呉曄伝(4)〜呉夫人伝異聞〜

 

その日は朝からいい天気で、弟の呉景はまた長江へ出かけていた。
曄はしまってあった衣服を天日に干そうと、下女たちと一緒に庭にいた。

「曄さん」

声を掛けられて振り向くと、そこには見覚えのある女が立っていた。

「・・・あなたは」
「曄さん、迎えに来たのよ」
そこに立っていたのは、亡き父の愛人であった女であった。

曄はかっ、となったが、できるだけ、おちついた口調で言ってみた。
「何の御用でしょうか。私はあなたにお会いする理由はもうありません」
「まあ、曄さん。あなたは私の娘ではありませんか」
女の言葉に、曄はこらえきれなくなった。
「あなたが母であったことなど、一度もないわ!」
「曄・・・」
何か、変だ、と思った。
ほっそりとした青白い顔。
どこか夢見心地でもあるかのように、ふわふわと立っている。
なにか文字の書かれている布のようなものを首からかけている。
それに、自分の妹に当たる娘は、どうしたのだろう?
「・・・あの子は・・・その、妹は、どうしたのです?」
「ああ・・・栄のこと?あの子は大役をいただいて、山に登ったわ」
「・・・・?どういうこと?」
曄はいぶかしんだ。
「あの子はおそれ多くも陽明皇帝様の公子様の御子を産むのよ」
「・・・なん・・・」
「喜びなさい。公子様はあなたを所望していらっしゃるのよ。姉妹して公子様にお仕えできるなんて、幸せだわ」
曄は目の前の女が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
「陽明皇帝って誰なの?天子様はお一人のはずでしょう」
「越王様のご子息よ。それは素晴らしい方なの」
これは聞いてもムダだと思った。
「お帰りください。私はあなたとはもうお話しすることはありません」
「曄さん・・・そうはいかないのよ。陽明皇帝様に逆らうことなど、あってはならないの」
「なんですって」
「一緒に行きましょうね曄さん。準備があるでしょうから、後日またお迎えにあがりますわ」
「あなた、何を言っているの?」
「ほほほ、それではまた」
父の妾であった女はそう言って去った。
曄は首を傾げるばかりで、女の言うことがまったくわかっていなかった。
 
 
 
 

「郡の司馬になった」
別の日、孫堅はそう言いにやって来た。
「まあ、それは・・・おめでとうございます」
曄は殊勝に頭を下げる。
「はやく嫁に来い」
そう言って笑う。
やっと、曄の親戚一同を納得させたところであった。
「・・・・と言いたいところだが、近々戦があるんだ」
「戦?」
「いや、戦ってほどのものでもないな。反乱勢力の討伐だからな」
「まあ・・・お気をつけて」
曄は孫堅の日焼けした顔を見ながら、昨日のことを相談しようと思った。
「あの・・・」
「ん?」
「あ、いえ・・・なんでもないわ」
孫堅は戦を控えている身である。今余計なことを話して、煩わせるわけにはいかない。
そう思いなおして口をつぐんだ。

「気になるな。なんだ?言って見ろ」
孫堅が顔を寄せて訊いてきた。
「・・・・あ」
曄はまた頬を赤らめた。

「・・・陽明皇帝・・・ってきいたことある?」
曄がやっと言ったその言葉に、孫堅は意外なほど反応した。
「なんだと」
孫堅は曄の両肩を強く掴んだ。
「なぜその名を知っている」
「・・・痛いわ」
曄がうめくように訴えると、孫堅は「すまん」と言って手を緩めた。
「どういうことだ、曄」

曄は孫堅の雰囲気に少々圧倒されながらも昨日あったことを話した。
「その女、句章の妖賊教団の信者だな」
「妖賊教団?」
「ああ。陽明皇帝を僭称する許昌ってインチキ占い師が起こした新興宗教だ。公子というのはその息子の許韶のことだな」
「・・・・では、私の腹違いの妹はそこに・・・」
「子を産む、と言っていたのか」
「・・・ええ」
「・・・・攫われて犯されたんだな。可哀想に」
「・・・・!」
曄は俯いて目を閉じた。
あの妹と最後に別れてから3,4年だ。それでもまだ15,6才であろう。
なんとむごいことを。
そう考えに沈んでいると、急にその両肩を抱き寄せられた。
「あんたはしばらく身を隠せ。その女とはもう会うな。・・・いいか、俺がこんど討伐するのはその妖賊教団なんだ」
「・・・・!」
「できるなら、あんたの妹を助け出してやろう」
「・・・本当・・?!」
「だが保障はできん。なにせ数万という民がいるという話しだからな」
「・・・わかっているわ・・・でもできることは・・」
ほんの少しでも血のつながりのある妹。できれば助けてやりたい、と思う。
「俺にできることは全部やってやる」
「ええ・・・信じています、文台様」
曄は孫堅の胸に頬を寄せた。

 

「曄」
孫堅は曄を見つめた。
曄も見つめ返した。
「この討伐が終わったら、あんたを富春へ連れて行く」
「・・・・はい。どこへでも、あなたが来いというのなら」
「俺の弟分たちを紹介する。皆、あんたを見たら驚くだろうな」
孫堅はくく、と笑った。
「どうして驚くの?」
「俺の弟分に程徳謀ってのがいるんだが、コイツがなかなか口が悪くてな。俺みたいな風来坊には海賊みてえなものすごい醜女くらいしか寄ってこない、なんてぬかすんだ。てめえだって女っ気のケの字もないくせに、よ」
曄はくす、と笑った。
「でもその方にとって私は醜女に映るかもしれないわ」
「そんなことはない」
孫堅はいたって真面目に言った。
「俺の知る限り、あんたは江東随一、いやぜんぶひっくるめても一番美人だ」
曄の顔はみるみるうちに赤くなった。
「も、もう・・・お世辞はそれくらいにして」
孫堅はその曄の反応が楽しくて仕方がない、と言ったふうでさらに続けた。
「俺は世辞なぞ言わん。そう思ったからそう言っただけだ」
「文台様は存外、舌が回りますのね」
曄は少し意地悪そうに言った。
「なによりその気丈さが魅力だな。この俺と対等に話ができる女なぞ他にいない」
はは、と笑う。
「それは褒めていると思って良いのかしら?」
「これ以上ないくらいに褒めているつもりだが?」
あっけらかん、とした物言いに、曄は思わず吹き出した。
孫堅も笑った。
 
 

その夜。
「姉上?」
呉景が姉の部屋の中から大きな物音を聞きつけて駆けつけた。
「入りますよ、姉上」
扉を開いて呉景が中に入ると、数人の男達が格子窓を蹴破って外へ逃げ出していくところだった。
「なんだ!貴様たち!」
男の一人の肩の上に気を失わされた曄がみえた。
呉景が追いすがろうとすると、男の一人はなにやら玉のようなものを投げつけた。
「くっ・・!姉上を返せ!」
玉は呉景の防御した腕にあたってくだけ、その中から砂が舞った。
その砂煙で目をやられ、呉景は跡を追えなくなってしまった。

呉景の手には追いすがったときに奪い取った文字の描かれた細長い布が握られていた。

「姉上ーーーっ!!」
 

呉景はこのことを直ちに孫堅に早馬を飛ばして報せに向かった。

報せを受けた孫堅は呉景の持ってきた布を見るなり深い息をついた。
火のごとく怒るかと思いきや、案外冷静だった彼を見て、呉景は意外に思った。

「伯昭と言ったな。おまえはまた姉を助けられなかったのか」
するどい言葉が、呉景を打った。
「・・・は・・・・はい・・・」
うなだれながら、返事をする。
孫堅は腕組みしたまま、呉景の前に立って彼を見下ろしていた。
「明日、討伐軍を動かす。おまえも従軍しろ」
「はい」
「曄は無事だ。かならず助け出す」
「・・・どうしてそんなことがわかるんです?」
「曄は許韶に望まれた、と言っていた。だがヤツはいま本拠にはいない。別のところで暴れている。すくなくとも、ヤツが本拠に戻るまでは大事にされているはずだ」
「そんなこと・・!」
「ヤツらの言い分はこうだ。選ばれた者だけが選ばれた者と結ばれ、特別な子孫を残す、とな」
「・・・・姉上はその選ばれた者、だと?」
「そうだ。おまえの姉は美貌だ。あれだけの美女が江東にいるとなれば食指も動くであろう」
「・・・わかりました。私もあなたの軍に入れてください。必ず、姉上を助け出します」
「こちらの軍は数千。向こうは数万だがな」
「先日の匏里での手際を見ております。あなたの采配ならば間違いはないでしょう」
「ふ。ではもう今日はうちで寝ろ。明日発つ」
呉景は頷きながら上目遣いに孫堅を見た。
「あの、孫司馬殿」
「文台と呼んで構わんぞ。曄の弟ならば俺の弟でもあるからな」
「・・・ではお言葉に甘えさせていただきます。・・文台殿は、姉上が心配ではないのでしょうか?」
「なんだと?」
孫堅はじろり、と呉景を睨み付けた。
夜だというのに、その眼は鋭く光ったように思えた。
多少、たじろいだが、呉景は大事な姉が攫われて、その婚約者ともいえる男が案外のほほんとしているように見えたので、それが不満であったのだった。
「心配しているに決まっている」
「・・・本当にそうでしょうか」
「何が言いたいんだ、おまえは?」
「昔から、攫われた女は戻されたとしても、汚されまともに嫁になど行けるようなものではありません。生きながら死ぬようなものだと、姉はよく言っていました。姉はそうなったらきっと死を選ぶでしょう」

突然、呉景は胸ぐらを掴まれた。
「おまえ、俺が曄を見捨てるとでも思っているのか」
きつく掴まれて、息が苦しい。
言葉を継ごうにも、声も出せない。
孫堅は怒っていた。
「俺が、この女、と決めたおまえの姉を、この俺が諦めると思うのか」
怖ろしいほどの気迫だった。
「あれは俺の子を産むたった一人の女だぞ」
このまま締め続けられたら、気を失ってしまうかもしれない、と呉景は思った。
「だ・・・・って・・・あなた・・は・・姉上の・・ことを・・・少しも・・・しん・・・ぱ・・」
とぎれとぎれに言いかける呉景を遮って、孫堅が言った。
「では訊こう。おまえのいう心配というのは、一体何だ?」
荒っぽく手を離す。
呉景はよろけながら床に手をついて息を整えた。
「そ、それは・・」
「ああ、心配だ、今どうしているのか、と言いながらうろうろすることか?」
「そんな・・・」
呉景ははっとした。

「どんなに心の中でイライラしようと不安であろうと」
孫堅は息を荒げて言った。
「それを表さず行動するのが男というものだ」
そう言った孫堅がいつもよりも大きく見えた。

この男は、格が違う。

呉景はこのときから、密かな畏敬と憧憬の念を孫堅に抱くことになるのであった。
 
 
 
 

(続)