微香外伝〜呂蒙〜

呂蒙が孫軍に従軍したのは、彼が１５才の時、義兄・�ｹ当の軍に潜り込んだことがきっかけだった。
�ｹ当は当時、父の遺志を継いで軍をあげた孫策の武将として戦っていた。
呂蒙は最初子供だから、という理由で�ｹ当に従軍することを反対された。
「この戦乱の世の中で、男子たるもの、己の力のみで生きていくより他はない」
それが彼の持論だった。
彼は寒門の出であり、孫策軍に入ったときにはまだ身につけている鎧ですら浮いてしまうほど痩せて、血色も悪かった。
裕福な名門の出に生まれた者と違い、学問を学ぶ余裕すらなくただひたすら自らの武力のみを鍛える毎日であった。
それをうとましく思ったこともあるが、後悔はない。
 

孫策に仕えるようになってからは、そういった思いに苛まれることも少なくなった。
まだ２０才になるかならずの孫策はあの孫子の末裔だという。
学のない呂蒙ですら、孫子の名くらいは知っている。
そんな有名人の子孫である若君は家柄に関係なく人材を登用していった。
特に、若いながらその武勇は見るところがあり、勇猛さを好む孫策は年も近いこともあって何かと呂蒙に目をかけ、傍に置くようになった。
呂蒙の幼いころからの経験によると、いわゆる名門の出の若君というものは嫌なやつが多い、ということであった。
とにかく人を見下すことが多い。
思ったことを口に出してしまうことも多く、それが元で争い事もたえなかった。
ある時、彼は自分をバカにした役人を殺してしまった。
呂蒙は一旦は逃げたが思い直し、自首して、投獄された。
呂蒙には役人に袖の下を渡して釈放してもらえるような蓄えも身内もなかったから、半月後に急に釈放されたときは驚いた。
殺された役人を日頃からよく思わない者がこの町には多かった。
そういう者が彼を弁護したのである。
その話を孫策が聞きつけ、呂蒙に会ってみたいと言い出した。

呂蒙は、孫策に会って、自分の物の見方を変えざるを得なかった。
彼にとって、孫策は崇拝するに値する主君であったのだ。
 

そんな時だった。
周瑜と遭ったのは。
 

孫策が部曲を袁術から取り返せたのは、周瑜の立てた策のとおりにしたからだ、と言った。
そういう人物なのだと、話には聞いていた。
孫策はいつも周瑜のことを話すときには嬉しそうにしていたのだ。
周瑜は孫策の軍に兵糧と武器を提供してくれた。この江東でも屈指の名門・周家の若君だという。
孫策の親友、というくらいなのだから出来た人物には違いないが、どうだろう？
そんな疑問を抱えつつ、その人に会った。
 

なんという綺麗な人なのだろう。
第一にそう思った。
 

「周公瑾と言います。よろしく」

鈴のような声だ、と思った。
呂蒙はしばらく目が離せなかった。

「おい、子明。いくら公謹が綺麗だからってそんなに見とれるなよ」
孫策がからかうように言うと、呂蒙は我に返り、すみません、と謝った。
「はっはっは！正直な奴だな」
孫策が笑うのと一緒に周瑜も微笑した。
その笑みに呂蒙はまた見とれた。
 

江夏の沙羨城に攻め込んだ時。
あのときの衝撃はどう表現したらいいのかわからない。
あの白い肌を見てしまった時から何かが弾け飛んでいった。
呂範が一緒で良かった、と思う。
彼は大人だから、あの場をなんとかうまく収めてくれた。
そうでなければ動揺してしまってあの場を切り抜けられたかどうかもあやしいものだ。
 

そのあと間もなく、孫策が亡くなって弟の孫権が後を継いだ時、多くの離反者が出るかと思われた。
呂蒙に限った事ではなかったが、涙も枯れ果ててもう１滴もでない、というほど泣いた。
しかし後継の孫権に対し不安をみな持っていたようで、周りの主将達ですら身の振り方を相談しあっていたくらいである。
そんなときに周瑜が一軍を率いて戻ってきたという知らせを受けた。
呂蒙は、この身はもう孫家に忠誠を尽くすためのものと決めていたので動揺はしなかったが周瑜のことは気がかりではあった。
周瑜は大丈夫だろうか。

「公瑾どのが亡き殿の棺の前で倒れられたそうだ」
呂範からその話を聞いたとき、呂蒙はいてもたってもいられなくなった。
「子衡どの。これから公謹どのの館へ参りませんか？」
「うむ、確かめたいこともあるしな。よし行こう」

孫策の死に直面して、周瑜が半身を失うような悲しみに耐えうるだろうか。
普通の女なら死んでしまうに違いない。
死ぬ・・・・
そんな妄想が頭の中を巡って、雨が激しくなるにつれて呂蒙の胸の内も濡れていった。
 

周瑜は目を真っ赤に腫らしていた。
「やはり・・・・泣いておられたのですか」
呂蒙はそう言って周瑜の蒼い顔を覗き込むように見た。
ぐっ、と喉の奥が詰まった。
「・・・その、俺すごく心配してたんです・・・。公瑾どのは・・その・・殿の大切な方であられたから・・・」

「私が伯符さまの後を追って自害するとでも思いましたか？」

呂蒙はどきん、とした。
泣きはらした周瑜の目が呂蒙を串刺しにした。

「大丈夫です。そんな愚かなことはしませんよ、子明。私はそういう死に方が一番キライなんです」

この人は強い。
・・・この強さはどこから来るのだろう。
だが、同時にあやうい感じもする。
それは呂蒙の直感だった。
 
 

孫策の葬儀が終わり、孫権の継承の儀を行ったあとの数日後、呂蒙は忙しい周瑜が一人になるのを見計らって話しかけた。
「公瑾どの・・・・俺、聞きたい事があるんです」

呂蒙は城の、周瑜にあてがわれた一室に通された。
呂蒙がかしこまって、周瑜に向かって口を開いた。
「殿が亡くなって、これからどうされるおつもりなのかと、少々心配してました。公瑾どのが軍を率いて戻ってきてくれたおかげで皆安心したようなんです。でも本当のところはどうなんですか？」
「どう、とは？」
周瑜はほとんど口を開かずに聞いた。
「仲謀さまに忠誠を尽くせるのか、ということです」
「そういう子明はどうなのだ？」
急に切り替えされて、呂蒙はいささか慌てた。
「お、俺は・・・・この身は孫家に捧げておりますから・・・」
 

呂蒙はじつは先日、義兄を病で失っていた。
悲しみにくれる姉を慰め、葬儀をすませてから直ぐに大事の折り、
その部曲を引き継ぎ、孫権のもとへとはせ参じたばかりであった。
そのときの孫権の喜びようは大した物であった。
孫権は席を立って、膝を折って礼を取る呂蒙の手を両手で掴み、言った。
「・・・よろしく頼む」
後ろ盾もなく、あの強烈な個性の兄を失っての心細さは計り知れなかったのだろう。
自分の両手を握る孫権の手が震えていた。
「ご安心ください、この呂蒙、殿の御為、一命を投げ出してお仕えいたす所存です」
呂蒙は改めてこの少年のために尽力しよう、と心に誓ったのだった。
 
 

「おまえの言いたいことはわかるよ。私が伯符さまを忘れられないのではないかということを心配しているのだろう？」
「・・・・・はい」

周瑜は懐から書簡を取り出して呂蒙に渡した。
「これは・・・・？」
受け取り、中を見てみる。
「今日、私宛に届いた」

あっ、と声をあげた。
「こ、公瑾どの！これは・・！」
それは朝廷からの出仕依頼であった。
 

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