(2)


徐盛が率いるのは5千の兵である。
宜城の叛乱の規模はそう大きくないと判断した周瑜の決めたものである。
一方、麻保屯を攻める部隊を1万5千とし、孫瑜の率いる部隊と凌統の率いる部隊に分けた。
夏口で徐盛の部隊と別れ、沙羨城へと下る。
麻保屯は沙羨と長江を渡ったところにある。

「宜城の叛乱のためにこちらの人数を割かねばならなくなった。孫将軍の兵力を主力として二つの屯所を各個撃破する」
周瑜の声が響く。
ここ、沙羨の対岸に設けられた軍の幕舎の中で、軍議が開かれていた。
「心得ました」
将兵たちが頷く。
「まず保屯(ほのとりで)を1万の兵で攻める。麻屯への道に埋伏の軍を置き、二つの屯を完全に分断する」
「なるほど」
「山道ですから軍は細長く、大軍を輸送するには時間もかかるはず。2千の兵を500ずつにわけ、山道の脇に埋伏させ麻屯から出てくる敵の友軍を叩く。残りの3千は後詰めだ。そのうち500を遊軍にして待機させよ」
「麻屯を孤立させるわけですな」
孫瑜が顎に手をやって言った。
「そうです。そのためには保屯を電光石火の速さで落とさねばならない」
周瑜はそう言って、凌統たち将官を見た。
「おまえたち、やれるな?」
「心得ております」
「保屯を落とした後、一旦兵を返して全軍でもって麻屯を包囲せよ」
「はっ」
「孤立した屯は兵糧も心許なくなり、志気も下がるものだ。いくら数がいようと我が軍の敵ではない」

出せるだけの指示を出して、周瑜は幕舎に戻った。
今回は若い武将らに前線を任せ、本陣の中で指揮を執るつもりであった。

果たして周瑜の立てた策どおり、凌統たちの軍は保屯をたった一日で落とした。
「決して火は使うな」
と命じられたとおり、屯を落とした後、投降した者たちと糧食を得ることができた。

そして兵をまとめて麻の屯所を包囲した。
「慌てることはない。奴ら、こう包囲されては身動きも取れまい。こちらの準備が整い次第総攻撃をかける」
孫瑜がそうふれをだした。
総攻撃の期日が決まったので、野営の陣を構えながらも凌統たち兵は一息つけることになった。

そこで、事件は起こった。
営軍督の陳勤という将兵が味方の将官以上の者だけを招いて酒宴を催すというので、凌統らもそれに参列したのであった。
しかし、この男、なにより礼儀を知らぬ男であった。
それに、なにかにつけて、若い凌統につっかかってくるのだった。
凌統はしばらくそれを我慢していた。
陳勤は自分より一回り以上は年上であろう。
その彼がこんな若造の下につかねばならないのだ。気に食わぬこともあるだろう、と彼なりに気を遣ってもいたのだ。
見かねて、別の督が凌統に席を立つように勧めた。
「あの男はいつもああでしてな。酒がはいるともう、本当に手がつけられないんです」
そう凌統に耳打ちをした。
他の者と一緒に退席していこうとした凌統に陳勤が声をかける。
「凌司馬殿、まだいいではないですか」
「いや、もう充分いただきました。これにて失礼を・・・」
「なんだなんだ、目上の言うことは聞くものですぞ」
「・・・」
凌統はかまわず幕を出た。
ところがこの男、よろよろとあとをついてくるではないか。
「・・・陳督殿、まだなにか?」
「いやいや、話しにきけばおぬしのお父上は先代の殿の部下だったとか。いやぁいいですなあ!お父上だってろくな功績をあげたわけでもないのにその息子というだけで司馬だってんだから」
「・・・なんだと」
凌統にはまだ、父の死を受け流すには時間が必要であった。
陳勤は運悪くそれを知らなかった。
「おぬしの親父は山賊倒して名をあげたそうじゃないか。血は争えないねえ」
「父上を侮辱する気か」
「ハッ!侮辱もなにも、本当のことじゃないかね?江夏でうっかり前にでて流れ矢に当たっておっ死んだんだろ?」
「貴様・・・!」
「山賊相手の戦しかできなかったってことだよな。さすが田舎の猪武者だ。田舎者はおとなしく山で猪でも狩っておれば死なずにすんだものをなぁ」
陳勤はそういって笑った。
「おのれ!」
凌統は勢い余って抜刀していた。
居合いのように、凌統の剣が一閃した。
「ぐ・・・・っ」
ぐふっ、とうめいて陳勤は倒れた。
「ひっ!」
傍にいた将兵が悲鳴を上げた。
「凌司馬殿・・・っ!ぐ、軍規違反ですぞ・・・っ」
駆けつけた別の督も、顔色を蒼くしていた。
「凌司馬殿・・・これは・・・いったい」
「・・・・お、俺は・・・・」
べっとりと血糊のついた剣を持って、返り血をあびた少年がそこに呆然と立っていた。


このことはすぐに周瑜の耳に入った。
「作戦中に将が士官を殺すとは・・・」
孫瑜も傍にいた。
「どうしましょうか。凌公績を拘束しますか?」
周瑜は目を瞑っていた。
やがてその目が開くと、
「いや。公績はそのまま任務に就かせる。ただし、期日を早める。・・・総攻撃の前に余裕ができすぎたようだ・・・」
そう言って、苦悶の表情になる。
「わかりました。では彼の処置は戦の後で、ということですね」
「・・ええ。頼みます。しかし、仲異殿の隊の督を殺してしまうとは・・・なんと謝罪したらよいか」
「殺されたのは陳勤という営軍督の男でした。こういってしまってはなんですが・・・この陳はあまり周りから好かれてはいなかったようで、当日も同席していた数人が、彼の方が凌公績に無礼をはたらいたのだと言っています。彼らからは凌公績への減刑を求められております。むしろ私の方がお詫びしなければいけないのかもしれません」
「仲異殿・・・」
周瑜は孫瑜のこの言に心を打たれた。
「自分より若いとはいえ軍将を馬鹿にしたりするような者は他の者へも示しがつきません。殺された陳には気の毒ですが、ここまでの命数だったのでしょう」


この事件があってから、凌統の幕舎に近づく者は伝令を除いては、いなくなった。
彼は悶々と考えていた。
「いくら・・・あんなことを言われたからといって俺は・・・」
自分をこの討伐の指揮官に任命してくれた周瑜の顔に泥を塗ったも同然のことをしてしまった。
悔やんでも、悔やみきれない。


「凌司馬殿、周都督殿がお呼びでございます」
その声に、面を引き締める。
どのような罰でも受けるつもりであった。

「周都督、凌公績です」
「お入り」
「失礼致します」
凌統は周瑜の幕に入ってもなかなか周瑜の顔を見ることができなかった。
「都督・・・誠に申し訳ありませんでした・・・。どのような処罰でも受けます」
「公績、顔を上げよ」
「は・・・」
いつも綺麗だと思って見つめていた顔が、今日は見知らぬ人の顔のように冷たく見えた。

「酒の席のことだと聞いている」
「はい」
「・・・父を罵倒されたからだ、ということだが、相違ないか」
「はい」
「自分のしたことがわかっているのだろうね?」
「無論です。だからこうして参りました。今ここで縄を掛けられても一向に構いません」
「おまえがこの始末をどうつけようと考えているのか、聞かせてほしい」
「・・・死んでお詫びをするしか、ないと思っております」
「ほう」
「自分の殺した男は、孫綏遠将軍麾下の将兵です。その軍を任せていただいたというのに、このような不始末をしでかしてしまい、周都督に恥をかかせてしまいました」
周瑜はその白皙の顔でじっと凌統を見つめた。
「死ぬ覚悟があるということだな」
「はい」
「・・・・では、麻屯を落として見せよ。おまえも武人ならば戦で死ぬが良い。それでも生きる命であるのならばそれは天命というものだ」
凌統は驚いて周瑜を見た。
「どうした」
「は。いえ・・あの・・・お、俺、いや自分は・・・その、このままでよろしいの・・・ですか?」
「今は戦の最中で、作戦実行中だ。これより優先させることは他にはない。おまえの替わりを今から選ぶ時間もない。死んで詫びを入れるというのであれば役に立て」
「は、はいっ!」
厳しい目だった。
美しいだけに、一層そう思う。
凌統は一礼して、その場を辞した。

(こうなれば戦に死に場所を求めるしかない・・・・)
凌統は奮い立った。
自分の幕に戻り、部下達の前に出て言った。
「俺が先陣を切り、血路を開く。おまえたちはその後に続け。いいな?」
凌統は自分の部隊長たちにそう言った。
「しかし、それでは・・・・」
「俺がもし討たれたとしてもおまえたちは退いてはいけない。そのまま突撃して屯を落とせ。いいな?」
配下の将たちはお互いの顔を見合わせた。
「己の罪は戦で贖う。俺に続き、おまえたちは戦功を立てろ」
「はっ!」

期日を一日早め、早朝のうちに総攻撃が始まった。
屯所の門を大木でうがち、外から押し破ると、呉の軍はなだれ込むように屯へと進軍した。
凌統は矢面に立ちながら斬り込み隊長として先陣を切った。
「俺を殺せる者はおらぬのか!!」
そう怒鳴りながら縦横無尽に斬り込む。
山越側としても、まさかこのように正面きって攻め込まれるとは思っていなかった。
しかも、先頭切って斬り込む将は疾風のごとく、ふりかかる矢をなぎ払いながら
彼の通った跡には道ができ、その両脇には累々と死体が積み上がっていった。
死を恐れぬ者はここまで強いのか。
凌統のすさまじい戦いっぷりに、彼に付き従う兵たちは口々に感嘆の声をあげた。


麻屯はその日の夜半に落ちた。
そのまま山奥に敗走する者もいたが、追撃隊を指揮していた孫瑜の遊撃隊にことごとく討ち取られた。
屯にいた1万弱の越人たちが投降し、捕虜となった。

山鳩の鳴き声が聞こえる。
あれほどまでに怒号と悲鳴が交錯した戦場も、いまは孫軍が焚く篝火だけが明るく灯り、ひっそりとしていた。

凌統は血と土煙で真っ黒になった顔を小川の水で濯ぎ、意を決したように、本陣へと向かった。
「周都督、おいででしょうか」
凌統が本陣の周瑜の幕を尋ねたとき、周瑜は不在だった。
小姓にどちらへいかれたか、と尋ねると、長江の方に向かったと教えられた。

長江のほとりには飲み水用にためられた大きな水瓶が幾つも並んでいた。
その水瓶の前を通り過ぎると、果たしてその人はいた。
「都督。こちらでしたか」
「・・・公績か」
水面に蒼い月が映る。
灯りといえばそれだけだった。
青白い光の中で、ゆっくりとこちらを向くその人の肌はなお蒼く輝いていた。
「よくやったな。これほど早くに落とせるとは思わなかった」
「は・・・」
凌統は頭を垂れた。
そして、そっと月影の人を見やった。
「あの、俺・・・いや私の処分ですが」
「縄をかけてほしい、と校尉に申し出たそうだね」
「はい。自分は・・・罪人ですから・・」
「それがどうしてここにいる?」
「山越の捕虜が1万もいるのにこれ以上手を煩わせないでくれ、と、督たちに言われました」
周瑜はクス、と笑った。
「孫将軍には・・・その、正式な処分は殿にお任せするから、自重していろと・・・」
「おまえはこの戦に功があった。それはだれもが認めることだ。死んだ陳勤には悪いが、おまえとあれを秤にかけるまでもないと、私は思うが」
「ありがたい仰せだとは・・・思いますが・・・自分の罪はまた別です」
「おまえは自分に罰を与えて欲しいと思っている」
「は、はい・・」
「だがそれは、罰を受けることで自分の罪から目を逸らそうとしているに過ぎないのだとわかってもいる」
「・・・!」
「わかっているよ。苦しいのだろう?誰かが罰してくれれば少しは罪を贖った気持ちになれるのだからね」
「都督・・・・。あなたには・・・・なにもかもわかるのですか・・・」
周瑜は不敵に笑う。

この人は一体何者なのだろう。
天から舞い降りた天上人でもあるのだろうか。
心の内を見透かされ、凌統は周瑜を見つめながらぼんやりと思った。

「ごらん、あの月を」
周瑜が指さす方向に、大きなまだ満月にはいくばくかの時間が必要な月が浮かんでいた。
「月はああして満ちていき、そしてまた欠けていく。悠久なる時をそうして過ごしているのだよ。それに比べたら我々の生きている時間なぞなんと短いことか」
「はあ・・・」
凌統は周瑜がまた難しいことを言おうとしているのかと思い、一生懸命それを理解しようと聞いていた。
「おまえは生きてまだ17年。あの月にかざせば取るにたりない年月だ」
「・・・・」
「おまえはこれまで生きてきた時間よりももっと長く、これからの歳月を生きねばならない」
「はい」
「今日のことはおまえの記憶に一生残るのだ」
「・・・・・はい」
「その記憶を抱いておまえはこれからの長い年月を生きねばならぬ。これがおまえの罰でなくてなんであろう」
「・・・都督・・・」
「死ぬこと、鞭打たれることだけが罰ではない。罰とはその者の後にどう影響を与えるかを諮るための手段にすぎない。鞭を千回打たれても反省しない者もいるだろう。そういう者にとっての罰は別の形を取るべきなのだ」
周瑜は凌統の傍に歩み寄った。
「おまえは自分の罪を認め、それを悔いている。おまえはもう罰を受けているのだ」
「は・・・い」
「どうしようもなく苦しいのだと、悲しいのだというのなら、それはおまえの心が罪を償っているからなのだ。その心から逃げる必要はない。苦しめばいい。哀しめばいい。それがおまえにいま必要なことなのだから」

その時、凌統は泣いた。
周瑜はその凌統の背を軽く叩いて、無言でその場を去った。
彼の父の葬儀を終えてから初めて見せた涙であった。






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