(1)
206年、建安11年。
呉では相変わらず山越が跋扈していた。
柴桑にいた周瑜に呼び出しがかかったのはこの年の5月であった。
山越というのは呉地方に勢力を持つ先住民族である。
六朝の時代の前から南より移住してきた越族だとも言われている。
その昔、越の国が大国楚によって滅ぼされたのちも彼らは江東にいつづけ、やがて漢民族が台頭してくると山岳地帯を中心に活動するようになる。それゆえ山越と呼ばれるようになったといわれる。
彼らは孫家の統治に不服を申し立て、あくまで抵抗をつづける、いわばゲリラのような存在であった。
それ故か、いまや彼らは盗賊・野盗の類に姿を変え、都に出てきては大暴れを繰り返していた。
だがその規模は大きく、たかが盗賊、と馬鹿にできないほどの力を持っていた。
孫権もこの山越討伐にたびたび大事な戦力を割かねばならず、なかなかに頭の痛い問題となっていたのは事実であった。
この年、大規模な山越の蜂起があった。
この討伐に任じられ、是非にも周瑜の力を借りたいと願い出たのは孫権の従兄弟である孫瑜であった。
孫瑜は孫堅の弟の孫静の次男であり、この年29才になったばかりである。現在は綏遠将軍を拝命していた。
おだやかで勉強熱心な二つ年下のこの青年を、周瑜は気に入っていた。
「孫仲異殿が自らお越しとは」
江夏征伐で忙しい周瑜も、これにはいたく感激したようであった。
孫瑜が到着すると同時に孫権からの命も届いていた。
「仲異殿、はるばる会稽から起こしくださったそうですね」
「ええ。ちょうど殿が東冶へご視察に参られるとのことでしたので、会稽までご一緒しまして、そこで私の船を内陸へ、殿の船は外海へと向かわれました」
「東冶・・・では呂定広殿の山越討伐もうまくいかれたのですね」
周瑜は先だって建業にもどった折り聞いていた話を反芻していた。
呂定広、というのは呂岱、字を定広というこの年45になる男のことで、事務的能力に秀でているという噂の官吏であった。
地方の県長を歴任して孫権に登用され、この度督軍校尉に任じられて東冶で起こった先住民族の反乱を鎮めに向かっていたのである。
きまじめな男で、孫権には気に入られている。
「殿のお留守を預かるのは張子布殿か」
「ええ。都は陳子烈が五校尉に任じられ、警護にあたっております」
「蒋欽が都尉として同行しておりましたが、なかなかどうして、軍事の方にも才能がお有りになったようで、喜ばしいことです」
孫瑜はにこにことして言った。
「しかし、あちこちで同時に叛乱とは、なにか偶然とは考えにくいものですね」
周瑜は顎に手を当てて、眉をひそめた。
「そうですね。もしかすると、示し合わせて我が孫軍の戦力を分断させるのが目的・・・とか」
孫瑜の発言を聞いて、周瑜はしばし黙り込んだ。
何かを考えているようでもあった。
「そうなると、だれか裏で彼らを操る者がいるのでしょうね。彼ら山越の中にそこまで統率力のある者がいるとは考えにくい」
「う・・・・ん」
孫瑜としてはそこまで考えての発言ではなかったにせよ、周瑜がそうまでいうならば、事は重大なことになりそうであると思い至った。
「それにいま仲異殿の言ったとおりの目的ならば・・・その結果誰が一番得をすると思いますか?」
「あ」思い当たったように、孫瑜は声を出した。
周瑜が少し厳しい目で彼を見た。
「曹操・・・ですか」
「それ以外考えられません」
「・・・・」
「あるいは」
「あるいは・・・?」
周瑜の顔がますます険しくなっていく。
「・・・・獅子身中の虫か」
それを聞いて、孫瑜も神妙な面持ちになった。
「・・・裏切り者がいると・・・お考えですか。曹操と繋がっている者がいる・・・と」
「あくまで可能性です。ただの偶然かもしれませんし、私の思い過ごしということもあります」
「あなたがそうまでおっしゃるなれば、江夏の津に関を置き、江を行き来する者を取り締まりさせましょう」
「仲異殿・・・」
「なに、杞憂であればそれに越したことはありません。ちょうど私の率いてきた軍の中に都で監督官をやっておった者がおります。彼らに警察事を任せましょう」
「それはありがたいお申し出ですね」
「間者を掴まえた時の方が、困ることになりそうですが、ね」
孫瑜は苦笑した。
「そうならねばいいと、思っております」
周瑜は笑っていなかった。
孫瑜が荊州南部の地図を差して続けた。
「このあたりに屯所が二つありまして、麻と保、と呼ばれておるそうです」
「ふむ。して、その情報は確かなのですか」
「会稽の叛乱を鎮めた時、首領を掴まえたところ、白状しました。かなり大きな屯(砦)のようで、会稽からもかなり人を移住させたようです」
「戦力は?」
「麻ひとつで1万以上というところでしょうか」
「二つの屯所は同じくらいの規模なのですか?」
「斥候によれば、麻のほうが大きいとのことです」
「保を攻めれば麻が応援に駆けつけるということで、以前から攻めあぐねているようです」
「この周辺の地理はどうなっておりますか?」
「この屯への道は一本道でして、しかもまわりを山に囲まれているということで、保を攻めると同時に麻を攻めるということが困難だと聞いております」
「ふむ・・・少々策を労さねばならぬようですね」
「私があなたを頼りに思うところは実にそこでして」
孫瑜は周瑜の白い横顔を視て、微笑した。
「さて・・・仲異殿のお得意な古代の戦記の知識の方がアテになるやも知れませんぞ」
周瑜も微笑み返して言った。
「私の知識なぞ書物の上で読みかじっただけで実戦には向きませんよ」
「そのように言うものではありませんよ。仲異殿」
美貌を揺らしながら孫瑜を見る。
細められる切れ長の目に自分が映っていることがなんとも恥ずかしくて、孫瑜はかすかに頬を染めた。
「殿は本当は周都督にも東冶へ行って欲しかったと思いますがね。ところが麻保屯のことで、江夏にいらっしゃるあなたをそちらへ派遣したほうが早いということになりまして、こうしてお迎えにあがった次第です」
「そうでしたか」
「麻保は江夏からも近い。黄祖を討つ前にカタをつけておくべきと殿は判断されたのでしょう」
「そうですね。私もそれが正しいことと思います」
「・・・あなたの部下からは少し疎まれそうですがね」
孫瑜は、周瑜を呼んだ時の彼の部下達の不満そうな顔を思い浮かべて苦笑した。
「今の彼らの頭の中は黄祖討伐、でいっぱいですからね。でも」
孫瑜は一瞬どきり、とした。
周瑜の自分へ流した目が、実に色っぽかったからだ。
「仲異殿がお気になさる必要は全くありませんよ」
「・・・あの、こんなことを言うとお気にさわるのかもしれませんが・・・都督にそのように、見つめられると、そのぅ・・妙に緊張してしまいますね」
「そうですか?」周瑜はそれをわかっていたかのように、微笑して言う。
「そうですよ・・・」孫瑜は頬にこもる熱を確かめずにはいられなかった。
その時期、柴桑の警護を任されていたのは、黄射討伐に功のあった徐盛であった。
周瑜が召還されたとあって、徐盛もそれに付き従いたかったが、太守という地位にいる以上、そういうわけにはいかなかった。
徐盛は少し不満げに伺いを立てた。
「部隊長としてどなたかを同行させるので?」
「ふーむ。そうだな・・・」
周瑜はしばらく考えてから頷いた。
「凌統を呼んでくれないか」
凌統、字を公績。この年17才の彼の現在の官位は別部司馬である。
「お呼びですか都督殿」
若い容貌はギラギラとした不敵な瞳を持ち、その顔を周瑜に向けた。
「今は江夏攻略準備に忙しいとは思うのだが」
「はい」
「私と共に行き、山越討伐の部隊で指揮を執って欲しい」
「は・・はい!俺・・じゃない、私が、でありますか!」
「そうだ。おまえは以前にも山越討伐に参加したことがあるだろう?」
「はい。董威越校尉殿に従いホウ虎を討ちました」
董威越校尉とは、董襲、字を元代という呉軍でもっとも背の高いと言われる男のことである。
周瑜は目の前に座る少年の前にずい、と出て、その双眸を近づけて囁いた。
「おまえは孫仲異殿の兵を率いることとなるが、おそらくはおまえより目上の者ばかりを率いることとなる」
「は・・・・っ」
「おまえにはやりづらいこともあろうが、何事も経験だ。やってみせよ」
「は、はいっ!」
凌統は深く頭を下げて、周瑜の室を辞した。
去っていく凌統を見送って、入れ替わりに徐盛がやってきた。
「若いですが、彼で大丈夫なのでしょうか?」
「あれでも家督を継いでいる身だ。大丈夫だろう」
孫策も17で父の跡を継いだ。
何びとも、かの人と比べるものではないが、なにかをやり遂げようと志す者にとって必要なものは年齢ではないと知っている。
周瑜はちら、と徐盛に目をやった。
「何か言いたそうだね」
「いえ」
「おまえは拗ねているのだろう?連れて行ってもらえないから」
周瑜は口の端を歪めて言った。
「・・・そのようなことはございません、ただ・・・某も山越討伐の経験はあると申し上げたかっただけです」
周瑜は憮然とした態度の徐盛を見てクスリ、と笑った。
「なにもあのような若造を連れて行かずともよいではないか、とでも言いたいのかね」
「・・・・いいえ、決してそのようには」
「そういうだろうと思っておまえには別の仕事を与えるつもりだったよ」
「は・・・別の・・・ですか」
徐盛は内心がっかりしていた。
どちらにしても、周瑜とは別行動になるのだ。
「そう。とても大事なことで、失敗は許されないことだ。だからおまえに頼む」
だが周瑜の美しい唇が引き締まるのを見て、徐盛は考えを改めた。
「お役に立てることであればなんなりと」
「そうか。では早速一軍の編成にかかって貰おうか」
「は」
徐盛としてはとにかく、この人を失望させないことがなにより大切であった。
「偵察を出してある。それが戻るまでに陸の部隊を編成しておくように」
「承知しました」
それからまた数日たって、事態はいささか慌ただしくなってきた。
偵察に出していた警備隊が戻ってきて、ある報告をしたのである。
「宜城でも山越が叛乱を起こしたと・・・・!」
「なんと」
おかしい。
あまりにもタイミングが良すぎる。
周瑜は先だって孫瑜と話していたことへの信憑性を高めた。
「どうしますか?先に宜城を叩きますか?」
孫瑜が訊く。
「いや。これはおそらく陽動です。江夏の山越を攻めるという情報をだれかが流したのでしょう。それでこちらの戦力を分断させるために起こした叛乱だと察します」
「では・・・やはり・・・」
「まず、間違いないでしょう」
周瑜はきっ、と顔を上げた。
「仲異殿、この前あなたとお話しさせていただいたときから、私にはそのような可能性もあると思っておりました」
「公瑾殿・・・」
「誠に、あなたとお話しできて良かった。そのようなこともあるかと、実は密かに別働隊を組織しておりました」
孫瑜は周瑜の白面の笑みを受けた。
「おお、さすがは公瑾殿」
「仲異殿の船団と一緒に夏口まで行き、そこで宜城を攻める軍を出します」
「残った我々は長江を下り、沙羨城に駐屯するのですね」
「その通りです」
「わかりました。時に宜城を攻める軍の指揮はどなたが?」
「徐文嚮に」
「都督の腹心の彼ならば安心ですね」
孫瑜の言葉に周瑜はニコリと笑った。
一方、留守を任された甘寧がぼやいていた。
「なんでこんな大事な時期に都督がご不在になるんだ」
「ぼやいたってしょうがないだろう」
なだめるのは呂蒙の役目になっていた。
「しかも連れていくのがあの小僧だけってのが気にいらねえ」
「黄祖の軍との小競り合いが絶えないんだ。俺たちだって気は抜けないんだぞ」
「んなことはわかってらぁな。俺が気にいらねぇのはなんで今の時期なんだってことだ」
「そんなことを言ったって仕方がないじゃないか。山越がわざわざ時期を選んで叛乱を起こすわけじゃあるまいし」
「・・・宜城でも叛乱が起こったらしいな」
「興覇・・・何を考えている」
「さあな。ただ、気になっただけだよ」
飄々と言って歩み去っていく甘寧を呂蒙は見送った。
甘寧という男は武のみならず知恵もまわる武将であることは今後あらゆる戦において発揮されるわけであるが、現状彼にできることは他になかった。
その彼が厩の前を通りかかった時である。
なにやら大声が聞こえる。
「なんだ?」
将兵らしい男が、厩舎の馬子になにか言いつけていたらしい。
「いいか、俺の馬は必ず他の馬より先に出しておけよ」
「あの・・・しかし他の司令官の方々の馬が・・・」
「司令官だあ?そんな前線にでてこねえやつの馬なんか後回しに決まってるだろ」
「でもそんなことをしたら罰せられます」
「ケッ、おまえのことなんざ知ったことじゃない。とにかく俺の馬が先だ。出てなかったら俺が罰をくれてやるからな」
馬子は飼葉を手に、困ったような顔をしていた。
「おい」
甘寧は見かねて声をかけた。
将兵はハッ、と気がついたように甘寧を見た。
「おまえ、どこの隊のもんだ?」
相手は甘寧を将官だと悟ったようで、礼を取った。
「じ、自分は孫綏遠将軍様旗下の営軍督、陳勤と申します」
「ふぅん。じゃあここの兵じゃねえんだな。ここにはここの流儀がある。てめぇのわがままを言って馬子を困らすんじゃねえぞ」
「は、はあ・・」
陳勤はバツが悪そうにその場から慌てて去っていった。
「なんだ、ありゃあ・・・随分横柄なヤツだな」
馬子は助け舟を出してくれた甘寧に丁寧に礼を述べた。
「あの人、この前来た軍のお人らしいですが・・ああやってよく使用人やら雑兵を困らせてるみたいです」
「まあ、これだけ人がいりゃいろんなヤツはいるわな。おまえはおまえの仕事をしてりゃいい」
「は、はい」
甘寧はそう声をかけると営舎の方に向かった。
下士官の営舎までくると、なにやら号令が聞こえた。
「・・・?だれかが閲兵でもやってんのかな?」
甘寧が覗いてみると、将兵と徐盛の姿が見えた。
「あいつは都督の側近の・・・」
甘寧が傍に行って声をかけた。
「よう、徐校尉殿」
「甘興覇殿」
「あんたも周都督と一緒に山越討伐にいくのかい?」
「・・・そんなところです。なにか御用でござるか?」
「いや、ちと通りかかったもんでな」
徐盛は甘寧をじろりと見た。
そして将兵を下がらせると、甘寧に向き直った。
「このようなところで油を売っていてよろしいのかな」
「なあ、徐校尉殿。あんた周都督といつも一緒だよな」
「・・・・それがなにか?」
「あの人、本当に男か?」
徐盛は表情を出さないまま甘寧を睨み付けた。
「・・・それはどういう意味でござるか」
「いや、俺は今まであんな綺麗な男を見たことがなくってな。なんというか、声音もちぃっとばかし高いしよ」
徐盛はそれを黙って聞いていた。
「俺がもしあんたの立場にいたら、きっと迷ってただろうなあ、ってな」
甘寧はそういって笑う。
だが徐盛はクスリとも笑わず、じぃっと甘寧を睨んでいた。
「ああ、悪かったよ、そんなに睨むなって」
「・・・」
「あんたはそう思わないか?」
「そのように思ったことはない」
「へえ、そうかい?」
「おぬしがもし、そのようなことを軍内で言いふらしているのならば・・・」
徐盛は脇差に手をかけた。
「おいおい、よせよせ。そんなこと、いうはずがないだろ」
「・・・ならばなぜわざわざ某にそのようなことを言う」
甘寧は、徐盛のあまりのまじめさにプッ、と吹き出した。
「真面目な人だな、徐校尉殿。悪かったよ」
「・・・・」
「おまえさんとやり合ったら双方無傷とはいかんだろ。・・・まあ、いいさ。正直なことを言おう」
徐盛は腰から手を下げた。
「俺は、いつも都督のお傍にいるあんたが少しうらやましいんだよ」
徐盛は意外な言葉を聞いた様な顔をした。
「それに、あの人についてけば面白い戦もできそうだしな」
「おぬしは今あの方が本当に男なのかと言ったばかりではないか」
徐盛はフッ、と笑いながら言った。
「そりゃ言葉のアヤってもんさ。そういうあやういところがいいんじゃないか。見ていてゾクゾクするぜ」
甘寧も言いながら笑う。
「あんな女みたいな顔をして鬼神のごとき戦をするんだからなぁ。俺なら一日中あの顔に見とれてるぜ、きっと」
「フッ・・・ははは」
徐盛にしては珍しく、声を出して笑った。
「そんなに笑うなよ」
そう言って甘寧もまた笑った。