。

ちなみに、岡敬純海軍中将・海軍省軍務局長は、永野修身元帥・海軍軍令部総長、
嶋田繁太郎大将・海軍大臣と共に、海軍側のA級戦犯として、東京裁判に引き出された
3人の1人で、海軍の最高指導者の一人である。

この資料すり替え事件以後、佐藤賢了陸軍軍務局長は生涯、山本五十六長官を
信用しなかったといわれる。

1943年4月18日まで、日本海軍は完全に山本五十六長官が指揮していた。

従って、対米開戦、ミッドウエィ海戦大敗北ガダルカナル戦大敗北を含めて、
それまでの、日本海軍の勝利と敗北は、
          すべて山本五十六長官の責任である。



嶋田繁太郎海軍大将は対米英開戦を決断した東条内閣の海軍大臣である。
山本五十六長官の真珠湾奇襲攻撃を承認し、1944年には海軍軍令部総長を兼任した。

A級戦犯として逮捕され、東京裁判に引き出されたが、
無知愚かに、無能・無策・無責任が加わった人で、
日本の戦争遂行において、何一つ効果ある対策をとらなかったと認定され、
開戦を決断した東条内閣の海軍大臣であったにもかかわらず絞首刑を免れた。

ちなみに、海軍の最高指導者であった伏見宮博恭王・元帥・海軍軍令部総長
日本を滅亡させた超A級戦犯である。

伏見宮海軍軍令部総長は、東郷平八郎元帥の強い支持を得て、1933年〜1934年、
対米不戦を唱える、良識ある条約派の将官を海軍から徹底的に追放した。

ロンドン海軍軍縮条約に調印した条約派の筆頭で海軍大臣であったあった
財部彪海軍大将は東郷平八郎元帥に名指しで非難され辞任・退役していた。
佐藤市郎海軍中将(岸信介・佐藤栄作の実兄)は病気のため退役していた。

条約派と目された、山梨勝之進大将、谷口尚眞大将、左近司政三中将、寺島健中将、
堀悌吉中将、坂野常善中将などが海軍から追放された。

伏見宮海軍軍令部総長は、海軍を全部、対米開戦を強く主張する艦隊派一色に
したうえで、昭和天皇に、早期対米開戦を強く進言し、実現させ、
「無敵・帝国海軍」の戦闘艦艇を、全部、完全に壊滅させ、日本を滅亡させた。


出典:赤堀篤良『世紀の愚行 真珠湾攻撃』第9頁〜第11頁

筆者(赤堀氏)があの戦争で疑問を持っている歴史場面は大きく言って3回ある。

第1に、
なぜ、中国と手を結んでソ連の南下に備えず、逆に、蒋介石と毛沢東の両軍に加え、
中国全人民と世界の華僑全員を敵に回すような戦いを仕掛けたか?

第2に、
太平洋地区を日本と共同管理しようとしたと思われる米国と、なぜ、ことを構えたか?

第3に、
対米戦争を決意したなら、なぜ、わざわざ、真珠湾を攻撃したかである?

最後の真珠湾攻撃は、山本五十六という、たった一人の人間の意見で、
極めて強引に押し切られた経緯が他の2点と異なる。この特殊事情は甚だ理解し難い。

第1の、中国との戦いは史実が示す通り、奥地にまで侵攻し過ぎて泥沼に嵌り込んだ
状態になったのではあるが、天皇、議会、軍上層部が、命を賭して現地の日本軍を
説得すれば、解決の道は少なからずあったと思われる。天皇の大命により、
軍が、尾花打ち枯らして、とまでは言わないが、悄然として撤退すれば、
彼等も夜郎自大とはならなかったであろうし、国全体として、かえって望ましい
軍と官民の関係を樹立する結果に繋がった可能性さえある。

第2の、対米戦争も、避けられたのはもちろん、開戦しても戦略次第では
和平に持ち込めた可能性はあり得たと思われる。軍、特に海軍が防御戦で
ゆっくり戦えば、米国の暗号解読技術、レーダー開発などの優れた点を知り、
日本の実力を覚る機会と時間は十分にあったのではなかろうか。
そうした上で和平の道に進んだなら、これまた夜郎自大でない日本陸海軍が育ったかも
知れない。つまり、対米開戦ですらまったく取り返しのつかない選択ではなかった。

第3の、真珠湾攻撃だけは違う。真珠湾攻撃で、何百万人という、日本と海外各国の
軍人犠牲者・民間人犠牲者の運命は決まった。真珠湾攻撃以降、無条件降伏以外の
選択は日本には残されなかった。米国国民を立ち上がらせたことが、日本にとって
最大の不利益であった。それだけではない。たださえ米国人に疎んじられていた
米国在住の日系移民は、米国政府により、好機到来とばかりに収容所に追い込まれた。
そうでなければ、米国の国内の情報は、彼らを通して日本に伝わったはずである。
米国本土での兵器生産状況や、日本軍の攻撃で失われた艦艇など、貴重な情報が
もたらされた可能性はこうして失われた。華僑にしても同じことが言える。

筆者(赤堀氏)が真珠湾攻撃を徹底的に非難したいのは、こうしたさまざまな理由にある。

ともあれ、本書の結論は次の2点である。
@
開戦通告の遅れの有無にかかわらず、真珠湾攻撃によって米国国民は決起したであろう。
A
真珠湾攻撃の後は、日本には殲滅される運命しか残されていなかった。

 ミッドウェイ海戦で大敗北して
米海軍に自信を持たせ、太平洋の覇権を失った

虎の子の、日本帝国海軍の主力空母4隻を太平洋のど真ん中に行かせ、
米国空母を誘いだして撃沈するという山本五十六長官のミッドウェイ島占領作戦は、
あまりにも危険過ぎると海軍軍令部も海軍省も猛反対した。

さらに、海軍軍令部は反対理由として下記をあげた。
@ミッドウェイ島に戦略上の価値はまったくない。
A仮に占領できたとしても、到底、維持できない。
B空母機動部隊はインド洋作戦での損傷で補修を必要としている。
C燃料事情も悪い。

しかし、山本五十六長官は、今度も、
「この作戦を承認しないならば、オレは連合艦隊司令長官を辞める」
とまで言い切って、ムリヤリ承認させ、強行した。

結果は、日本海軍は、虎の子・主力空母4隻と艦載機322機と熟練パイロットを
含む3,000人以上もの戦死者をだした。
太平洋における覇権も失うことになった。

すべて山本五十六司令長官の責任であった。

3人の海軍の最高指導者、すなわち、永野修身・元帥・海軍軍令部総長、
嶋田繁太郎・大将・海軍大臣、山本五十六・元帥・連合艦隊司令長官の
完全合意のもと、公的機関の事実隠蔽は犯罪であるとの意識がまったくない
旧・大日本帝国海軍は、ミッドウェイ海戦の大敗北事実の徹底的隠蔽に狂奔した。

昭和天皇にも、東条首相にも、
この致命的な大敗北の事実を知らせなかった。


しかも、不思議なことに、この致命的な大敗北を引き起こした
山本五十六司令長官の責任を問い、罷免を求める声は、
どこからもあがらなかった。ノモンハン戦争の海軍版であった。

ノモンハン戦争の数百倍の悪影響・後遺症を日本国及び日本国民に与え続けた。
日本の歴史において特筆されるべき、
    極めて悪質な事実隠蔽であった。




当時の米国太平洋艦隊のニミッツ司令長官は、どうしたら、
日本の空母を撃破して、太平洋における覇権を日本海軍から
奪い返せるかを、日夜、考えていた。

そこへ、山本五十六長官の作戦で、日本のほうから、
主力空母が、わざわざミッドウェイ島まで
出向いて来ることになったのである。


ニミッツ司令長官は、この情報を入手すると、直ちに、ミッドウェイ島の
軍事力強化を始めた。

ミッドウェイ島から出撃して、南雲機動艦隊の主力空母4隻を撃破するため、
偵察機30機、急降下爆撃機40機、B17&B26大型爆撃機21機、
戦闘機26機を配備した。

ミッドウェイの二つ島に、多数の高角砲と大砲が配置された。
鉄条網が張り巡らされた。
周囲の海には多数の機雷が敷設された。
哨戒のため、周囲の海域には潜水艦19隻が配備された。
撃墜されるかもしれない航空機のパイロットを救助する目的で
魚雷艇11隻が配備された。





ニミッツ司令長官は、1947年5月27日に広島湾柱島を出航した
日本の南雲機動艦隊の毎日の航行状況を正確に把握して、
綿密に迎撃作戦を練り、必勝を期していた。

ニミッツ司令長官が最も重視したのは、毎日、毎時の南雲機動艦隊の
所在位置の正確な把握であた。このため、ニミッツ司令長官は、考え得る
あらゆる手段を活用した。

これとは正反対に、日本の南雲司令長官も、高級参謀たちも、
肝心要の米空母の所在位置の正確な把握に無頓着であった。もっとも、
信じられないことだが、
日本の4隻の空母は、偵察機を搭載していなかった。
戦闘、爆撃の訓練には、驚異的な努力をしていたが、
偵察機による索敵訓練は
行っていなかった。


空母決戦にまったく無知であった
「ど素人」の南雲司令長官と高級参謀たちは、
「盲、蛇に怖じず」で、飛行甲板に魚雷・爆弾を放置することの危険性をまったく
考えずに、魚雷→爆弾の付け替え作業、さらには、爆弾→魚雷の付け替え作業を
命令したのである。


当初、太平洋における米海軍には出動できる空母は2隻、
エンタープライズとホーネットだけであった。
しかし、出航できないと思われていたヨークタウンは、
奇跡的な迅速修理によってミッドウェイ海戦に間に合った。

機動艦隊のハルゼー司令官が皮膚病のため入院してしまった。
ニミッツ司令長官は、スプルーアンス少将を南雲機動艦隊を
迎撃する米第16機動艦隊の司令官に抜擢した。
参謀長はブローニング大佐であった。

1942年6月4日(米国時間)午前6時3分、ブローニング参謀長は、
日本の空母との距離約170マイルと測定すると、
即時、全攻撃機発進を進言した。
スプルーアンス司令官は「100マイルまで接近してからのほうが
確実だが」と述べ、即時攻撃機発進を躊躇した。

ブローニング参謀長は、
「今、すぐ、攻撃隊全部を発進させなければ勝機を逃します。
日本のミッドウェイ島空襲隊が母艦に帰る時にしか、その収容で、
迎撃態勢がとれない時にしか、攻撃が成功するチャンスはありません」と
重ねて進言した。

スプルーアンス司令官はこの進言に深くうなずき、
上空警戒用の42機を除く、全攻撃機に即時発進を命じた。
(児島襄 『参謀 下』 第26頁〜第28頁 文春文庫 )


午前5時30分、日本側も米空母を発見した。

飛龍、蒼龍を率いていた山口多聞少将は、

「現状況は1分1秒を争う。第1次攻撃隊100機を
犠牲にして、直ちに米空母攻撃隊を発進させたし」

と南雲司令官に進言した。

しかし、南雲司令官は、この山口少将の進言を受け入れなかった。

スプルーアンス司令官とブローニング参謀長の的確な判断力・決断力と、
南雲司令官の判断力の甘さとの違いが、彼我の明暗の差という冷酷な結果となった。

午前7時22分〜28分、エンタープライズ艦爆隊30機と
ヨークタウン艦爆隊17機が、赤城、加賀、蒼龍の奇襲攻撃に成功した。

赤城は被弾による火災が、飛行甲板・格納庫内の爆弾、魚雷、航空機燃料を
誘爆させ艦内大火災が発生したことが致命傷になった。

加賀、蒼龍も、同様、被弾による誘爆爆発・火災で空母としての機能を失った。

You Tube : Midway-WW2 Dogfight and action scenes Part 2 of 2

山口多聞少将は飛龍から米空母攻撃隊を発進させ、
ヨークタウン撃沈に成功したが、飛龍は、米爆撃隊の再三の攻撃で
撃破され空母としての機能を失い、日本の駆逐艦の雷撃で沈没した。

ニミッツ司令長官の狙い通り、米海軍は、
日本の主力空母4隻を撃破し、
艦載機300機以上を全部失わせ
熟練した優秀な日本海軍の
パイロットを含む、海軍軍人3,000人以上を死亡させるという大戦果をあげた。

山本五十六長官のゴリ押しで強行されたミッドウェイ島占領作戦は、
日本海軍に、再起不能の致命的大損害を与えた。結果として、
山本五十六は
米国の太平洋戦争・大勝利に大きな貢献をした
ことになった。



2011年12月23日公開の映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六』の中でも、
このミッドウェイ海戦大敗北情報が続々入ってくる状況において、
山本長官が、皆の前で、参謀の一人と将棋を始めたシーンが出てくる。
筆者には、このシーンは、改めて、「わが目を疑う」驚きであった。
もし、これが事実であるならば、
これは正常な人間には考えられない、異常な行動である。



極めて当然のことながら、従業員を雇用している企業においては、たとえ経営者といえでも、
勤務時間中に、従業員が働いているそばで、従業員が見ている場所で、将棋を指すという
ことは、一般的には、あり得ないもし、勤務時間中、従業員が、仕事をせずに、将棋を
指したならば、即、解雇である。勤務時間中は私用電話をかけることも禁止されている。

三船敏郎が山本五十六を演じた1976年の米映画『ミッドウェイ』には、
このようなシーンはない。






出典:半藤一利編著『歴史探偵団がゆく 昭和史が面白い』(文藝春秋97年1月発行)
高木=高木俊朗氏・作家、著書『インパール』、『陸軍特別攻撃隊』など
岩田=岩田正孝氏・元陸軍省軍務局軍事課課員

読売新聞(朝刊)2006年5月27日第15面、『検証・戦争責任 第2部』は
「ミッドウェイ海戦惨敗の実情を、海軍軍令部は、首相である東条にさえ隠した」と述べている。

新井喜美夫著『転進瀬島龍三の「遺言」』(講談社 08年8月発行)第26頁には
「東条元首相は1944年6月のサイパン戦の直前までミッドウェイ海戦
(1942年6月5日〜7日)で日本海軍が惨敗した実情を知らなかったと
瀬島龍三が語った」と書かれてある。



3.戦場・戦線を拡大して
信じられないような
膨大な餓死者を出した!
          航空機を7,096機
失った!

日本が対米英蘭開戦に踏み切ったのは、当時、オランダ領であった
スマトラ島の石油資源を確保することが目的であった。

従って、当初は、占領計画は、フィリピン、ボルネオ島以西の東南アジアのみで
石油、ボーキサイトなどの資源獲得が目的であった。



それを、緒戦の大勝利に酔った山本五十六長官は、戦場・戦線を、
ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島へと拡大してった。
食糧・武器弾薬の補給を考えない無謀な戦場・戦線拡大であった。




出典:本書第44頁−第47頁(抜粋)

司令長官・山本五十六は
       過剰拡大戦略を推し進めた


対米開戦当初に策定された国防線の範囲を超えた、このような、
山本五十六の過剰拡大戦略は、政治的に見ても、軍事的に考察しても、
まったく不必要な挑発であった。

山本五十六の、最も致命的な失敗であった。

山本五十六の過剰拡大戦略は、米国になりふり構わぬ素早い対応をとらせてしまった。

大日本帝国大本営の目論見では、日本とドイツの両方を相手にしての戦争で、
米国は、おそらく、ヨーロッパ戦線に専念するであろう。

米国軍が大挙して太平洋戦線に移動してくるまでに、日本は、極東における英国と
オランダの抵抗を排除するための十分な時間を稼げるはずであった。

この大日本帝国大本営の想定は正しかった。

というのは、戦前の米国の構想では、特に1940年のフランス降伏の後では、
日独双方を相手の戦争では、太平洋においては防衛に留まり、
ヨーロッパ戦線での勝利に総力を結集するつもりであった。

この、いわゆる「対ドイツ戦最優先」構想は、山本五十六の真珠湾奇襲攻撃の直後に、
ルーズベルトとチャーチルによって再確認された。

山本五十六の過剰拡大戦略によって、日本軍が、新たに占領した資源供給地の
中核を超えて進攻し、オーストラリアを脅かし、さらには米国とオーストラリアの
交通ラインに脅威を与える状況になったことは、米国側に大きな変化をもたらした。

マーシャル元帥やアーノルド元帥のような熱心な「対ドイツ最優先」戦略支持者さえもが、
事態は深刻ととらえ、南太平洋、及び南西太平洋において、防衛戦力を至急増強しな
ければならないと、渋々同意せざるを得ないようにしてしまった。

言い換えれば、山本五十六の過剰拡大戦略の脅威は、
太平洋においては防衛戦略に徹するとい米国の構想をぶち壊して、
防衛戦略を攻撃戦略に転換させてしまった。

もし、日本が対米開戦当初の進攻計画の範囲内に留まっておれば、
米国はは、太平洋ではほとんど何をしなくてもよく、
大西洋海戦とヨーロッパ大陸の迅速な進攻に力を注いでいたであろう。

もし、日本の指導者が、大日本帝国はその目標範囲を達成した。
ニューギニア、オーストラリア、及び南太平洋地域において、
さらなる進攻を行うことはない、正式に発表していたとすれば、
その影響がどのようであり得たかを推測することは興味深い。
(抜粋は以上)

この山本五十六長官の無謀な戦場・戦線拡大は、
南東太平洋、ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島、中部太平洋等の各地に、
多数の日本軍兵士を置き去りにして、
食糧
無補給
による
     大量餓死
という悲惨極まる惨禍を招いた。









引揚援護庁留守業務部 昭和23年7月30日調査



厚生省の調査では、ニューギニア東部の戦没者は12万7,600人であった。
各部隊の報告や回想では、いずれも戦没者の9割以上が餓死だったとある。
仮に9割として計算すると、実に11万4,840人が餓死したことになる。
多くの若い生命が、密林の中で万斛(ばんこく)の涙をのんで死んでいった。

厚生省の調査では、ソロモン群島のガダルカナル島、ブーゲンビル島の戦没者は
8万8,200人であった。この4分の3に当たる6万6,000人は餓死であった。
島別にみると、ガダルカナル島においては、戦死は5,000人、餓死は1万5,000人
であった。ブーゲンビル島の戦没者約2万人のほとんど全員が餓死であった。

ビスマルク諸島のニューブリテン島ラバウルの戦没者は3万500人であった。
この9割、2万7,500人は餓死・栄養失調死であった。ラバウルの場合、
戦死はほとんどなく、栄養失調と薬品不足のためのマラリアによる病死であった。

厚生省調査では、中部太平洋の戦没者24万7,200人となっているが、
この中には、上陸した米軍と戦って玉砕したマキン、タラワ、クェゼリン、ルオット、
ブラウン、サイパン、グアム、テニアン、ペリリュー、アンガウルなどの諸島が
含まれている。

玉砕した島以外の各島は、米軍にとって不必要なために無視され、
戦線の背後に取り残された。

これらの島々は、いっさいの補給が絶たれ、自給の手段もなく、
餓死を待つばかりであった。

45年4月14日の海軍軍令部の調査によると、この時点で
餓死を待つばかりだった島は、
ウォッゼ、マロエラップ、ミレ、ヤルート、ナウル、オーシャン、クサイ、
エンダービ、バカン、メレヨン、ウエーク、南鳥島で、
飢餓地獄から生き残ったのは、わずか3万6,470人であった。
その他の兵士たちは、飢餓地獄の苦しみに苛まれて死亡した。

米国の日本軍殲滅作戦は、潜水艦攻撃による、日本の輸送船撃沈から始まった。
しかしながら、山本五十六長官は、米国の潜水艦攻撃に対処する作戦について
的確な命令を出さなかった。最終的には、日本の輸送船はことごとく撃沈され
ゼロになった。

悲惨極まる、おびただしい餓死者を出した
無謀な戦場・戦線の拡大は、すべて、唯我独尊を貫いた
        山本五十六長官の責任であった。

驚くべき航空消耗戦−ソロモンで進みすぎた罪


ソロモン消耗戦とは、1942年8月の米軍のガダルカナル島上陸から、
1944年2月のラバウル放棄までの1年半にわたる戦闘をいう。
これを2期に分かち、ガダルカナル島撤退までの6か月間を第1期、
それからラバウルの空軍部隊引き揚げまでの1年を第2期とすれば、
出血消耗の大きい部分は、むしろ第2期の航空戦にあった。

ガダルカナル島戦闘の6か月間に、失った飛行機は893機、
搭乗貝2,362名であったが、第2期には、航空機の損失、実に6,203機、
搭乗員4,824名という大犠牲である。

両期間合わせて、航空機の損失は合計7,096機ということは、
開戦時に海軍が持った航空機総数2,172機の3倍以上に当たる。
搭乗員の戦死者は、両期間合わせて、7,186名であった。
海軍が受けた痛手の大きさを示す数字である。

工場は深夜作業を続けて、航空機の生産に集中したが、到底、損失を補うことは
できなかった。また仮に、大半補い得たとしても、搭乗員がいなければ無力だ。
その意味で、7,186名の搭乗員を失ったのは<
償いがたい大痛手であった。

真珠湾戦を戦い、さらに、インド洋、ミッドウェイ海戦で生き抜いた百戦練磨の
勇士は、ほとんどこの期間に、ソロモン諸島上空の華と散ったのである。

米国は日本の航空戦力を枯渇させる目的でソロモン戦を企図したのではなかった。
偶然の結果が、米国をして、一石二鳥の戦果を得せしめることになった。
米国の戦略目標は、単純に、失地回復と日本本土反攻のための北進であった。

そうして、その飛石作戦の定石を、欧州の戦場で行なった通りに実施したに
過ぎない。すなわち、目的地点にまず空襲を反覆する。それから艦砲射撃を行う。
空襲と艦砲射撃で、敵の抵抗力を相当に砕いてから上陸する。
占領と同時に飛行場を急設する。そこから制空圏を拡げて、次の島を占領する
という順序である。わかり切っているのだが、なにぶんにも航空兵力が強大であり、
海兵隊も強勇であり、力で押しまくる。終戦時の米海軍の航空機実動数は、
実に、4万893機というのだから、ケタが違う。
空母も、改装を加えて、一時は60隻にのぼったのだから、日本の海軍は
空の上から圧倒されたわけである。

日本もソロモンでずいぶん戦った。が、百対三十が戦い、第一日に、
双方が等しく30機を失えば、翌日の戦いは70対0になるという小学生算術の
明確さをもって空中戦を挑んで来たのだ。
『連合艦隊の最後』は以上


  
 
  


以上