呉曄伝(1) 〜呉夫人伝異聞〜


プロローグ
 

「ねえ、あなた見て」
妻に呼ばれた夫は、椅子に腰掛けている妻の傍に寄った。
「上手にできたでしょう?」
「ああ、本当だな」
妻の手元には刺繍された産着があった。

「・・・・夢をみたの」
妻は夫を仰ぎ見た。
男らしい、整った顔が、妻の視線を受けて優しくなる。
「どんな夢だ?」
夫は穏やかに訊いた。

「月が、私のお腹に入ったの」
「月って、あの空にある月か」
「そうよ。そしてすごく輝くの・・・とても暖かかったわ」
妻がうっとりと言うのを聞いて夫は精悍な顔に笑みをたたえた。
「それは吉兆だな。我が子は偉業を成すという予兆だろう」
「あなたの子ですもの、只者ではないに決まっているわ」
妻は自分の膨れたお腹をさすった。
もうあと数ヶ月で子供が産まれるようだ。
夫はそれが楽しみで仕方がないという感じで妻を労っていた。
「男子だな」
「男子よ。あなたに似た強くて賢い、綺麗な顔の」
夫は笑って妻の頬を撫でた。
「綺麗な顔ならばおまえにも似ているということか。それでは少々迫力が足りんな」
妻はくすくす、と笑った。

夫が戸を開けると中庭が見えた。
まだヨチヨチ歩きの幼児が母親らしき女と戯れていた。

女は室内の二人を見つけると、会釈をした。

妻も夫もそれを微笑んで見ていた。
「・・・あなた。私の無理をきいてくださってありがとう」
妻は眩しそうに目を細めて夫を見た。
「・・・妻の我が儘くらいきいてやれねば、男にあらず、だ」
夫は涼しげな目元をさらに細くして微笑んだ。
妻はそれを頼もしく思った。
「私にできることは、立派な男子を産むことね」
「ああ、頼む。それはおまえにしかできないことだからな」
妻は夫の手にそっと触れた。
「私、幸せよ・・・」
 
 
 
 

(1)

永寿元年。
曄は、呉郡の呉家に生まれた。その容貌麗しく、幼少の頃より美少女と近隣の評判となった。

延熹五年。
曄の母が川魚にあたって死去した。
少女だった曄は突然の母の死にショックを受けた。
その後、喪に三年間服すことになった。
この年、曄は七歳、弟の呉景はまだ四歳であった。
曄の父は呉郡で役人をしていた。
その父の影響でよく書を読み書きし、容貌だけでなく聡明さをも発揮しだしたのはこの頃からであった。

延熹九年。
曄、十一歳。弟呉景八歳。
この年、父が胸の病で亡くなった。母の喪があけた次の年であった。
父は病床で、曄には妾に産ませた腹違いの妹がいることを報せた。
母を愛していた父はその子を引き取らず、妾の家でそのまま育てさせていたという。
父はまだ幼い我が子二人を妾の実家に預けようと思っていたらしい。
だが曄はその話に無関心だった。
会ったこともない妹に、思慕の情を持てと言う方がどうかしている。
ましてや妾の家などに世話になることなど考えられない。

父の臨終の際、妾がその子供を連れてやってきた。
曄は二人に対して健気に接遇した。
妹とされる妾の娘は、曄に比べると見劣りする容貌であった。年は呉景と同じかそれより一つ二つ下だろう。
一緒に暮らそうという妾に対して、曄ははっきりと断った。
自分たちは銭唐の親戚のところへ行くのでその必要はない、と。
なにかあれば尋ねてきてくれて構わない、と言ってやった。
妹に恨みはないがそれが彼女なりのプライドだった。

そうして両親を失った曄は、銭唐の親戚を頼って弟を連れて移り住むことにした。

そして建寧五年。
曄はこの年、十八になった。
三つ下の弟・呉景は字を伯昭と言い、文武に励む少年に成長していた。

銭唐は東内海を臨む土地である。
曄は親戚の家の離れの家に住んでいた。弟と二人きりで暮らすことになったその家は東内海から浙江へと流れる上流ぞいにあった。
そのあたりは魚がよく取れ、近隣に住む男達は皆船に乗る。
呉景もその例外ではなかった。

「姉上」
いつものように、弟の声が聞こえる。
振り返ると、今年十五になった弟が籠を両手で重そうに持って小走りでこちらへ向かってくるところだった。
「見てください、今日は大漁でしたよ!」
呉景は少年らしく頬を紅潮させて籠の中身を姉に見せた。
「まあ、すごいわ!これ、おまえが獲ったの?」
「今日初めて親方の船に乗せてもらったんです。銛を使いました」
「そう、すごいわね。おまえももう立派な男ね」
曄は笑った。
呉景はこの美しい姉が好きだった。
早く一人前になって、姉を楽にしてやりたいと思っていた。
親もなく、親の残した財で食いつなぐにはあまりにも心細いこの家からでは、姉を嫁に出すことさえ難しい。
十八といえばもう嫁に行かねばならぬ妙齢である。
それが縁談の話ひとつこないのはなげかわしいことであったが呉景にとっては実はありがたいことでもあった。
姉は自分を育ててくれた母同然の存在である。
彼女の幸せが呉景の願いでもあった。

「漁に出るのも良いけれど、今日は剣の稽古はもう終わったの?」
「あ・・・・いえ」
「ダメじゃないの。いいこと、伯昭。世は乱れているのよ。男たるもの自分の力で生き延びていかねばなりません。あなたは田舎の一漁師として一生を送るつもり?そうでなければすぐに稽古を始めなさい」
厳しい言い方だったが、姉の叱咤はいつものことだった。
「はい、姉上」
呉景は素直にうなづいた。
「ところで、姉上。最近はこのあたりの海に賊が現れるようになったそうです。先日も商人の荷が襲われたとか」
「海賊?まあ・・・怖いわね」
「このあたりは漁が盛んで、商人も潤っていますからね、いつ狙われてもおかしくありませんよ」
「そうね・・・。私これから匏里までこの前注文した着物を取りに行かなくちゃならないんだけど・・・大丈夫かしら」
「でしたら私もご一緒します、姉上」
「そう。じゃあ車を用意しているから一緒に行きましょうか」

姉の乗る馬車を護衛して、呉景は町の一番端にある黄老商店に向かった。
しかしなにやら通りが騒がしい。
商店の前について、呉景は店から飛び出してきた初老の男と鉢合わせした。
「おっと、あなたが店の主人ですか?なにかあったんですか」
「おお、お若いの。あんたうちの店に用事かね」
「ええ、私は呉家の者です。姉が着物の仕立てを頼んでおいたと思うのですが」
「ああ・・・呉氏の。悪いがそれももうここにはないよ」
店の主人はそう言った。
「なんですって。それはどういうこと?」
呉景の背後から声がした。
姉が馬車から降りて来たのだ。
「注文した着物がないとは、いったいどういうことなのです?」
改めて曄が詰問した。
店の主人は曄を見て驚き、慌てて、彼女の腕を取って店の中に彼女を引っ張り込んだ。
呉景は驚いて一緒に店に入っていった。
「姉上に乱暴をするな!」
呉景は腰に下げていた剣に手をかけた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!まだ近くに賊がいるやもしれんのだ」
主人は店の中まで入って来てやっと、曄の手を離した。
「失礼した、お嬢さん。いや、実はな・・・ついさっきのことだ、このあたり一帯の商店に賊が入ったのだよ」
「賊ですって?」
曄は驚いて言った。
「このあたりは野盗が出るのですか」
「いや、あの身なりからすると江賊だろう。陸にあがったついでに襲いに来たという感じだった」
初老の男は頭を抱えながら溜息をついた。
「それで、その賊が私の着物も持っていったと、そういうのですね」
曄は肩を落として言った。
「・・・腕のいい職人だったのになあ・・・残念ながら変わりの物ももう作ってやるわけにはいかなくなったよ、お嬢さん」
「何・・・?」
「あの着物は、作った職人がちょうどここへ持ってきていたんだがその賊に着物を渡すまいとして抵抗したところ、斬られてしまったんだ」
「・・・・なんてこと・・」
「気の毒なことをした」
主人の言葉に、曄は面を引き締めた。
「その賊はどちらへ行きました?」
「長江の津の方へ・・・。あんたまさか追い掛けるつもりじゃないだろうね?」
「そのつもりよ」
「姉上!」
呉景も驚きの声をあげた。

「私の着物を取り返すわ。そして斬られた職人の家族にその代金を支払わなくてはならない」
「おやめなさい。あんたのような綺麗な娘が行ったらどんな目にあうか」
「そうですよ、姉上、無茶はやめてください!」
弟も姉を諫めようと必死だった。
だが、曄は考えを改めようとはしなかった。
曄は店を出て、徒歩で長江の方へと歩いていった。

「姉上!」
呉景は姉のあとを追うように付いていった。
「伯昭、あなた怖いの?」
「いえ、そういうことではなくて・・・」
「じゃあ何?」
姉の剣幕に呉景は何も言い返せなかった。
言い出したら聞かない性格の強さは呉景もよく知っている。

昔、こんなことがあった。

まだ父が病床にふせっていた頃の事である。
親戚の叔父達が見舞いにやってきて、病に効く滋養強壮の薬草の話をした。
曄はそれが具体的にどこの場所で取れるのかと叔父たちに尋ねた。
そしてその場所を聞くや、

「私、採りに行ってきます!」

そう言って立ち上がり、少女は自分の部屋に行って勝手に荷造りを始めた。
叔父達はその場は笑っていたが、曄が本気だとわかると彼女を止めた。
「おまえが行って採って帰って来れるわけがない。険しい山の岸壁に生えている貴重な薬草なのだぞ」
叔父はそう言って半分叱るように言った。
すると曄は少しも怯まずにこう言った。
「でも叔父様たちがそうして知っているということは誰かが採って、試したということでしょう?なぜ私に採れないと決めつけるのですか?」
「おまえはまだ小さい上に女の子だろう。大の男でも命を落としかねないのに、採れると思う方がおかしい」
叔父がそう答える。
「ならばどうして今ここでそのような話を私に聞かせるのですか。絵にかいた物を欲しがる童になれと叔父上は私におっしゃるの?」
これには叔父は返す言葉が無かった。
純粋で聡明なこの少女はそれだけ真剣に父親の病を治したいと思っているのだ。
そしてこの娘ならば本当に薬草を採ってきてしまうかも知れない、と密かに感嘆してもいた。
「曄、すまなかった。大人の私でも出来ないことを軽々しく口にしてはいけなかったとおまえに教えられたよ」
曄は叔父をやりこめたのだったが、彼女はそれを聞いて更に落胆した。
「・・・ではやはり薬草を採りにいくことは無理なのでしょうか?」
「今の季節にあるものかどうかすらもわからないのだよ。あったからといってそれがおまえの父に本当に効くかどうかもわからん。それにそれを採りに行って、万一おまえになにかあったら私はおまえの父に申し訳が立たない。無茶をするのはやめなさい」
「・・・・はい、叔父上」
曄が下がったあと、叔父達はふう、と溜息をついた。
そして隅に座っていた呉景に向かって言った。
「おまえの姉は賢い娘だが気性がきついね。あれを嫁に貰う男は大変だ」

呉景はそのあと姉の部屋の近くまで行って、足を止めた。
姉が泣いていた。
一人で、誰に慰めて貰うこともなく。
そのときの呉景は子供だったから、姉が叔父に叱られて泣いていたのだと思った。

だが後になって、あれは姉が自分の無力さを悔しがって泣いていたのだとわかった。

美しくて気性が激しくて聡明で、でも優しい姉。
呉景にとっては自慢の姉であった。

だから、守らなくてはならない。
相手が江賊であろうと誰であろうと。
 
 

津の近くに船が一艘係留されていた。
その近くに20人ほどの男達がたむろしており、略奪した戦利品を山分けしていた。
下卑た笑い声があがり、男達は愉快そうにそれぞれの宝物を品定めしていた。
その中に、曄の注文したらしき着物があった。
「・・・あいつらね」
津の近くの漁業作業用の小屋の影からその様子を見ていたが、それを見て曄が飛び出しそうになった。
呉景は慌てて姉の腕を掴んで引き戻した。
「姉上、落ち着いてください。ほら・・・向こうからもう一隻船が来ます。奴らの仲間でしょうか」
「それはまずいわ。これ以上人数が増えたら逃げられなくなるじゃない」
「えっ?逃げるって・・?」
「馬鹿ね、あの着物を取って逃げるに決まってるでしょ?」
姉は弟を見て少し呆れたように言った。
「伯昭、あんた足は速かったわよね」
「えっ?わ、私が・・・?」
「私が出て行ってあいつらの気を惹くからその隙に着物を持って逃げるのよ」
「ちょ、ちょっと待ってください、姉上!そんなことをしたら姉上は・・・」
「やつら、あんたが逃げたら後を追うでしょう?その隙に私も逃げるから、大丈夫よ。必死で逃げなさい」
曄は片目を瞑ってみせた。
「大丈夫なわけ、ないでしょう!姉上!無茶ですよ!着物なんかのためにどうしてそこまで・・・」
呉景は姉に憤って見せた。
曄は視線を賊から逸らさないまま言った。
「伯昭。あんたあれがどういうものかわかっていないのね。あれは母上の形見の反物なのよ。それを着物に仕立ててもらったの。だからどうしても取り返さなければならないの」
「母上の・・・・」
幼い頃に母を亡くした呉景にとっては母の記憶は少ない。
その母の貴重な形見だというのなら話は別である。
しかし姉を危険に晒すのはやはり気が進まない。

「姉上、その役を私と代わってくださいませんか。私が囮になりますからその間に姉上が着物を持って・・」
「駄目!そんなことしたら、あんたその場で斬られるじゃないの!」
呉景が全部言う前に、曄に言葉を遮られた。
「いいこと?私は女だし、自分で言うのもなんだけど結構美人だから、すぐには殺されたりはしないと思うの。だからこの役は私でないと駄目なのよ」
「姉上・・・!私だって、剣が使えます。むざむざと斬られたりはしませんよ」
呉景は少しムッとして言った。
「伯昭・・・わかっているわ。でもね、おまえの腕が立つと言ってもあの人数でかかってこられたら、おまえが秦の武安君でもない限り勝ち目はないわ。私の見るところ、あの船の中にはまだ仲間がいると思うの」
姉の言う秦の武安君、とは戦国末期の猛将白起のことである。常勝将軍と言われ、最も多くの兵を殺したと言われる戦の名人である。
そんな名を出されても呉景としては困る。
たしかに、4、5人相手なら自信はあるがあれだけ大勢相手ではこちらの方が先に参ってしまうだろう。
姉の言うことは正しいのだ。
だが、男としてそれを認めるわけにはいかなかった。
ところが、呉景がそう決断している間に、姉は行動を起こしてしまった。
「ちょっ・・・・姉上!!」



(続)