(5)


孫輔が孫静邸を訪れたのはそれから間もなくしてであった。

「叔父上、お怪我をされたとか」
「ああ、大事ない。もう治った。ちょうどこの周公瑾も会稽へきておって見舞いに訪れたところだ」
「ご無沙汰を致しております。国儀殿」
「おお、久方ぶりだな。叔母上の葬儀以来ではないか」
「はい。国儀殿もご壮健でなにより」
周瑜は頭を下げる。
孫静邸の客間に4人が相対する。
「時に公瑾殿、おぬしは江夏の黄祖征伐の指揮官ときいていたが、なぜこちらに?」
「先日、こちらの仲異殿と一緒に山越を討伐しました故そのご報告に都へ参ろうと思い、その途上で叔父上のお怪我の噂を聞き、いてもたってもいられずお見舞いに参りました」
孫輔はじろり、と孫瑜を見た。
「ほう・・?山越・・・、江夏の・・・」
「ええ。麻保屯というところです」
「・・・・・それを、落としたと・・・?」
「はい。1万人あまりを捕虜としました」
「頭領はどうした?」
周瑜は、孫輔をじっとみつめた。
あきらかに狼狽している。
「凌操の息子が討ち取りました」孫瑜が答えた。
「そ、そうか・・・」
なぜか、少しほっとしたように言った。
孫輔はそれから強引に話題を変えてしまった。
「公瑾殿、江夏の方はどうだ?」
「小競り合いが続いております」
「仲謀殿は伯符殿が父上の仇を取ろうとしてできなかったことをやろうとしているのだな」
「・・・荊州を睨んでのことです。敵討ちなどと、そのような小さな目的ではもはやないと思いますが」
「伯符殿ならそうかもしれぬが、あの弟君ではどうかな」
「国儀殿、そのようにいうものではありませんぞ」
孫静はたしなめるように言ったが、孫輔は聞く耳もたぬといった風で続けた。
「私だって、伯符殿が呉候であれば何も言わなかった」
「国儀殿・・・」
孫輔の口から、孫策の名が出て、周瑜の心はさざ波が立つようにざわめいた。

「伯符殿が悪いのだ。これからというときに、あのような死に方をして。彼が生きていたならば、このような混乱もおきずにすんだものを」
「・・・!」
「私だってこのように心を砕くこともなかった」

周瑜は膝においた手が白くなるほど強く握った。
(ご自分のなされたことを、伯符様のせいにするのか・・・!)

「おぬしもそうだろう?公瑾。周家の若様が伯符殿について江東を転戦し、平らげようとした矢先にあのようなくだらぬ死に方をして、おぬしとしても無念であったに違いなかろう?」
周瑜は心の内を面に出さぬよう抑えるだけで精一杯であった。

「国儀殿、それ以上言うても詮無きことであろう」
孫静が孫輔を諫めた。
「いっそ、叔父上が頭領となられた方が良かったのではありませんか」
「国儀殿」
「いくら伯符殿の遺言でも、ろくに功績もない弟君ではまわりがついてゆかない。公瑾殿、おぬしがどれだけ苦労しておるのかも、仲謀殿はご存知ないのではないか」

周瑜は沈黙を守った。

「なにもかも部下まかせでご自分はのほほんとなされる。それが孫呉の頭領とはおそれいる。公瑾殿、きみだって伯符殿の義兄弟なれば、心根ではそう思っておられるだろう?」
「口を慎まれよ、国儀殿」
孫静がピシャリ、と言った。
「国儀殿。いまのことはここにいる3名の胸の内にだけ留めておく。このようなことが知れればおぬし、どうなるかわかっておろうな?」
孫輔はフッ、と笑った。
「失礼、叔父上。いまのは失言でした。忘れてくださるとありがたい」
「国儀殿」
周瑜は姿勢を正してまっすぐに孫輔を見た。いや、睨んだ、といった方が正しかったか。
「私は今の殿を支えるために働いております。国儀殿のお気持ちも察することはできますが、どうか孫家の、孫呉のためにお心を一つにしていこうではありませんか」
「・・・・・」
孫輔は美しすぎる周瑜の眉目からさっと目を逸らせた。
「・・・・公瑾殿。きみならわかってくれると思っていたのだがな」

(何を、わかれというのだ)

「・・・まもなく殿も都へお戻りになられるそうです。機会がございましたらまたゆっくりと話をされるがよろしいでしょう」
「・・・・ああ。心に留めておく」

孫輔が出ていった後、孫静は溜息をついた。
「・・なかなか、意志の疎通は難しいようだな」
「はい」
「だが、あやつのいうこと、わからぬでもない」
「・・・叔父上が止めてくださらねば、私は抜刀していたやもしれません」
「公瑾・・・」
「すいません、少々頭に血が昇ってしまいました」
「伯符殿の名がでたからか」
「・・・はい」
「公瑾殿・・・」孫瑜が心配そうな目で見つめる。
「しかし、国儀殿の真意の程がよくわかりました」


「しかし、殿はいつ戻られるのだ?そのような報せ、いつ届いていたかな?」
「届いておりません」
「・・はて」
「罠をはるための方便でございます」
「なに」
「殿がもうじき戻られるとなれば、急ぎなにか行動するやもしれません。すでに網は張っております。あとは獲物を待つのみ」
「・・・・怖ろしい男だな、おぬしは」
「・・・国儀殿は・・・・伯符様と呉候である殿に対して含むところがおありのようですから」
孫権のために、孫輔をなんとか懐柔しようと思った周瑜であったが、孫策に対してのあの態度に正直、切れてしまったのである。
孫策のことを、あのように言う者に情けなど必要ない、とは周瑜の心の叫びであっただろうか。
「公瑾」
「え、はい」
思いに沈む周瑜を孫静の声が引き戻した。
「いろいろと大変だな、おぬしも」
「いえ・・・」
「権謀術数という蜘蛛の巣の上をおぬしは渡り歩いておるのだな。くれぐれも足を絡め取られぬようにな」
「はい。ご助言しかと心に刻み込みます」
ふと、我が身を振り返った。

(・・・私も公績となにほどの差があろうか)
そう思い、苦笑した。



それから数日後のことであった。

旅支度を行っていた周瑜の元へ、孫瑜が厳めしい顔をして飛び込んできた。

「公瑾殿、大変なことになりました」
孫瑜は声をひそめてそう言った。

「これを」
孫瑜は竹筒に入った書簡を差し出した。

それは、孫輔から曹操にあてた密書であった。
「これは・・・・」
わかっていたこととはいえ、やはり現実を目の辺りにすると、動揺してしまう。

「例の密偵が河北へ向かうと見せかけ、この密書を携えてやってきました」
「・・・・どうやら私が叔父上のところへお邪魔したことも無駄になってしまったようですね」

孫輔は孫策の代に、一緒に戦場を駆け回った勇将であった。
豫章を分割して統治することになったときに、慮陵郡の太守として最初に赴任したのは彼であった。
孫策の死後は、周瑜も忙しく孫輔と会う機会すらもなかったが。

周瑜は思い起こしていた。
孫策が起った時、彼の従兄弟にあたり、しかも年長である孫墳や孫輔たちが孫策のことをよく思っていなかったことを。
しかし孫策の活躍があって彼らもおとなしく帰順したのであった。
彼らに豫章を与えたのも、その懐柔策のひとつであったのだが。

それにしても。
この密書は、曹操と内通するものである。
孫輔は曹操に通じてこの孫呉を売り渡そうとでもいうのであろうか?
あの孫策と共に戦ったはずの戦友は。
(しかし、これは殿ならず、亡き伯符様への裏切りでもある・・・)
孫の血を持ちながら、一族を裏切る。
(あの方が生きておいでなら迷うことなく処断するであろう)

「公瑾殿、これをどういたしましょうか」
「・・・・」
周瑜は眉をひそめた。
「・・・これは、仲異殿から殿に事情を説明し、お渡しください。それと密書を持ってきた間者も同行させると良いでしょう」
「公瑾殿・・・それでは」
「この件は殿の裁量にお任せしましょう」
「そうですね・・・」
「仮にも孫家のお方のこと、殿と張子布殿にこれをどのように致すのか、ゆだねましょう」
「・・・・ええ」
孫瑜は目を伏せた。
「まったく、お恥ずかしい話です。国儀殿は決して暗愚な方ではなかったはずですが・・。同じ一族として、殿を盛り立てていかねばならぬというのに・・・なぜこのような愚挙に及んだのか、わかりません」
周瑜は首を左右に振り、嘆息をついた。
「なまじ智謀がある故ともいえますね。智謀というものは、禍を免れるために使うもの、と昔から言いますが、間違った使い方をされたようです」
「智免責禍・・・国儀殿にとっての禍とは孫呉そのものだったとでもいうのでしょうか」
「仲異殿・・・」
「・・少々腹も立ちます」
悔しげに口の端を噛む孫瑜を見て、まっすぐな方だ、と周瑜は快く思う。

「国儀殿のような方もいれば、あなたのような方もいらっしゃる。それでこの世は釣り合いがとれているのかもしれませんね」
周瑜がそう言うと、孫瑜は書状から顔をあげた。
「その均衡が崩れた時、戦が起こるのやもしれません」
「そうですね」
周瑜は孫瑜をじっと見つめた。
「な、なにか・・・?」
あまりに見つめられて、孫瑜は思わず赤くなる。
「いえ。仲異殿はお父上に似ているところがおありだと思っておりました」
「そ、そうでしょうか・・・?」
「ええ。私は好きですよ」
「えっ」
好き、と言われて孫瑜はなぜか動揺してしまう。
途端にしどろもどろになって言動が怪しくなる。
「・・仲異殿?」
「えっ?あっ!いや、なんでもありません!」
(お、落ち着かねば。公瑾殿が変に思われるではないか・・・!)
「いつか、もっと時間の許す時にゆっくりこの国のことを語り合いたいものです」
「は、はい、それはもう、願ってもないことです」
周瑜の微笑が自分に向けられている、そう思うだけで思わず頬が熱くなる。
孫瑜が自分の胸の内でパニックになっている最中、周瑜はふと思いついて尋ねた。

「そういえば凌公績のお沙汰ですが、殿が呉都へお戻りになられてから、どうなったでしょうか?」
「え?あ、ああ、凌司馬の処分ですか。いや、いろいろ説教はあったようですが、罪には問われなかったようです」
「そうですか」
「麻保屯を落としたのは彼の功績には間違いないですしね」
「ええ。しかし、軍律を乱したことは重要視しなければなりません。気に入らない味方を斬っても戦功あれば許される、というのでは人格に問題のある将ばかりになってしまいます」
「そうですね・・・」
「さて、私は江夏へ戻ります。いろいろとお世話になりました」
「えっ?あ・・・・そ、そうですか、戻られるんですね」
「・・・・なにかありますでしょうか?」
「い、いいえ。ただ・・・お名残惜しいと思っただけです」
周瑜はクス、と笑った。
「そういってくださるのは嬉しいですよ。またお会いしましょう、仲異殿」
一礼をして去っていくその人の残り香が、孫瑜の鼻腔をくすぐる。

「まだまだ、私はあの方に及ばないな。なぜこう、あの方の前だと落ち着かなくなるのだろう」
孫瑜は自分の中の不可思議な気持ちに理由を見つけられないでいた。



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