呉曄伝(2) 〜呉夫人伝異聞〜


 「親父。あいつらはあそこで何をやってるんだと思う?」
船の舳先に立って前方の津を見ていた息子が大声で訊く。
「ああ?」
父親らしき男が目を細めて前方を見る。
「ああ・・ありゃ胡玉の船だな。またどっかの船でも襲って分け前を分配してるんだろう」
「胡玉・・・親父、そりゃ海賊じゃねえか」
「ああ・・・ひいふう・・・丘に上がってるのは一味の親玉クラス全員だな」
「ふうん・・・・」
息子は顎に手をあてて不敵に笑った。
「何を考えている?」
「なあ、親父、あれ、俺一人にやらせてくれないか」
「おいおい、堅。無茶を言うなって。やつらの船にはまだ手下がごまんといるに違いないんだぞ?」
「いや、あれを見てくれ」
息子が指さす方向に目をやると、賊の連中の前に、村人達が大勢押し掛けていた。
父は息子が何を言おうとしているのか察して言った。
「しかしなあ、堅よ。村人が何人かかっていこうが大した成果があるとは思えん。おまけにこちらの兵は少ない。次の機会を待ったらどうだ」
「烏合の衆でも使いようによってはちゃんと戦ができるってことを証明してやるさ。だてに孫子の末裔を名乗ってはいない」
そう言うと、船が浅瀬まできたと同時に息子は曲刀を持って船から飛び降り走り出した。
 
 
 
 

姉を追って駆け出そうとした呉景の肩を後ろから掴む者がいた。
呉景は驚いて振り返った。

「・・・・あんたたち・・!」

呉景の後ろには匏里の村の人々が集まっていた。
その手にはおのおの武器を持っている。
「あんたの姉さんの手伝いをさせてくれんか」
先ほどの店の主人であった。
「儂らも本当は取られたもんを取り返したい。だがあんたの姉さんみたいな勇気がなくてなあ」
老人の言った言葉にそこにいた全員は頷いた。

呉景は姉を振り返った。

「・・・よし、じゃあ合図をしたらここから一斉に出てきてください。いいですね?」
 
 
 
 
 

曄は海賊たちの前にゆっくりと歩み寄った。

「ねえ、あなたたち、ここで何をしているの?」

「なんだ、別嬪さん。俺達に可愛がって貰いにきたのかい?」
曄の姿を見て、賊たちはニヤニヤと笑った。
曄はニッコリ笑って言った。

「海賊とやらのまぬけ面をもっと近くでみてみようと思って」

「なんだと!」
「この女!」

曄の言葉に激昂した男達は、手に持っていた宝を置いて、腰の刀に手をやり、曄の方を向いた。
曄の着物は箱の上に投げられた。

曄はできるだけ着物の方から遠ざかるように逃げた。

「姉上!」
呉景は剣を抜いて飛び出した。

「なんだ、小僧!」
海賊達のまだ半数は宝の山の前に立っていた。
曄を追い掛けていったのは半数。
これでは囮にもならない。
呉景は舌打ちした。
剣を構えると、海賊たちはニヤニヤ笑った。
「俺達とやるってのか?いい度胸だ」
海賊の頭目らしき男が合図すると係留してあった船から手下が大勢出てきた。
「暇つぶしに可愛がってやれ」

呉景は合図した。

すると背後から村人たちが大勢押し掛けた。
一瞬海賊達は怯んだ。
しかしその手に持っているのが農具であるとみるや、彼らは身構えた。
「たかが農民の衆だ。かまわねえ、みんなやっちまえ!」
「おう!」
その場に百人以上はいただろうか。
村人はその倍の数はいた。
だが、村人たちはどんどん斬り殺されていった。

呉景は迷った。

このままでは、村人全員殺される。
だが、彼は姉をも助けにいかなければならない。

それでも呉景は剣を振るって海賊を数人斬った。
どうする?
姉を助けて村人を見殺しにするのか。

そのときだった。

「おまえたち、こっちを見ろ!」
威勢のいい声だった。
それとともに絶叫が聞こえた。

「・・・えっ?」

そこだけ血しぶきがあがり、人がどんどん倒れていく。

何が起こっているのだろう?
呉景はその方向を見た。

「おい!あんたたちバラバラに攻撃しないで、一人に対してみんなでかかれ!」

誰かがそう叫んでいた。
呉景の知らない男だった。まだ若い。

「一人で戦おうとするな。皆で戦え!」

村人たちは顔を見合わせ、男の言うとおりにした。
海賊一人に五人で挑む。
海賊たちは確実にその数を減らしていった。

それにも増して、呉景がみた光景は凄まじかった。
その男の戦いぶりである。
なめらかに動く体は器用に曲刀を操り、まるで剣舞を見ているかのような動きで海賊たちを倒していく。
一人で何十人と、次々と倒している。
海賊達はそれを見て尻込みしはじめた。
ぼうっとなって見とれていると、その見知らぬ男は呉景に向かって叱咤した。

「そこのガキ!ぼーっとしてんじゃねえ!親玉はどこだ!?」
怒鳴られてはっ、と我に返る。
「えっ?あ・・!」
見渡す限りここにはいない。
「・・・そうだ、姉上!」
呉景は踵を返して姉の逃げた方向へ駆け出そうとした。
見知らぬ若い男は、その彼の腕を掴んで引き留めた。
「親玉はおまえの姉を追っていったのか?どっちだ!?」
呉景はその迫力に負け、たじたじとなって前の竹林を指さした。
「良し!俺が追う。おまえはここで村人たちを指揮しろ。もう残党はそう多くはない」
「あ・・・!」
男はそれだけ言うと走っていってしまった。
足も速い。
あまりのすばやさと手際のよさに、呉景はあっけにとられてそれを見送った。
 
 
   
 
 

竹林の中は走りにくかったが、曄にとっては都合が良かった。
竹が密生しているため身体の大きな男にとっては走りづらいところだったからだ。
できるだけジグザグに走り、追っ手を翻弄する。
そうでなければすぐに追いつかれてしまう。
「まて、女!」
曄は息の続く限り走り続けた。
竹林の中を走り続けると奥にそう大きくはない池があった。
そこだけちょっとした広場になっており、池のほとりには草が繁っていた。
曄はそこで力尽きて草の上に倒れ込んだ。
「もう・・・駄目・・・」
これ以上は走れない。

「チッ・・・ちょこまかと逃げやがって」

曄の背後から声がする。
男達がこちらを見つけ、ゆっくりと歩いてやってくるのが見えた。
曄は数えた。男は7人。
掴まれば逃げられないだろう。
呉景はうまくやっただろうか?
曄は息を整えながら男達が迫ってくるのを眺めていた。

「ふうん・・・いい女だ。こりゃ高く売れるぞ」
「追ってきた甲斐がありやしたね、頭目」
頭目、と呼ばれた男は曄の前にしゃがみ込んで、彼女の顎に手をやり、その顔を上向かせた。
「シケた村だったしな。これが一番のお宝だったな」
そう言って笑う。
曄は顔を背けた。
「誰があんたたちになんか!」

曄はまわりを7人にぐるりと囲まれた。

「・・・だが、せっかくだから味見をするってのも悪くねえな」
「ですが頭目。生娘でなければ価値は半分に下がっちまいますぜ」
「んなこたぁ黙ってりゃわからんだろ」
「・・確かに」
「心配するな。ちゃんとまわしてやる。俺が一番最初だ。おまえらは手足抑えろ」

男の一人が曄の両腕を押さえた。
「い、いやーーーっ!!」

草の上に仰向けにされた曄は抵抗している間に8人目の人影を竹林のなかに見た。

(もう・・・ダメ。こうなったらもう・・・)
自害するしか自分の身を護る方法はない。
こんな男たちに汚されるくらいならいっそ・・・!
曄はそう思った。
だが両手両脚を押さえられ、衣に手をかけられたまま曄はどうすることもできずにいた。
 

「あんたが胡玉?」

その声は、その場にいた男達全員の気を曄からそらせた。

曄に覆い被さろうとしていた男が身体を起こして振り向いた。
「ああん?なんだてめぇ」

「あんたが胡玉かって訊いてんだよ」

「俺が胡玉だ。それがどうした?」
胡玉は不機嫌そうに立ち上がりかけた。

「そうか。それじゃ、その首・・・・いただく!」

男の剣が弧を描いたかと思うと、血の筋が一閃し、次の瞬間、ごとん、と何かが落ちた。

曄はそれを首をもたげて見ていた。
曄の目の前にそれは落ちて転がってきた。

「ひっ・・・・・!!!」
反射的にぎゅっ、と目を瞑った。

何が起こっているのか、どうなっているのかわからない。
ただただ怖ろしかった。
目を開けていられなかった。
だが目を瞑っていても音は聞こえる。
悲鳴、なにかを斬ったり叩いたりする音、罵倒する声。
それで周りがどうなっているのかを知ることはできた。
いつのまにか自分の手足を押さえていたものもいなくなっている。
曄は自由になった両手で耳を塞いだ。

やがて静けさが訪れた。

「・・・・」
そっと目を開けてみた。
横たわっている曄が見上げたとき、自分の目の高さより高い位置に確認できた人影はたったのひとつだった。
その人影から目を離すことなく、ゆっくりと身体を起こす。
その人物が振り向いた。
目が合った。
まだ年若い男だった。
怖ろしい筈なのに、男から目を逸らすことができなかった。

「・・・・あ、あなたは・・」
「大丈夫か?」
ほぼ、同時に口を開いた。
それがなんとはなしに可笑しかったらしく男は口の端に微笑みを浮かべた。
男が歩み寄ってくる。
曄は緊張した。
この男が海賊でないという保証はないのだ。

男は笑った。
それもニヤニヤと。
その視線をたどっていくと、自分の露わになった素足の膝があった。
履き物が脱げて下衣の裾がめくれあがっている。
「きゃあっ」
慌てて足を隠し、脱げた履物を取って自分の足に履かせた。
真っ赤になって取り繕う曄を見て、彼は大声を張り上げて笑った。

「はっはっはっは」
「・・・な、なによ・・・っ!」
顔中おそらく真っ赤になっているだろう自分の頬の熱を感じながらも、曄は気を張った。
「笑っていないで、名乗りなさいよ!」
ひとしきり笑って、男は曄の顔を見た。
「へえ。俺の名を知りたいのか?」
「別に知りたくなんかないけど、そうしないとお礼が言えないじゃない」
「ふうん」
男は顎に手を当てて曄をまじまじと見た。
「・・・・美人だな。こんな美人は見たことがない」
曄は男を無言でじっと見つめた。
彼女は若い男と外でこのように会うのは実は初めてなのだ。
年長の者から綺麗だの美人だの言われるのには慣れっこになっていたが、この見知らぬ男の口から言われることはなかなかに刺激的であり新鮮だった。

「俺は富春の孫季暁が一子、孫文台」
「孫・・・」
「知っているか?かの呉王闔閭が招いた兵法の天才・孫武を」
「もちろん、知っているわ」
「それが俺の先祖だ」
「・・・・本当に?」
「嘘ではない」
曄は孫武の子孫と名乗る男を見つめた。

顔立ちは端正だがやや、悪戯者を思わせる薄笑いを浮かべている。

曄は半信半疑でいた。
孫、と名乗れば誰でも孫子の子孫になれるのである。

「ま、まあそういうことで納得してあげるわ。でもいったい、どうして私を助けてくれたの?」
「まあ、偶然・・・行きがかり上、だな」
孫文台と名乗った男はそう言ってから、曄を見下ろして言葉を継いだ。
「・・・いや、そうでもないかな。そうなるべくしてなったのかもしれん」
「え?」

「あんたの名は?」
「・・・銭塘の呉氏の娘よ」
「名は、と聞いている」
「・・・・曄」
「曄か」
彼は薄く笑うと、手を差しだした。
「何のつもり?」
「弟が心配じゃあないのか?」
「・・・・!」
「弟を知っているの?」
「勇敢に戦っていたぞ」
「戻らなくちゃ・・・・」
曄は差し出された手を無視して立ち上がろうとした。
「やれやれ。美人だが気が強いんだな」
男は呆れたふうで差し出した手をひっこめた。

「きゃあ!」

今度はなんだ?と言わんばかりに彼は曄を見つめた。
「そ、それ・・・」
彼女が震えて指さしているのは、男が左手にぶら下げている首である。
まだ血が滴っていた。
「これか?海賊の親玉の首だ。これを郡官吏に持っていかなきゃならん」
あっさりと言ってのけた。

この男は年齢の割りに随分修羅場をくぐってきているのだろう。
孫子の子孫というのも嘘ではないのかもしれない。

曄が言葉を失っていると、男は生首をぶら下げたまま背を向けて歩き出そうとしていた。

「ちょっと待って」

曄が呼び止める。
男が振り向く。

「まだ何かあるのか」

「・・・て、手を貸して」

曄は座ったまま、片手を差し出していた。
「くっ」
男は吹き出した。
「腰が抜けてるのか」
また、笑い出した。
曄は再び真っ赤になって怒った。
「笑ってないで、早く手を貸して!あ・・・歩けないんだから」
唇を尖らせて拗ねたように言う。
男はしゃがんで顔を近づけた。

「じゃじゃ馬」

息がかかるほど傍でそんな言葉を聞く。
「・・・な、何よ・・・」
曄は思わず赤くなった。
「はじめっから素直に俺の手を取れば良かったのに」
かっ、となって何か言おうとした曄だったが、あっというまに男の肩に担がれてしまった。
「きゃあっ」
驚いて足をばたばたさせる。
「おとなしくしろ。舌を噛むぞ」
「・・・!だって・・・こ、こんなの恥ずかしいじゃない・・・!」
「誰も見てやしないって。気にするな」
男は曄を片方の肩に担いで平然と歩き出した。
(気にするわよ!)
男の肩に担がれて身動きできないまま、逆さに映る地面を見ていた。
その地面の上には海賊達の死体が転がっており、辺り一面血の海だった。曄はおとなしくなった。
自分がどんなに危険なところにいたのかをようやく悟ったのだ。
しかし、助けられたは良かったが、とんだ恥をさらしてしまったことで、曄はずっと赤面したまま押し黙っていた。
 

「堅」
「親父!これ、土産だ」
男は片手にぶら下げていた首を付きだして彼の父親らしき人物に見せた。
「さすがだな」
「当たり前だ」
男はまたあの笑い方をした。
「ところで肩にあるそれは?」
「ああ・・・これは」
「姉上!」
なにかと、言おうとする前に、少年の声に遮られた。
呉景が駆け寄ると、男は肩から曄を浜辺に降ろした。
「大丈夫ですか?」
心配そうな弟に曄は微笑して応えた。
「ええ・・・この人が助けてくれたから・・・転んだときに少し擦りむいたくらい」
曄は生首を持ったままの男を見上げた。

浜辺では大勢の村人たちが死体を片づけていた。
「何人か、犠牲がでたのね」
「はい。しかし大方の海賊は斬って捕らえました。奪われた物も取り返せましたし」
「・・・そうだ!着物は!?」
曄は思い出したように言った。
「大丈夫です。取り返せました」
「・・・そう、良かった」
ほっと一息ついた曄は、さっきの男がこちらを見ているのに気付いた。
また、頬が熱くなるのを感じて咄嗟に目を逸らした。

「姉上、あの方々はお役人だそうですよ」
弟から意外な言葉を聞いた気がした。
「役人ですって?」
「姉上を助けた方はその息子さんだそうですが・・・あのあと村人たちを助けてくださって、海賊も殲滅できましたし」
「お父上はいいとして・・・」
曄は村人たちをねぎらっている中年の男を見、その脇に立つ息子に再び視線を送った。
「あの息子は役人って感じではないわね」
「でもあの人、鬼神のように強かったですよ。孫文台殿とおっしゃるんです」
呉景は笑顔で言った。
「ふうん・・・」
孫堅、字を文台という。それが男の名前だった。
 

「曄」

突然名前を呼ばれて驚いた。
呼んだのは孫堅であった。
彼は曄の近くに歩み寄った。
姉の名を勝手に呼ばれて、呉景は少しムッとしていた。

「曄、年はいくつだ」
「・・・・18よ」
「俺よりひとつ上なんだな。嫁にはまだ行っていないのか?」
痛いところをつかれた、と思った。
「・・・当分行く予定もないわ」
曄は不機嫌そうにそう言った。
「そうか」

姉には珍しい反応だな、と呉景は密かに思った。
呉景の知っている姉は見知らぬ男に名を呼び捨てられて黙っている女ではないからだ。

彼ら二人はお互いの視線だけを追っていた。
沈黙を破るように孫堅が口を開いた。
「銭塘の呉家だったな」
「・・・そうよ」
「わかった」
孫堅はなおもじっと曄を見つめた。
曄も見つめ返した。
その瞳の中に、ある決意を見た気がした。

やがて孫堅は目を逸らし、踵を返した。
父に呼ばれたのだ。

去っていく男の背中を曄はまだ見ていた。
「・・・無礼な男だけど」
そう呟いた口元がかすかに笑みをたたえていたのを呉景は見逃さなかった。
 
 
 
 

(続)