天井に灯り取りの窓があった。
そこから注ぎ込む陽の光があってさえ、なお曄のいる部屋は暗かった。
部屋にはたった一つの小さな行燈が灯っていた。
曄は牀台に寝かされていた。
起きあがって辺りを見回しても誰もいなかった。
「・・・ここはどこかしら・・・」
見たこともない調度品が部屋のあちこちにあった。。
辺境の民の手による工作品だろうか、と曄は思った。
部屋の中を歩いてみる。
扉に触れてみたが、びくともしない。
おそらく外から錠が下りているのだろう。
諦めて部屋の奥へと歩き出す。
そこにも扉があった。
扉に近づくと、なにか、すすり泣くような声が聞こえた。
「・・・・?」
少女のような声だった。
「・・・だれかいるの?」
曄は扉越しに話しかけた。
しばらく間をおいて、すすり泣きがやんだ。
声がした。
「・・・だあれ?」
曄は少し、ほっとした。
人の声を聞いたからかもしれない。
「私は曄と言うの。あなたは?」
「・・・栄」
扉越しにそう聞こえた。
「栄?」
曄はまさか、と考えた。
「あなたなの?・・・栄」
義妹だ。
そう直感した。
曄は自らを名乗って妹に言った。
「・・・お姉さま?・・・本当に?」
「ええ。本当よ。あなた、あの女に連れてこられたのね・・・可哀想に」
「お母様のことは・・・悪く言わないであげてください」
義妹は健気にそう言った。
曄は黙った。
義妹にとってはあれでも母親なのだ。
曄は義妹がいることで、自分がいったいどこに来てしまったのか悟った。
そしてこの本拠を孫堅がやがて攻撃しにくるだろうと言うことも。
(ここにいるということをせめてどうにか報せられれば・・・)
曄は天窓を見上げた。
(あの窓の外はどこに繋がっているのかしら・・・)
自分の背丈をあと三つほど載せれば届くかもしれない。
曄は部屋の中を見渡した。
食事をするための机と椅子があった。
曄はそれをなんとか自力で動かし、天窓のちょうど下まで持ってきた。
その上に椅子を乗せて、自分もそれによじ登った。
椅子の上に登った状態で手を伸ばしてみたが届かない。
曄は、結った髪に差していた簪を取り、自分の胸の前でそれを握りしめた。
「文台様・・・曄を守って・・・」
そう呟くとそれを窓に向かって投げ上げた。
簪は窓の外に吸い込まれていった。
そのとき、バランスを崩して曄は椅子から落ちてしまった。
「きゃあ!」
けたたましい音をたてて椅子と曄自身が床に転がる。
全身をしたたか打って、曄はうめいた。
「どうしたの?お姉さま?」
扉の向こうから心配そうな声がする。
「だ・・大丈夫よ・・・」
身体を動かそうとして、足に激痛が走った。
「・・・っ」
自分の足にそっと触れてみた。
少し動かすと痛むようだ。
どうやら捻挫したらしい。
「・・・ついてないわ・・・」
曄は溜息をついた。
急に、泣きたくなってきた。
「文台様・・・」
その名を呼んだだけで涙が出そうだった。
「兄貴、もうじきです」
「おお」
船の舳先に立って前を見つめるのは孫堅だった。
彼の傍に立つのは四人の男たち。
いづれもその顔は若く、活気にみちている。
「いいか徳謀、相手は殆どが普通の民だ。無用な殺生はするなよ」
孫堅が腕組みしながらそう言うと、徳謀と呼ばれた若者は笑い返した。
「兄ィこそ殺しすぎないように頼みますぜ」
「ふん」
「しかし、文台殿、大丈夫ですかね、こんな数で」
少々心細く言ったのは黄蓋、字を公覆という青年だった。
「なんだ、怖じ気づいたのか?公覆」
「そうではないですが・・・こちらはたった二千しか」
その中で一番童顔にみえる若者が、鼻で笑って言った。
「この二千は精鋭ぞろいだぞ。なにしろ孫家の兵だからな」
祖茂、字を大栄。彼を入れてこの四人が孫堅の兄弟分と言われていた。
「大栄の言うとおりだ。教団のやつらで戦える者は同数かそれ以下であろう。こちらはずっと準備をしてきたんだ。あのような輩に負けるはずがない」
四人は孫堅の言葉に同意した。
「時に兄ィ、許嫁が攫われたってのは本当ですかい?」
「・・・ああ」
「それは心配でしょう」
「・・・まあな」
四人はなんとなく、孫堅の沈んだ表情を見て、無口になった。
「そんじゃ、本当に文台様の言ってたことはアタリなんだなあ」
沈黙を破ったのは祖茂で、彼は笑って言った。
「どういう意味だ?」
「あの許劭ってのは美人しか攫わないって話らしいんです」
孫堅は苦笑した。
「だから、なんべんも言ってるだろう?おまえらがひっくりかえるような別嬪だってな」
「へえ〜」
「だからな、絶対に助け出す」
「しかし教団本拠には数万の民がいると聞きますが・・」
黄蓋が口を濁すとすかさず孫堅は言った。
「あそこにいる連中のなかで一番の別嬪を捜せばいいんだ。簡単だろ」
はっはっは、と笑う孫堅を四人は呆れた顔で見つめていたが、やがて一緒に笑い出した。
どこまでも明るい彼らであった。
山というにはなだらかな斜面の一角に、その山塞はあった。
広大な敷地には畑があり、教団に連れてこられた連中はそこで自給自足の生活をしているらしい。
その中心部に大きな屋敷があった。
「ん?」
農具を担いで歩いていた男は道に落ちているそれを見つけた。
「ありゃ、こりゃ簪でないか」
男がそれを手に持って、じっくりと眺めている。
「ほうほう、こりゃあ結構な細工だあ。めっけもんだなあ。これも皇帝様の思し召しかいな〜」
男はそのまま歩いて山を下りていった。
簪を村で売るつもりだったのだ。
「おや?なんだなんだ」
男は津に付けられた船から続々と人が降りてくるのを見て驚いた。
皆軽鎧に身をつつみ、武器を手にしている。
「おんや、まあ、こんな田舎に大勢さんで。なにやら戦でも始まるのかねえ」
男は一旦は帰ろうと思ったが、先ほど拾った細工ものの簪を思い出して、それをここで売りつけようと思い立って、そこにたむろする中でも一番身なりがよく、身体の大きい男の傍へと近づいた。
男が簪を見せると、彼は顔色を変えた。
そしておもむろに男の腕を掴んだ。
ぎろり、と睨むその瞳が狼を思わせた。
「ひぃっ!お、お助けを・・・」
「おまえ、これをどうした?」
「ひ、拾ったんです」
「どこでだ」
男は恐れの余り激しくどもりながら、拾った場所を白状した。
「きさま、教団の信者か」
「ひぃっ」
すごみをきかす、その男は言うまでもなく孫堅である。
孫堅の睨みは充分男を震え上がらせた。
「許劭は戻ってきたか」
「・・は、はあ?公子様ならばついさっきお戻りになられただが」
「そうか」
孫堅はニヤリと笑った。
そして向きを変え、大きな声で叫んだ。
「全員上陸したらすぐ山攻めにかかる。いいな!火矢の用意もしておけよ」
あたりから意気のあがる声がする。
「兄貴、どうしたんです」
黄蓋が孫堅の傍にやってきた。
「これを見ろ」
孫堅は手ににぎりしめた簪を見せた。
さっきの男から取り上げたのであった。
「これは俺が先日曄のために作らせてやったものだ」
「えっ?」
「曄のことだ、おそらく自分の居場所を報せるためにこれを落としたのだろう」
孫堅は微かに笑っていた。
さすが俺の惚れた女だ、とでも思っていたにちがいない。
「必ず、助けてやるからな」
「公子様、おかえりなさいませ」
侍女たちが傅く部屋へと足を踏み入れる。
まだ三十台半ばの、中肉中背の男である。頭に真鍮製の額飾りを付けていた。
傅く侍女の中に、曄の継母がいた。
「公子様、私の上の娘を連れて参りました」
「おお、そうか。美女と名高いあの呉家の娘であったな」
妖賊教団の実質的な指導者である許劭は、上機嫌で言った。
彼の後宮にはすでに100人を超える少女たちが囲われていた。
皆、攫われてきた少女たちばかりである。
「夕餉の後の楽しみにする故、身なりをあらためさせておけよ」
夕陽が沈む頃、曄のいる部屋はますます暗くなってきた。
先ほど痛めた足は歩けないほどに悪化していた。
彼女は妹のいる部屋の扉にもたれかけ、妹とずっと話をしていた。
もうじき、助けがくることを伝えて信じて待っていよう、と励ましていた。
そのときだった。
曄の部屋の扉の閂がはずされる音がした。
自分の心臓が脈打つ音がきこえる。
誰かが、入ってくる。
灯りを手にしながら、入ってくる人はどうやら女らしい。
「お嬢様。お嬢様、どちらですか?」
曄は動かなかった。
やがて、灯りが近づけられ、女が曄を見つけた。
「まあ、どうなさったんです?お怪我をなさったの?」
女は別の人間を呼びにやり、やってきた男に曄を抱きかかえさせた。
「公子様に拝顔するまえに手当いたしましょうね。それから綺麗にお化粧もしましょう」
曄は抵抗することもできず、別室へと連れて行かれていった。
抱き上げられたままの曄は密かに自分の胸に手をやり、服の上から胸元に忍ばせた懐剣の堅さを確かめていた。