(3)
麻保屯をたった数日で落として帰還した周瑜たちは、夏口で徐盛の軍からの報せを待っていた。
ちょうどその時である。
「おい、あそこの艇を止めろ」
長江を柴桑方面から出向く小舟が夏口で検問をしていた孫瑜の軍に掴まった。
乗っていたのは男三人で、ふたりは船を漕ぐ人足であった。
「公瑾殿、内密でお話しがございます。よろしいでしょうか?」
孫瑜の呼び出しに、周瑜は眉をひそめながら船の中の将官室へと向かう。
「なんのお話しなのです?」
二人が将官室の胡床に腰掛けると、さっそく孫瑜は机の上にある羊紙を広げた。
周瑜が立ち上がってそれに目を通す。
「これは・・・」
「私の警備兵が先ほど掴まえた密偵の持っていたものです」
そこには、山越の蜂起を促す内容が書かれていた。
「これをどこへ持っていく途中だったのでしょうか」
周瑜が聞く。
「それはまだ。持っていた者にいま口を割らせていますが・・・ですがこれを」
孫瑜が指さす書面の端に、それはあった。
『孫』の文字が。
「船がどこからきたのかも、吐かせねばなりませんね」
孫瑜は苦々しい顔になった。
「・・・しかし、これだけでは証拠にはなりますまい」
「殿が都に不在なことを知らねば、このような愚挙にはでられません」孫瑜は硬い表情のまま言った。
「・・・・仲異殿。心当たりがあるのですか」
「いえ。ただこの筆跡に少々・・・見覚えがある気が致しまして」
「ほう・・・それは果たしてどなたですか?」
「・・・確証はありませんが・・・その、一人であれこれ悩むより公瑾殿にお話ししてしまったほうがよいと思いまして・・・」
「決して他言はしないと誓います」
きまじめにそういう周瑜に、孫瑜はにこり、と微笑みかけた。
そして、面を引き締め、言った。
「この筆跡・・・丹陽太守のものではないかと、私は思うのです」
「・・・・確かですか?」
「はい」
丹陽太守といえばいまは孫輔が拝命しているはずであった。
「しかし・・・見覚えがある、というだけでは決定的とはいえませんね」
「ええ」
「・・・しかも、あなたや殿の血に連なるお方です。不用意なマネはできません」
「いいえ公瑾殿。孫の名を名乗る者だからこそです。万が一にも、疑われるべきですらありません」
「仲異殿・・・・」
「公瑾殿。あなたは討逆将軍のお側にいた方だ。将軍がもし生きておいでならこたびの件、どうなさったとお思いでしょうか」
討逆将軍・孫策。
周瑜が命を懸けた、あの若者のことである。
あの活達で豪快な彼が今生きてここにいたならば−。
(あの方は噂などに翻弄される方ではなかった。確たる証拠を掴み、その上でどうでるかを決めていかれた。ことにお身内ともなれば、更にことは慎重にならざるを得ないだろう・・・)
周瑜はしばらく目を瞑って何事か思案していた。
「・・・・あなたのおっしゃりたいことはわかりました。ではひとつ、策を仕掛けるとしましょう」
「どうなさるのですか?」
「いま密偵を掴まえましたね。この者を利用するのです」
「・・・・」
「この密偵を拷問せず、配下として使うのです。待遇良くすればすぐに寝返るでしょう」
「なぜそう言い切れるのですか?」
「密偵の乗ってきた艇を見ました。慎重を期す仕事を任せているとは到底思えません。私なら密偵をやるならどこかの船団に潜り込ませます。その方が安全だからです。あのように人足を雇い船頭をさせ、ぼろ田舎釣船などを使わせるようなことはしません。あれでは疑ってくれといわんばかりです」
「なるほど。それであの密偵は重用されていないというのですね」
「そうです。重用されていないということは不満もあるはず。そこをつくのです。万一従わないようなら家族を人質に取るとでも言えばよろしい」
「・・・わかりました。そのように手配致します」
周瑜はその優しげな顔とはうらはらに、時に残酷で大胆な策を用いることがある。
孫瑜はそういう面をみたとき、周瑜に対して底知れぬ奥深さを感じるのであった。
そう思い、孫瑜は周瑜の白面をじっと見つめた。
「・・・・仲異殿、なにか?」
「あ、いえ・・・少し、昔のことを思い出していました」
「昔のこと・・・ですか」
「ええ。厳白虎を攻めたときのことです」
「・・・・・ああ、あのときのことですか」
「あのとき、私は父の部下として従軍しておりましたが、あなたが厳輿を殺せと命じたと聞いて、驚いたものです」
周瑜はクス、と笑って
「なぜですか?」と聞いた。
「あなたのことだから、もっと穏健的にいくと思っていたのです」
「ほう・・・」
「あなたはいつだって無駄な戦をしないし、無駄に人も殺さない。そんな沈着なあなたの策とは思えなかったからです」
「・・・・それが私に対するあなたの評価というわけですね」
「そうです」
「私だって軍人です。あなたの言うように温厚で優しい人間ではないのですよ」
「そうでしょうか・・・」
「激情家で短気なところもあるのですよ」
周瑜は苦笑しながら言った。
「こんなことを言うのは何ですが、鎧を脱いだ時のあなたと今のあなたでは別人のようにおなりですね」
「それは仲異殿も同じではありませんか」
そう言われて孫瑜も苦笑した。
「しかし公瑾殿、このところ、あまり都に戻られておらぬでしょう」
「ええ・・いろいろやることが多いもので」
「奥方はさぞさびしがっておられることでしょう」
「あれも軍人の妻となったからにはわかっているでしょう」
「そうはおっしゃっても、あなたは大変な愛妻家だと伺いましたよ」
孫瑜は笑う。
「そのように言われているのですか、私は」周瑜は朗らかに笑いながら孫瑜を見た。
「ええ、それはもう。女どもの間では噂になっているようです。私の妹などもあなたにお会いしたいとダダをこねる始末で」
「ははぁ」
「次ぎに会稽にいらっしゃるときには是非うちへ立ち寄っていただけませんか」
「それはそれは。お招きいただけるとあれば是非にお伺いいたしますよ」
「お約束しましたよ」
「ええ」
周瑜は涼やかに微笑んだ。
それから数日たって、徐盛の軍が戻ってきた。
「首尾は?」
「頭目を捕らえましてございます」
「よし。では柴桑へ帰還する」
周瑜と孫瑜の船団は戦勝の報告のために柴桑へ向かった。
「手柄を立てたようだな」
「都督のおかげをもちまして」
「ふ、謙遜しなくていい」
船の中の、周瑜の部屋にきて徐盛が報告を行っていた。
「凌公績の姿が見えないようですが、なにかございましたか」
「ああ・・・あれは先に柴桑へ送り届けた。戦の最中にちょっとしたことがあってね。城門校尉に身柄を拘束させ、殿のお沙汰を待たせておる」
周瑜は手短に事情を説明した。
「・・・・」
徐盛は厳しい目つきになった。
「どちらもどちら、だな。公績の方が若い分忍耐が足りなかった」
周瑜に余計な心労をかけさせたことが彼の一番の罪だ、と徐盛は思った。
「殺された陳勤の家族には充分な補償をしてやらねばな」
「そのようなことは文官にお任せになればよろしいでしょう」
「・・そうだね。禍根が残るようにはしたくない。陳勤にもし男の子供がいたら今度は自分が甘寧の立場になるのだからね」
「軍営中のこのような不始末、普通なら死罪でございましょう」
「・・・普通なら、ね」
周瑜はふぅ、と嘆息をついた。
「お疲れでございましょう。某はこれにて失礼を・・・」
「ああ、構わない。なんでもいいから、話し相手になってくれないか」
出ていこうとしていた徐盛は足を止め、再び周瑜に向き直った。
「都督のお心のままに」
ふと、徐盛は甘寧に言われたことを思いだした。
(・・・あんたがうらやましい。俺なら一日中、あの顔に見とれてるぜ)
ふ、と口元が緩む。
「なんだ?なにかおかしいか」
「いえ。なんでもありません。少々思い出すことがありまして」
「おまえにしては珍しいね」
周瑜は胡床に腰かけながら足を組んだ。
「失礼いたしました」
徐盛は、周瑜が気を悪くするのではないかと思い、甘寧とのやりとりのことを話して聞かせた。
「・・・なるほど」
「あの御仁、口は悪いですがなかなかに切れ者です」
「そうだね。機を見るに長けている男だ」
「ですが都督に対する無礼を放ってはおけません」
「陣内で抜刀騒ぎを起こさずにいてくれて助かったよ」
周瑜は笑って言った。
「おまえがそんな理由で甘寧を斬りつけていたら私だって今回のようにかばえなかったかも知れないからね」
「彼の態度次第では斬っていました」
徐盛は大まじめに言った。
「おまえは時々そういう苛烈なところもあるね、文嚮」
「・・・抑えられる怒りばかりとは限りませぬ故」
「だが、おまえは目の前の怒りに気を取られて大切なことを忘れている」
徐盛は、ハッとして周瑜を見つめた。
周瑜が徐盛を指さす。
「おまえはそれでいいだろう。己の怒りの矛先を向けた相手を斬って、それで終わりだ。だが・・・」
その同じ指でもって自分を指さす。
「その原因となった私はどうなる?部下が殺した相手に謝罪しなければならぬ上に、大切な部下も失くすのだよ?これではかえって迷惑を掛けられるだけだ」
「・・・・」
徐盛は周瑜の目の前で片膝を付いた。
「申し訳ありません・・・某の考えが浅うございました」
「己が行動した結果、周りがどうなるかを予想できなければ行動を起こすべきではない」
「肝に銘じます」
「・・・文嚮」
「はい」
「おまえは私が好きか?」
唐突に訊かれて、徐盛は返答につまった。
「おそれ多いことながら、尊敬しております」
そういうだけで精一杯であった。
「つまらない答えだな」
「・・・・申し訳ございません」
おそるおそる、周瑜の顔を伺うように見上げる。
周瑜は組んだ膝に肘をのせ、頬杖をついて顔を外へ向けていた。
機嫌を損ねたのだろうか、と思ったが良い言葉が浮かんでこない。
だがそんな徐盛の思考はおいてきぼりのまま、周瑜は語り出す。
「好きかと訊かれたら答えは、はい、か、いいえ、しかないな。それを別の言葉で返すというのは相手に本意を気取られないようにするための方便だ」
「・・・・」
「ふむ」
周瑜は何事かを考え込んでしまったようだ。
徐盛は周瑜の不興を買ったのだろうかと気が気ではなかった。
それでじっと周瑜を見つめていたのだが。
急に、周瑜と目があって、徐盛は心ならずもドキリとさせられる。
「なるほど」
「・・・?」
「おまえほど行動にその答えが出る者でも面と向かっては正直に答えられるものではないか」
周瑜の言っている意味が徐盛にはよくわからなかった。
「それはなぜだ?なぜ、はっきり言わぬ?」
徐盛は、先ほどの答えが気に入らなかったのだろうか、と思った。
「・・・言葉にすべきことではないと思うからです」
徐盛は正直に答えた。
「言葉にすれば見返りを求めていると思われるかもしれません」
「ふむ・・・」
「・・・某の申すことで何か、ご不興をかわれましたか」
「ん?」
周瑜は徐盛を見た。
「・・・ああ、おまえのことではないよ。いや、違うな。おまえが良い答えをくれたからだ」
「・・・・は」
なにか、この人は今の問答のなかにまた別の策略のヒントを見つけていたのだろうか、と徐盛は気づいた。
「まあ、よい。いまのおまえとの話で私の腹は決まった。私はこの後会稽へ向かう」
「・・・!柴桑へは戻られぬのですか」
「一度報告のために戻るが、おまえは柴桑へ残り、江夏征伐に備えよ」
「はい。・・・お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ん、なんだ?」
「会稽へ向かわれるのは何か隠密の作戦の為でございますか」
「・・・いや、違う。孫綏遠将軍の家に招かれているのだよ」
「・・・・?」
徐盛は悟った。
なにか大きな秘密を、この人は握っているのだ。
でなければ江夏征伐を目前に控えながら、会稽まで行くという理由がない。
「某には、今の都督の会話の意味が、いまひとつよくわかりません。そしてそれでなぜ都督が会稽へ向かわれることになったのかも」
真面目な顔で徐盛が言う。
周瑜は、自分が彼を困らせているのだと気づき、苦笑した。
「・・・なに、まだ、問題というほどのことではないがね。気がかりなことがあるので、それを確かめにいくだけなのだよ」
「・・・・某はご一緒させてはいただけないのでしょうか」
「おまえの仕事は何だ?ここを開けるわけにはいかないだろう」
「それは承知しております」
「なら自分の仕事を全うせよ。私は戦をしにいくわけではないのだよ」
だからこそ、心配なのだ、と徐盛は心の中で思う。
指揮をとり戦に出るのならばこの人ならば負けることはないだろう。
だが、敵は外ばかりではない。
孫権の代になり6年がたち、先代からの将と新しく臣下に加わった者たちの間で少しずつだが溝ができはじめているのを、徐盛は感じていた。
周瑜とてそれに影響されていないはずはない。
「文嚮、おまえは私と別れるのが寂しいのか?」
周瑜が挑むような目で徐盛を見た。
「・・・いえ、そのようなことは」
「そうか、残念だ」
クスクス、と周瑜が笑う。
「私は寂しいのだがおまえは違うのだね」
徐盛は頭を垂れた。
からかわれたのだ、と思った。
時々、この人の真意がわからなくなるときがある。
どこまでが本気で、どこまでがそうではないのか。
そんなことで右往左往する自分が時々馬鹿馬鹿しく思う時もある。
だがその微笑みを見るだけですべてがどうでも良くなってしまう。
「・・・都督。先ほど申し上げたとおり、言葉にすべきことではありません」
「ふ」
周瑜は可笑しそうに言った。
「私が悪かったよ」
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