呉曄伝(3) 〜呉夫人伝異聞〜


あの事件以来、姉の様子が少しおかしい、と呉景は思った。

時々、何もない空間を見つめては深い溜息をついたり、以前のように自分に小言を言わなくなったような気がするのだ。

「姉上、一体どうしたというんです?どこか具合でも悪いのですか?」
思い切って訊いて見た。
「・・・別に何もないわ」
「このところ、変ですよ。何かあったんですか?」
「・・・・わからないの」
「わからないって何が?」
「わからないけど、何もする気が起きないの。身体もだるいような気がするし」
「それはいけない。少し横になっていてはどうですか?」
「・・・ううん。気分転換に庭でも散歩してくるわ」
二人が住まわせてもらっている呉家の離れから広がる庭はそれなりに広さがあった。

石の灯篭に囲まれた石畳を歩いていると、表門の方から声が聞こえた。
どうやら来客らしい。
邪魔をしてはいけないと、来た方向に戻ろうとした。

「よう」
曄の背中に声を掛ける者がいた。
彼女はゆっくりと振り向いた。
「・・・・・」
「どうした?俺を忘れたか?」

そこに立っていたのは、いつか自分を助けてくれた男-孫堅であった。
彼は涼しげに笑っていた。
曄はあまりの驚きにしばらく声を出せないでいた。
「・・わ、忘れるわけがないわ・・」
曄は頬が熱くなるのを感じた。
細められる目元が涼やかで男らしい。
見とれている自分に気がついて、曄は咄嗟に視線を逸らした。
思わず胸を押さえる。心臓が痛いくらいに脈打つ。
「・・・あ、あの時は・・・助けてくれてありがとう・・・」
「くっ」
孫堅は笑った。
「な、なによ?」
「あのときのあんたのじゃじゃ馬ぶりを思い出した」
曄は真っ赤になった。
「やだ、もう!思い出さないで」
両頬に手をあてて、首を左右に振る。
「わかったわかった」
そう言いながら笑う。
「・・・あのときは泥まみれだったが、今日は綺麗だな」
笑いを収めて、孫堅は曄を見つめた。
「今日も、よ」
「そうか、そうだな」
今度は微笑んだだけであの笑いはしなかった。
少しだけ不思議に思った曄は彼に尋ねた。
「・・・どうしてここに?」
「聞きたいか?」
「・・・聞きたいわ」
曄は真っ直ぐに自分より頭二つ分上にある双眸を見つめた。

「あんたを嫁に貰いに来た」

「・・・・・」
曄は一瞬驚いたがそのまま彼を見つめ続けた。
「俺の妻になってくれ」
「・・・・・」
「返事は?」
「・・・・・」
「おい」
「・・・・」
「口がきけないほど驚いたか?」
「・・・・あの・・・・」
「なんだ、あんたらしくないな」
「だ、だって・・・すごく、驚いたし・・・あなたのような殿方にこんな風に求婚されるなんて初めてで・・」
孫堅はフッ、と笑った。
「俺は運がいいんだな。誰よりも先にあんたに求婚できた」
曄の胸の高鳴りはもう抑えようがなかった。
そうだ、自分はこの男に惹かれている。それもどうしようもなく。
それでも残った理性で彼女は言った。
「・・・こ、こういうことは私の一存では決められないので・・・」
「ああ、わかってる。ちゃんとあんたの親戚には話を通すさ」
「でも、あの、ね」
曄は俯いて目を逸らせた。
「・・・私は・・・嫌じゃないから・・・」
「知ってる」
「・・・どうして・・・?」
「俺を見る目つきが色っぽいから」
孫堅は微笑した。
曄は戸惑った。どうしていいのか、わからなくてぎゅっ、と目を瞑った。
「こっちを向けよ」
ふいに、孫堅の腕が、曄の両肩を捉えた。
「な、なに・・・?」
彼女は驚いて目を開け、見上げた。
その顔をしばらくじっと眺めていた。
「江東随一の美しさだ」
「・・・あなたが言うと嘘っぽく聞こえるわ」
「嘘じゃない」
孫堅は笑っていなかった。

「この前の海賊討伐で、呉郡の尉になったんだ」
「・・・まあ、それは・・・おめでとうございます。その若さでお役人になれるなんて、大したものだわ」
「こんなのはきっかけにすぎない。俺はまだまだ手柄を立てて、中央に名を知らしめたい」
日に焼けた浅黒い顔から白い歯がこぼれる。
「そうね。あなたならきっと・・・でも」
曄はくす、と笑った。
「なんだ」
「うちの叔父さんは堅い人だから、あなたみたいな人はきっと気に入られるのは難しいわ」
「・・・さっき話してきた」
「どう?」
「追い返されそうになって、ちょっと喧嘩腰になっちまった」
バツの悪そうにする孫堅と目を合わせて、二人して吹き出した。
「きっと反対されるわね」
「反対したら襲撃されると言え」
「野盗じゃあるまいし」
「あんたの叔父さんは俺をそういう類の男だと思っている」
曄はまた笑った。
「では私を差し出せば助けてくれる、と言えばいいのね」
「・・・冗談だ」
「一番簡単な説得方法だと思うわ」
「あんたは俺を極悪人にするつもりか」
「あら、極悪人の嫁になるのは私よ?」
「・・・くっ」
孫堅は笑い出した。
「あんたには敵わないな。好きにしろ。それでも駄目な時は」
「・・・駄目な時は?・・・どうするの?」
「あんたをかっさらう」
迷いのない言葉が曄の心を捉えた。
孫堅が言った、色っぽい目で彼女は彼を見ていた。



「姉上!」
庭の向こう側から弟が走ってくる。
「伯昭」
呉景は姉の前に立っている男を見て驚いた。
「あなたは・・・」
「おまえは曄の弟だったな」
「そうですが、どうしてあなたがここにいるんですか?」
呉景は孫堅の隣に寄り添うように立つ姉の表情がいつになく朗らかなのに気がついた。

「おまえの姉を嫁に貰いに来た」
「・・・・ええっ?」
驚いて見せたが、内心どこかでこうなるだろうという予感が彼にはあったのかもしれない。

「だからおまえは遠からず俺の義弟ということになるな」
呉景は微笑む孫堅と、無言で目を合わせた。
「・・叔父上が客人が来ていると言っていたのはあなただったんですか・・」
「そういうことね」
「・・・叔父上がすごい剣幕で姉上を呼んでこいって言うから探しにきたんですよ」
弟の言葉に、曄は孫堅と顔を見合わせた。
曄は悪戯っぽく笑った。
「では先ほどのとおりにするわ」
「あまり俺を悪人にするなよ」

呉景には二人の会話の意味がよくわからなかったが、なにやら仲が良さそうに見えた。
「それでは俺は帰る。次に来るときにはいい返事を貰えるように期待している」
孫堅はそう言って踵を返した。
「ええ。さようなら」
「またな」
手を挙げて、孫堅は庭から生垣を乗り越えて出て行った。

呉景は彼を見送って姉に視線を戻した。
「・・・姉上はあの人に嫁ぐのですか」
「ええ」
「決めたんですか?」
「ええ」
彼女は孫堅が消えた方向と逆の方向に向かって歩き出した。
呉景も後を追う。
「この前の海賊討伐で、あの若さで呉郡の役人になったそうよ」
「はあ・・・あとで聞いた所によると、あのときの頭目っていうのはずいぶん名の知れた海賊だったそうですね」
「そう」
「・・・けど、あの人ちょっと乱暴そうな感じですよ。姉上にお似合いかどうかは」
曄は歩を止めて弟を振り返った。
「殿方というものは少々乱暴なくらいがちょうどいいのよ。大望を持っている事のほうが大事だわ」
いつもの姉とはちょっと様子が違うな、と思ったが口にはしなかった。
「姉上は、あの孫という方を気に入られたのですか?」
「・・・伯昭、私は運がいいと思うの。普通はお嫁入りの当日まで相手の顔や性格なんてわからないものよ」
姉は、あの男に惚れたのだ。
呉景は黙って姉の横顔を見ていた。
綺麗な笑顔だった。
姉はこんな表情も見せるのか。
少々寂しい、と思う。
嫁に行くのであれば姉とは別れなければならないのだ。



叔父や他の親戚たちが部屋に集まっていた。
「孫文台とかいう若造がおまえを嫁に欲しいと言ってきた」
曄は毅然と姿勢を正して彼らの前に座していた。
「父親は富春で役人をやっとるそうだが、孫家などゴロツキの成り上がりではないか」
「あの孫文台という者は礼儀知らずの軽薄な男だ。あんな男のもとへおまえを嫁にやるわけにはいかん」
「あんな男と一緒になってもおまえは幸せにはなれんぞ」
曄は目を閉じて孫堅の散々な批判をじっと聞いていた。
「それだけですか」
文句が出尽くしたと見て、曄は口を開いた。

「孫家は武門の家柄、この縁談を断られたとなれば家名に泥を塗られたと思い、只では済まないでしょう」
曄の言った言葉に、叔父たちはざわめいた。
「このまえ匏里へ行った時、孫家の大きな船を見ました。大勢の食客がいて、彼らは皆孫家のために働いていました。孫文台が命を下さなくても、彼らは孫家を侮辱した私達を許さないでしょう」
「よ、曄・・」
叔父は顔色を失っていた。
曄は心の中で、よし、と号令をかけた。
おもむろに立ち上がると、一族を見渡して声を張った。
「女一人を惜しんで一族に災いを招きいれようとなさるなど、愚かなことです」
「しかし、おまえの一生を左右することなのだよ、曄」
一番年長の叔父が言った。
曄はそちらを向いて微笑んだ。
「もし私が嫁入り先で不幸になったとしても、それは運命なのですわ」

曄のこの一言は親戚一同を感動させることになった。
なんとできた娘なのだろうと。
一族のために自らを犠牲にしようという美しい心根を褒め称えた。
だが呉景にはわかっていた。
不幸になるだなどと姉は少しも思っていないのだ。
それは彼女のこぼれ落ちる微笑が物語っていた。


そうして曄は孫堅に嫁入りすることが決まった。
このことを、早く孫堅に伝えたい、曄はそう思った。



だが、事件はその次の日に起こった。
曄の身に起こったそれは、後に孫堅はむろん、呉景をも巻き込む大事件になるのであった。




(続)