「携帯を持ったサル―「人間らしさ」の崩壊―」
正信男著
中公新書
2003年9月
サルもそこまでと、勘ぐってしまう。もちろん、人間のこと。人間もサルの一種で、努力して人間化したのだとする。だがいまでは、あらゆる面でサル化しつつある。
サルに家族はなく、集団が家族みたいなもの。人間もその方向に進んでいる。サルの子育ては人間以上だが、集団のなかで、ほとんどが自立しないマザコンの大人になる。
べたぐつ、ルーズソックスは家の内に入る感覚で、車内の化粧や食べ歩き、地べた坐りも私的公的の区分が曖昧になっている表れといえる。
ニホンザルのスキンシップは、若者の引きこもりと共通している。アメリカでは別居はあたり前だが、日本では自立せず、親から離れない。
専業主婦にとって、子どもだけが夢と希望。夫は会社中心で、日本の家庭は子ども中心主義。チャンネルの選択権にしても、食事もそうなっている。子どもへの投資は、ゲーム感覚ですらある。可愛がるだけで育った子は、サルと変わらない。
エレベータでも電車の車内にしてもどこでも、公的状況の認識が希薄になっている。「家のなか」感覚の蔓延化が顕著である。
危険を知らせることの損得で、知らない相手だったら、声を出さずに逃げる。もし身内だったら、そうはしない。最低限の自分の損得をくい止める選択に走る。携帯でつながった関係は、ニホンザルのこのクーコールに酷似している。
人間はそうでなくても、年齢を重ねるごとに保守的になり、固い頭になり、サル化していく。始源的、自然状態に回帰していく。('06.10.27)
「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
エペソ人への手紙2章3節