岩手県代表盛岡商業高校の初優勝で幕を閉じた、
第85回全国高等学校サッカー選手権大会。

そこへ至る長い道程を追う中で見聞きした
忘れ得ぬ言葉の数々を、齋藤重信先生の言葉を
中心にまとめました。



part1

(以下、発言者の明記が無いものは齋藤重信先生の言葉)


齋藤重信、岩手県立盛岡商業高校入学
「怖くてやめると言えなかった」
(本当はハンドボールをやりたかったが、サッカー部の先輩に連れていかれて入部)

「重信に言ったんだよ。きれいなサッカーでなくてもいい。
体を張って、泥臭くやれ。
きれいなシュートでなくても、ボールと一緒になだれ込むようなゴールがいいんだ」

(小野寺吾老/当時盛岡商業サッカー部部長/現岩手サッカー協会会長)


「どんじょ」
(=どじょう。齋藤重信が順天堂大学サッカー部時代に付けられた渾名。
今も親愛の情を込めて、そう呼ぶ方は多い。
「すばしっこいから」が表向きの由来)

(資料画像)


1970年〜

岩手県立遠野農業高校(現遠野緑峰高校)、サッカー部監督就任

「(サッカーを)長くできるのは何かと考えたら、教員だった」

「(最初の頃、)遠野との練習試合では、10失点とか20失点とかしていた」

同年、弱小チームながら高校総体県予選1回戦で、母校盛岡商を3‐2で敗る。
「重信のチームの方が泥臭くプレーしていた。ものすごい恩返しをしてくれたね」
(小野寺吾老/当時盛岡商業サッカー部部長)

「私は怒りっぽいから、高校生の指導がちょうどいい。
何を言いたいか感じ取ってくれる」


1978年〜

盛岡商業高校に赴任

「制服のパンツを腰の位置ではいたり、シャツを出したら、
1度目は注意するが、 2度目はどんなうまい選手でも試合に出さない」

(盛岡にあるデパートの話をして)
「お前が頑張る気持ちを100万円で売っているなら、
先生は買ってきてあげる。残念ながら売ってねえんだ。
1000万円でも買ってきてあげる。
売ってないから、それだけは自分でやるしかないんだ」


(資料画像)

「今は何でもお金で得られる時代。歯を食いしばって、つらい思いをして
生まれる達成感。 人を思いやる気持ち。そういうことを教えたい」

「次の目標が見つからないうちは部を辞めさせない」

この年代は、テクニックとかタクティクスとかも教えれば伸びるのかもしれませんが、
もっとも人間として基本的に大事な部分を頑張るとか、
人を思いやるとか、 一番感性がある時期なので、鍛えれば鍛えるほど、
いい大人になってくれると思っています。」

「だめといわれたやつが、3年間でどう変わるか。 鍛えれば鍛えるほど、
いい大人になってくれる」


第67回(1988年度)全国高校サッカー選手権大会

「平、外した。これで清水商業が準決勝進出!」

盛岡商業 
前半
0 清水商業
後半
PK

(実況/選手権初のベスト8進出。平聡、千葉恵二、藤原寿徳、八重樫篤ら好選手を擁したが、
国立目前で優勝校・清水市商にPK戦で敗れる。なお藤原寿徳は現鹿島アントラーズGKコーチ。
また対戦相手の清商には山田隆裕、三浦文丈、大岩剛らがいた。)


「教え子が出ているんだから、見に行くのが普通だろ」
(関東大学リーグのスタンドに現れて)

「冬場の5カ月間は雪でグラウンドが使えないため、指揮官は大型免許を取得し、
現在までに遠征用のマイクロバス5台を自腹で購入。
練習試合の相手を求めて北は北海道から南は九州まで自らが運転した。
現在の盛岡商の選手約20人の父親も教え子だ。」

(スポニチ/...5ヶ月?)

「暴走族」
(自らハンドルを握り、サッカーの為に全国を縦横無尽に走り回る様から)

「(齋藤監督は)マイボールにした瞬間に全員が前がかりになる
ゴールへの強い意識を持った好チームを毎年作っている」

(スポーツ報知)

「生徒を自宅に呼んで世間話をし、悩み事を抱える生徒とは解決するまで話し合う」
(日刊スポーツ)

「進学や就職、そして転職なども齋藤先生に相談すれば何とかなる」
(ベガルタ仙台・中田洋介選手/大船渡高校時代の教え子)

「東北高校サッカー界の首領(ドン)」
(齋藤先生にいつしか付いた呼び名)


1991年〜

大船渡高校に赴任

(サッカーを教えたいから)声帯の一部でも残してほしい」
(1992年/喉頭がんを手術)

「(試合中に)何かを言っても、選手には伝わってない。
何を伝えたいのか感じ取ることが大事」

「耳に穴を開けるなら、オレみたいにノドに穴を開けろ!」
(「悪いヤツ」への生活指導。「結構効き目があるんだよね(笑)」)


「ボールコントロールに優れたいい選手だ」
(1994年、大宮中学校のある選手を見て)

「本当に中学生ですか?」
(社会人リーグ盛岡ゼブラの選手/練習に参加した少年を見て)

「どうする?」
(少年の父)

「大船渡に行く」
(小笠原満男/当時大宮中学校三年生)


「いくらテクニックがあっても、縦横無尽にあらゆるところで、
あらゆる時間帯に発揮できなければ宝の持ち腐れです。」

「ウチにはシステムなんて関係ない」

「球技において、クセを直してはいけない」


「日本代表・小笠原満男を育てた──」
(以降、齋藤先生に必ず付けられる枕詞)

「大船渡高校時代は、単身赴任し、
遠方から来たサッカー部の生徒を自宅に下宿させた。
小笠原満男選手もその一人だ。生徒のため、弁当を含む3食を自ら作った」

(朝日新聞)


「部室には、(小笠原先輩の)落書きも残っている」
(大船渡高校の現サッカー部員)

「50メートルを走らせた時に、45メートルぐらいで速度を緩める人間と、
そこからさらに10メートル走れる強さを持った人間がいる。
満男(小笠原)は後者だね」

(小笠原のドイツW杯日本代表選出に)

「齋藤監督の家で千切りキャベツをいただくスレ」
(2ちゃんねるに立ったスレッド)