孫堅軍は洛陽まであと数里、というところで野営の陣を張った。
あれ以来なんとなく、周瑜は孫策と気まずい雰囲気になって、あまり話もしていなかった。
孫策の気性は良く知っている。
武勇も文句のつけようがない。
しかし、己の力を過信することは禁物だ。
「あれほど、やめてくださいと言ったのに・・・」
周瑜は天幕から出て、大勢の兵が歩き回っている陣中を歩いていた。
沈んだ面もちで少し伏し目がちで歩く周瑜を、通り過ぎる者たちはその都度振り返る。
しかし当の周瑜は少しも気がついていない様子だった。
軍議を終えて孫堅の天幕から出てきた祖茂と呉景は通りがかった周瑜と鉢合わせした。
沈んだような周瑜の様子に、
「どうした?」
と祖茂が声をかけると、周瑜は祖茂の顔を見つめたが、「いえ、何も」と言って通り過ぎた。
「どうかしたのか?」呉景は祖茂に問いかけた。
「・・・・すまん、あとでそっちの幕に行くから」
といって祖茂は呉景と別れ、周瑜の後を追った。
「公瑾」
追ってきた祖茂が声を掛けると、周瑜は立ち止まって振り返った。
その表情を見てとった祖茂は
「どうしたんだ・・・ともかくこっちへ」
と、周瑜を自分の天幕へ連れて行った。
天幕の中に敷かれた筵の上に座り、祖茂は周瑜に再び話しかけた。
「この間の戦から元気がないな、喧嘩でもしたのかい?」
「・・・自信がないんです」
「何が?」
「伯符さまを止められる自信が・・・どんなに私が止めてもああして一人で突っ込んでいってしまう」
祖茂はそれを聞いてくすっ、と笑った。
「・・・・君は本当に若君のことを大切に思っているんだね」
「・・笑い事じゃありません」
周瑜は祖茂をたしなめるように言った。
「はは、悪い。しかし、君のいうとおり若君は少々無謀なところがあるね。この前も伯海殿に叱られていただろう?」
「・・・時々、付いていけなくなるときがあるのです。そんな時は無性に不安になってしまう」
「君は本当は戦なんかしたくないんだろう」
「・・・・それはそうです。戦は民を苦しめ国力を低下させるだけです」
「だが、若君はちがう。世の中を糾すのは力だという考えがある。でもそれは今の世では当然のことだ」
「・・・・・・わかっています。わかってはいるんです」
「・・・君はもともと孫家とは直接は関係がない。今からでも遅くはない。故郷に戻ってまっとうに生きたらどうだい?」
「大栄・・・」
祖茂はいつになく厳しい顔つきで周瑜に向かった。
「厳しいようだけど、君が若君を信じられなくなったのならそうするべきだ」
「そんなこと、できません」
周瑜はそう言って頭を横にふる。
「若君を信じてついてきたのなら、どこまでも信じるべきだと俺は思う」
祖茂は考えこむ周瑜をじっと見つめた。
「・・・・公瑾」
祖茂は周瑜の腕を掴んで引き寄せた。
「な、なんですか?」急な行動に周瑜は慌てた。
「・・・・・」
祖茂は周瑜の肩を抱くようにした。
「大栄・・・・?」
「・・・この前から、君のことばかりが気になって仕方がなかった。どうしてなのか、ずっと考えていたんだが・・・」
祖茂は周瑜の耳元で囁いた。
「君は本当は女の子なんじゃないのかい?」
途端に周瑜は祖茂の手を突き飛ばすように離れ、立ち上がった。
「・・・わ、私は・・・男、です!そのような侮辱はいくらあなたといえども許せません・・・!」
その狼狽えように、祖茂は少し笑った。
「ごめん、ごめん。・・冗談だよ。ただ、君が男にしておくのにはあまりにも勿体ないくらい綺麗だからさ。少しいじめたくなったんだ」
「・・・悪い冗談です」
周瑜は、どう反応していいのか躊躇していた。
「・・・・・・公瑾。若君を止められるのは君しかいないと、俺は思う。君が諦めたら、誰が若君を助けるんだい?」
「・・・・」
周瑜はついさっきまで自分を混乱させていた祖茂を見つめた。
「俺が見るに、若君があんなふうにすぐに自分の非を認めて頭を下げるのは、殿以外では君くらいなものだ」
祖茂はそういって立ち上がった。
周瑜は自分より遙かに高いところからの目線に、全身が熱くなる思いだった。
しかし周瑜はその思いの正体が何なのか突きとめられなかった。
その目線をかわすために、周瑜は目を閉じた。
「・・・そうですね。ありがとう、大栄。いつまでもこんなことではいけないのですね。これから伯符さまのところへ行ってきます」
「ああ、それがいいね」
周瑜はこくん、とうなづいた。
「じゃあ」
そう言って周瑜が天幕を出ていこうとした背中に、
「ごめんな、変なことを言って。君が女なわけはないのにな」
と祖茂が語りかけた。
周瑜はそれへ振り向いて無言でにっこり笑った。
「・・・で、あの調子なのか」
「うん。謝ったのに許してくれないんだ。ここんとこ、ろくに口もきいていないし」
愈河の天幕で孫策は愚痴をこぼしていた。
「ふうん。あの公瑾がねえ。結構頑固なとこがあるんだ」
「ああ、すげー頑固だぜ、あいつ」
「どうするんだ?おまえは」
「どうするったって・・・・あいつが許してくれないんじゃ仕方ねーもん」
孫策はふくれっつらになった。
「ガキだなぁ、おまえは」
「なんだよ!」
「外にいって、剣の稽古でもしてこいよ。くだらないことも忘れるぞ」
「・・・・くだらなくなんかないよ・・・なあ、なんであいつ、あんなに怒ってるんだと思う?」
「俺が知るか。そういうことは本人に訊け」
「くそ〜〜人ごとだと思って!」
「ああ、人ごとだね」
愈河がかかか、と笑ったところへ、外から声がした。
「周瑜です。伯符さまはこちらですか?」
孫策は驚いて、声のかかった方を見た。
「ほら、おいでなすったな」
愈河は立ち上がって
「俺は席をはずすから後はちゃんとやれ。仲良くしろよ」
といって、天幕を出ていった。
「お、公瑾。あいつならいるよ。ま、至らないヤツだが、許してやってくれ、な」
天幕の入り口ですれちがいざま周瑜にそう言った。
愈河を見送って周瑜が入れ替わりに天幕に入ってきた。
「伯符さま」
「・・おう」
なんだか言葉を交わすのが久しぶりな気がした。
「・・・座ってもよろしいですか?」
「ああ」
なんだか、ぎこちない、と感じつつも周瑜は孫策の座す前に座った。
「私がどうして怒っていたのか、訊かないんですか?」
「・・・・訊いたら教えてくれるのか?」
孫策は顔を背けながら応えた。
「これで、2度目です。憶えていらっしゃいますね?」
「・・・・淮水でのことか」
「わかっておられるのならいいんです」
「・・・・・何度言ってもダメだ、と思ってんだろ?」
孫策は顔を背けたままだった。
「伯符さま、私の身体があまり丈夫でないことはご存知ですよね?」
「・・・・ああ」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・・・」
「あーっ!もう!わかったよ!俺が悪かったって!おまえに心配かけんな、ってことだろう!?」
「よくわかってらっしゃるじゃありませんか」
「・・・・・すまなかったと思ってるよ・・・・。あのとき、おまえとはぐれて、本当は心配だったんだ。俺が先走ったばかりに、おまえに万一のことがあったらと思って・・」
周瑜はそれを聞いて少し驚いたようだった。
それではお互いに同じ心配をしていたということになる。
それがわかって、なんだか少し滑稽に思えてきた。
周瑜はくすり、と笑った。
周瑜を見ていた孫策も笑った。
「遅くなったな、すまん」
「おう、待っていたぞ」
祖茂を待っていた呉景は、さっそく酒壷を差し出した。
「器が見つからんのでな」
「ああ、すまん」
呉景から酒壷を受け取ってそのまま口をつける。
「公瑾のところへ行っていたのか?」
「ああ」
「・・・あれは大したヤツだな」
「俺もそう思うよ」
「うむ。ゆくゆくは殿の参軍として期待できる器量がある」
「殿の・・・・か。どうかな」
呉景の言葉に、祖茂は首をひねりながらそう言った。
「何?どういうことだ」
「公瑾は若君の親友だ。あいつの忠義は殿のではなく若君のものだろう」
「どっちにしろ、同じではないか」
「・・・まあ、な」
また、酒壷を呷る。
「おまえ、まだ暇をもらおうとか思っているのか」
「・・・・・ああ」
「よし、俺が宣言してやる。それは駄目だ!」
「勝手に宣言するな」
祖茂は呉景に酒壷を手渡した。
「・・・おまえには言うがな、伯昭」
「なんだ」壷を受け取りながら呉景は訊ねた。
「俺が怪我したのは、脚だけではない」
「・・・・・なんだと?」
「これを見ろ」
呉景の前に、祖茂は自分の片方の肩を脱いで見せた。
「・・・・・!」
首筋から肩口まで、ざっくりと斬られた傷跡が残っていた。
「華雄に・・・やられた傷か」
「ああ、この傷のせいで、左手が肩より上に上がらないんだ」
「・・・・だから・・・・・か。それでは弓が引けない・・・・から・・・」
「だから言っている。馬上ならまだ戦えるんだがな」
「・・・・・大栄・・」
「だからもう、俺を止めるな」
「・・・・くそっ」呉景は酒壷を呷った。「天は、時々血も涙もないことをする」
「俺のために怒ってくれている、おまえはいいヤツだ、伯昭」