(4)
孫静、字は幼台。
孫権の父孫堅の弟である。
呉州の主となった孫権もこの叔父には一目置いている。
父、兄に仕え、江東を転戦した歴将でもあるが、この叔父は他の者と違い、孫権がいくら官位を授けようとしても辞退してくる。
通常ならばこのように辞退することは主に対し、不敬にあたるのであるが、孫権は叔父の性格を良くしっていたため、特に言及することはなかった。
今は会稽に居を構え、娘と一緒に暮らしている。
「叔父上、ご無沙汰しております」
「おお、公瑾か。真に久方ぶりだな」
周瑜が孫静の家を訪ねたのは初夏であった。
「おぬしは、相変わらず美しいな」
「叔父上もお元気そうでなによりです」
周瑜と孫策が義兄弟になったあの日から、身内の中でのみ孫静を周瑜は叔父と呼んでいた。
「最後に会ったのは、あの時だな。伯符殿の葬式のあと、皆で集まり今後のことを話しおうた・・・」
「そうでしたね」
「あのときおぬしがおらなんだら今頃どうなっていたか」
孫静は当時のことを思い出した。
あれはもう6年も前のことになるか−。
「まず、やらねばならぬことがあります」
周瑜の、凛とした声が響き渡ったのを覚えている。
「殿は、亡くなられた」
座った膝についた拳を握ったまま、その表情は微動だにしない。
「しかし、いつまでも嘆き悲しんでいるわけにはいきません。我々は先へ進まねばならない」
張昭、程普、黄蓋、朱治、韓当、孫静、呂範ら古参の、周瑜にとっては目上の人物ばかりがぐるりと囲む。
「しかし、張子綱殿は許にあり、侍御史となっておられる。このまま曹操の元へ残るのではないか」朱治が言う。
それへ、周瑜は首を振り、張昭へと目線を移した。
張昭は目でそれを受け取ると、口を開いた。
「それについては呉国太様が何度か張子綱殿へ書簡を送っておられる。張子綱殿はこの機に江東へと進軍するつもりであったらしい曹操を、諫めてくれたようです。曹操も子綱殿を手元に置きたいようで、滞在が延びてしまってはおりますが、孫家に仕えるお心に代わりはないご様子です」
それを聞いて一同はほっと胸を撫で下ろした。
「時に、子布殿。大弟君はどうなさっておいでか?」
孫権の叔父でもある孫静が尋ねる。
「相変わらずですよ。喪服を着たまま、呆然となさっておられる」
張昭の答えに、一同がざわめく。
「やはり叔弼殿の方がよろしかったのでは」
韓当が不安げに言う。
孫策は死の間際、自分の後継者に次男の孫権を指名したのであったが、まわりでは兄弟のなかで最も孫策の面影がある三男の孫翊に継がせるのがよいのではないか、との意見もあったのである。
周瑜は静かに微笑んで、韓当へ返事をした。
「義公殿。確かに討逆将軍というお方は特別な存在でした」
韓当も、神妙な顔つきになる。
「一つの希有な存在が消え、その二番煎じが出たところで前の者を越えられるはずがありません。仮に叔弼殿が跡を継ぐことになったとして、我々は、在りし日の討逆様を思い、叔弼殿に予想外の期待と負担をかけることとなるでしょう。しかしてその結果、討逆様でしかできないことがあるということを思い知らされ、打ちのめされるようなことにでもなれば、目も当てられません」
「ふむ。確かに・・・過分な期待は、それを背負う者にとっては重荷になろう」
腕を組んでいた程普がそう呟いた。
「我々はこれまでのやり方を改めねばならない時期にきているのです。なぜ討逆様は弟君を自らの跡継ぎに指名したのかを考えれば、その道は自ずと知れましょう」
隣で聞いていた張昭は静かに頷いた。
「亡き殿は生前こうおっしゃっておられました。『武勇ではとうてい自分には叶わないがあれには自分にはない能力がある。あれなら国をうまく治めることができるだろう』と。我々は亡き殿のことばかりを思ってその面影を求めようとしています。ですが亡き殿がその心眼で見抜かれた弟君の器を信じようとはお思いになりませんか」
張昭はうんうん、と頷き、周瑜の言葉をうけて繋いだ。
「なにも、主人が必ずしも戦上手でなければならないという必要はありません。ここにおられる方々は歴戦の勇者です。そのお歴々が主を支えていけば良いのです。主というものは、最前線に出て戦うものではない、と私は常々思っておりました」
張昭と周瑜は目を合わせた。
そして周瑜は続けた。
「討逆様は人の心を掴む魅力に溢れたお方でした。大弟君はまだ、お若いということもあり、人にお護りして差し上げたい、と思わせるお方です。それは主として大切な資質であると思います。臣下を育てるのも腐らせるのも主次第。まだお若い大弟君には、亡き討逆様の御遺志を貫けるような主になるべく、張子布殿に是非とも後見人をお任せ致したいと、呉国太様のご希望でもございます」
一同は頷いた。
最後は張昭が締めた。
「ではお歴々、こののちは、我ら一同孫仲謀様を主とし、亡き先代のご遺志を継ぐべくこの地を守ることに全力を尽くしましょう」
孫静が言った。
「では張子布殿、まずはその我らが新しい殿の喪服を脱がせることですな」
張昭は頷いた。
その場を解散してからも、「心許ない」「大丈夫なのか」等の声が漏れてくる。
孫静、張昭、周瑜の3名が残った。
3名ともしばらく口をきかなかった。
しばらくして、張昭が口を開いた。
「各々、言いたいこともあるでしょうがこれもすべて孫伯符殿の遺言によるもの。倒れたことを悔やむ時間よりもこれからのことを考える時間に充てたいと思います」
孫静はその言葉に頷いた。
「伯符殿の、志半ばで倒れられた無念を我らが果たさねばならんが・・・まったく、この儂をさしおいて、兄の跡を追うのが早すぎだ」毒づくように孫静は言う。
「幼台叔父上・・・」
周瑜は複雑な気持ちで孫静を見た。
「先代お二方とも武勇に秀でておられたから、とも言えますな」
張昭は核心をついたともいえる。
「・・・おなじ轍は踏まぬよう今度こそは・・・もう二度と、このような思いはしたくはありません」
3名は、顔を見合わせ、頷く。
「子布殿、大弟殿・・いえ、殿のこと、お任せいたします。私は軍の陣営をまとめねばなりません」
「ええ。公瑾殿、頼みます」
「叛乱を企てていそうな者を数名、確認しております。叔父上、ご協力をお願いしてもよろしいでしょうか」
「公瑾。それは儂の息子共に手伝わせてやってほしい」
「はい、それは良いですが・・・」
「儂のことはいい。兄についてここまでこれただけにすぎん。これからはおぬしら若い者たちが仲謀殿を支えていくがいい」
「叔父上・・・ご勇退にはまだ早すぎます」
張昭は何も言わず、咳払いをひとつして、殿の元へ参ります、といって席を外した。
それを見送って、孫静は口を開いた。
「もちろん、仲謀殿のことは見守っていくつもりだ。だが、儂に気を遣わせてはいかん」
「・・・・・」
「陣内には儂を討逆殿の跡目に、という声も確かにあった。だが今はもっと若い世代がこの後を担って行くべきだ」
「叔父上は・・・争いの種になりたくないと、そうお考えなのですね」
「おぬしもわかっているだろう。あの伯符殿ですら身内に気を遣い、心を砕いてきたことを」
孫策の年上の従兄弟達、孫墳、孫輔、孫香たちのことである。
「身内とはいえ、一枚岩ではない。功績をあげねば身内とて官位が与えられぬことを、報せるべきだ」
「何を・・・。叔父上はこれまでも立派な功績がおありではありませんか」
「それは誰と比べてのことか。正直、儂などよりよほどおぬしの方が活躍しておる」
「そのような・・・」
「おぬしは伯符殿のよしみで孫軍に加わった者だけに、まわりの目も一層気になったのではないか?」
「・・・ええ」
「だからそういう者達の不平の種にならぬよう実力を見せつける必要があった。違うか?」
「・・・・」
「儂には兄のような器量はない。ならばせめて若い世代への橋渡しくらいしようと思うてな」
「・・・・そのような深いお考えがおありとは、感嘆いたしました」
「・・・フッ。そんな大したものではないよ」
「殿のご母堂の葬儀の時にはお話しする機会もございませんでしたね」
回想を打ち切り、周瑜の声に耳を貸す。
「ああ・・伯符殿に先立たれ2年もしないうちに、であったな」
「まこと、お気の毒でございました」
「義姉上は気がかりであった仲謀殿のことで、安心なさって逝かれたことであろう」
「・・・・ええ」
孫策と孫権の実母である呉夫人が、孫策の死後2年の後に病を得て亡くなったのだ。
その年は孫権も喪に服していた関係で、軍事行動も人事採用もすべて止まっていた。
「時に公瑾。なにか儂に話があるのであろう?」
孫静は座敷で周瑜と向かい合っていたのだが、話を本筋にもどそうと、姿勢を正した。
「私はご挨拶に寄っただけですよ」
周瑜は微かに口元に笑いを含んで言った。
「口実であろう?何も無しにおぬしがここを訪れるとは思えん」
「幼台叔父上、私はそんなに不義理者でしょうか」
「そうはいわん。おぬしほど何もかもに無駄がない者を儂は知らぬ」
「叔父上の家に挨拶にくることを無駄とは思いませんよ」
「まあ、そういうことにしておいてやろう。で、儂に何をして欲しい?」
周瑜はふっ、と溜息をつくと、孫静を正面から見て言った。
「・・・実は、お身内の方に、確認を取りたいことがございまして」
孫静は意外そうな顔をした。
「・・・ほう?どういう用件かな?」
「孫丹陽太守殿に、ある疑惑がございます」
「・・・国儀、か」
「はい」
「・・して、どのようなことか」
「謀反の動きがございます」
「・・・・!」
「先日、私とご子息の仲異殿で江夏の山越を討伐致しましたことはご存知でしょうか」
「ああ、きいておる」
「あの同時期に、周辺の山越の動きに同調が見られたので少し調べていたのです。そうしましたところ、網に間者がひっかかりました」
「・・・」
「その者が持っておりました司令書のようなものがあり、そこに孫の署名がございました」
「・・・それが国儀のものだと、なぜわかる」
「仲異殿が見覚えがあると申されました。ですから、疑惑、と申し上げました」
「ふむ」
「このことはまだ誰にも申し上げておりません。当のご本人がもし間者を送った犯人だとしても、間者が掴まったことはまだ知らないはずです」
「・・・それで、儂に何をしろというのだ。国儀を呼びつけて真偽を問いただせばよいのか?」
「いえ。問いただしたところで、うんとは言いますまい。私が伺いたいのは、国儀殿の真意です」
「真意とは・・・仲謀殿への忠誠心がまことかどうか、ということであろうか」
「殿、ひいてはこの孫呉への、です」
「ふむ。しかし、その司令書があれば、殿の御前に引き出して真偽を問うた方がよいのではないか?」
「万一、司令書がこちらに渡ったとしれば、国儀殿が打つ手は一つです。司令書を偽物といいはるでしょう。そうなれば、その罪は署名を国儀殿のものと名指しした仲異殿になすりつけられることになります。もちろん、私も同罪となるでしょう」
「ではどうするのだ」
「間者を泳がせております。おそらく山越蜂起は陽動にすぎません。殿や主要官吏のいない隙に必ずなにか行動を起こすでしょう」
「ではそれを待てばよいのではないか」
周瑜は首を振った。
「・・・叔父上。私はできれば、孫家のお方をこのような形でお一人でも失いたくはないのです。ですから、こうしてお願いに上がったのです」
孫静は顎に手をやり、頷いた。
「なるほど。おぬしは、国儀を止めようというのか」
「・・打てる手は打っておきたいというのが私の信条でございます」
「おぬしが予想している国儀の謀反とは、何だ?」
「・・・おそらくは」
周瑜は厳しい顔つきになった。
「曹操への密通」
「・・・・!まさか・・・」
「曹操は孫呉に対抗すべく水軍を作ろうとしていると聞いております。その船団でもって長江を南下し、攻めるつもりがあるというのは孫軍にいる将であれば想像に容易いことです」
「ふむ」
「国儀殿は、今の殿では曹操にうち勝つ見込みがないとお思いなのでしょう」
「・・・・はて。おぬしはどう思う?」
「勝つための準備は致しております」
孫静はニヤリ、とした。
「よし、わかった」
次の日、孫静は孫輔の元へ文を出した。
内容はこうだった。
丹陽へ出向こうとしたとき、山越に襲われて怪我を負ったため、やむなく戻ることにした。おぬしも気をつけよ、というものだ。
目上の者からこのような手紙を貰ったら、お見舞いにいくのが普通である。
ましてや自分が煽った山越が身内を襲ったとなればなおのことである。
周瑜は江夏へもどろうとしたが、孫輔がくるので同席せよ、との孫静からの依頼をうけ、会稽にしばらく留まることになった。
その間、あとから会稽へ戻った孫瑜が、約束していたとばかりに周瑜を家に迎え入れた。
といっても孫静の邸にいる周瑜のもとへ来ただけであったが。
孫静と同居している、孫瑜の、まだ年若い妹たちが頬を赤らめて周瑜を出迎えた。
孫瑜が周瑜と話をしていると、茶だの何だのとやたらと声を掛けてくるので、
「おまえたち、私たちは大事な話をしているのだよ」
と穏やかに叱った。
孫静の妻は既に他界しており、家のことは娘達や息子たちの嫁が訪れてはおこなっていた。
それ故にこの家は女所代であり、この時も周郎様、周郎様、とたいへんな騒ぎであった。
「兄上のおっしゃるとおり、素敵な方ですわね」
「本当に、兄上より年長ですの?もっとお若くみえますわ」
次々に彼女らは周瑜と話したがるので、孫瑜は下がりなさい、と一括した。
「まあ、良いではありませんか。私は一向に構いませんよ」
そうにこやかな笑顔を向けられると、彼女らはまたポーッとなってしまう。
「本当に、公瑾に嫁がいなければうちのだれかを嫁がせたかったものだよ」
ろれつのまわらない口で言う孫静は、少し酒が回ってきたようだった。
「まあ、お父様。そのようなことになれば、女同士の諍いが起こりますわ」
妹たちはそう言って笑う。
「父上、そろそろ休まれた方がよろしいのでは」
「うむ・・・そうだな。では儂は先に休ませてもらう。おぬしらもほどほどにな」
周瑜と孫瑜が孫静を見送る。
「良いお父上ですね、仲異殿」
「ええ・・・まだまだ、私などはたしなめられてばかりおりますよ」
孫瑜は笑う。
孫瑜の妹が、二人の前の空いた酒瓶を片づけていく。
「ああ、そうだ。公瑾殿。いつぞやの笛、また聴かせてはいただけませぬか」
「あのようなへたくそなものでよろしければ」
「とんでもありません」
笛を受取り、周瑜がそれを吹き鳴らす。
孫瑜は、もの悲しいその音色にすっかり心を奪われてしまう。
「なんと典雅な音色だろう・・・」
「ええ、まことに」
「公瑾殿の音色はまことご自身を模しているかのように美しい」
「まあ・・・さすがに兄上は詩人でもいらっしゃること。本当にそうですわ」
そうして孫瑜とその妹たちはその夜のひとときを幻のように思いながら過ごすのであった。
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