「さすがに玄武池とはちがうな」
長江の流れに、曹操は感嘆の意を漏らした。
荊州を手に入れて、水軍も増強した。
元は荊州の劉表の部下であった蔡瑁、張允の2名を水軍の指揮官に任命した。
その数は27万に膨れあがっていた。
曹操の乗った船は中でも一番大きく、曹軍の旗を船首に掲げていた。
東呉の孫権を呉候に封じ、位を与えたのは無血で呉を手に入れるための算段であったがあてがはずれた。
送った書簡に返事は「開戦」だった。
曹操はこのことに怒りはしたが、圧倒的な兵力の差をわかっていながら降伏しない孫権に対し、大した奴だ、と思わぬでもなかった。
「小僧のくせに、やるおるわ」
その、親子ほども年の違う孫権の鼻っ柱を折ってやるつもりであった。
「だが、やっかいなのはこの揺れだな。なんとかならぬか」
曹操はこんなに長く船に乗っていたのは初めてだった。
「丞相、こればかりは仕方がありません。なにしろ船にのっておるのですから」
当たり前のことを言って曹操を諫めたのは荀攸、字を公達という、曹操の側近であった。
以前郭嘉、という曹操の知恵袋とも言える側近がいたが、遠征中に病死していた。
その死にあたってはいたく曹操は嘆いたという。
「さて、呉はどう出るかな」
そのころ、呉の孫軍3万もすでに柴桑を出立していた。
諸葛亮、字を孔明という、劉備からの使者は呉軍にあって未だ軟禁状態にあった。
面会できるものは限られており、主にその役は参軍校尉を務める魯粛があたった。
(さて、いかにしてここから逃れるか、だな)
孔明はひとしきり考えに沈んでいた。
(できればそのときに・・・・・・さて、何か良い手はないものか)
扉を叩く音がした。
「どうぞ」
孔明が返事をすると扉を開けて魯粛と、周瑜が入ってきた。
「今日はお付きのあの番犬は一緒ではないのですね」
孔明はからかうように言った。
「呂子明のことをおっしゃっているのですか。彼は任務についています。そういつも一緒ではありませんよ」
周瑜は落ち着いて言った。
「それはありがたい」
魯粛がおほん、と咳払いをする。
「それはそうと、孔明どの。都督がお話があるそうです」
都督とは、言わずとしれた孫軍の指揮官である周瑜公瑾のことである。
「ほう。それは光栄ですね。何でしょう」
軟禁された孔明の部屋には小振りの机と椅子、それに牀台がひとつあるだけの質素なものであった。
その机の前に立って周瑜は話し出した。
「あなたのご意見を伺いに参りました」
そう言って周瑜は地図を取り出した。
「ほう。この地図はどこで?」
「地元の農民と協力して作らせました。確かなものです」
孔明の前の机の上に地図を広げた。
「劉豫州どのは樊口におられるとのことでしたが、時間が惜しい。あなたには申し訳ないがこのまま船を進めさせていただきます。使いの者をだしますから、何か連絡したいことがあれば今のうちにおっしゃってください」
「使いには私が参ります」と魯粛が言った。
孔明はその魯粛を一別したたけで何も言わなかった。
(この私を帰さぬつもりか・・・・なるほど。しかし我が君のことだ、どうせ・・・)
「で、孔明どの」
周瑜の言葉に、思考をうち消された。
「緒戦をどう戦うか、ということですが」
「まずは相手の機先を制することが肝要です。全力をもってこれにあたられるがよろしいでしょう」
「そうですね、私もそのように考えます」
「相手は水軍とはいえ少数の呉を侮っています。相手の先鋒を叩けば後退させられるでしょう」
周瑜は地図から目を上げ、孔明を見た。
それにかまわず孔明は続けた。
「先鋒はおそらく荊州出身の兵が出てくるでしょう。だからこそこれを叩く必要があるのです。水戦の得意な荊州の兵を曹操は頼りにしているはずですからね」
「・・・・・・」周瑜はそのままじっと孔明を見つめていた。
「なにか?」
「いえ。では黄公覆殿に命じて先鋒を遣わせましょう」
「それがよろしいでしょう」
周瑜は魯粛を残して孔明の部屋をあとにした。
孔明の洞察力、侮れない、と改めて感じていた。
やはり、今の内に始末しておいた方が後顧の憂いを断つ意味でもよい。
周瑜はしばらく考えてから、人を呼んだ。
「私はこれから樊口に向かいます。本当に何もお伝えしなくてよろしいのですか?」
「魯子敬どの、それではご主君にこれをお渡ししていただけますか」
孔明は懐から手紙を取り出して魯粛に手渡した。
「それでよろしいのですか?」
「ええ」
魯粛はそれを聞いて出ていった。
しばらくして孔明の部屋に一人の若い武将が来た。
凌統、字を公績という、若いが猛将として名を馳せている武将である。
(来たな)
曹軍の兵糧庫を叩く、というのである。
それへ都督は水軍の指揮をせねばならず、他に陸戦の知将がおらぬことから、孔明に一緒に来て欲しい、とのことであった。
「あの曹操がそれくらい予想していないとは思えません。あなたの率いる3千の兵ではとても無理でしょう。
どうしてもとおしゃるなら、我が劉軍1万の兵と共にでもなければいくら私とて勝てる策も講じられぬというもの。あなたにはその指揮下に入っていただかなくてはなりません」
若い、まだ20歳になったばかりの凌統は周瑜から、行軍途中に孔明を始末しろ、ということだけしか命じられておらず、自分の兵を劉備軍に編成されるなどという策に対してはどう答えたらよいものかどうかまったくわからなかった。
「そ・・・それは困ります。わが兵は都督のもの。劉軍の指揮を受けるわけにはまいりません」
「では無理です。どうされるのか、周都督のお考えを聞かねばなりませんね」
孔明は周瑜を呼んできてほしい、と凌統に言った。
凌統は少しほっとした表情で出ていった。
凌統と入れ替わりにしばらくして周瑜がやってきた。
「ご用でしょうか」
「・・・・・あなたはこの私を殺そうと思っていらっしゃるのですか」
「何のことでしょうか」
「先ほど凌統という者がやってきましたが、彼にそう命じたのではないですか?」
「・・・馬鹿なことを。そのようなことは思ってもおりません」
「ではなぜたかが3千の兵で曹軍の兵糧庫を焼き討ちしようなどと命令なさるのです」
「官渡で袁紹が負けたのは糧食を焼かれたからです。それに習おうと思ったのですが」
「曹操が自分の手口を他人に真似させるとお思いですか?糧食の守備には万全の備えをしているはずです。それがおわかりにならないあなたではないでしょう?」
「孔明どのがご一緒してくださるならそれも叶うかと思っております」
周瑜は一切の表情を変えなかった。
「・・・・・あなたが私を評価してくださるのは結構ですが今は曹軍と戦うことだけに専念した方がよいと思います」
孔明は立ち上がって、その周瑜の手を取った。
「あなたの手にかかって殺されるのも悪くはないと思いますが、まだこの命を渡すわけにはいかないのですよ」
そういって孔明は周瑜の手の甲に口づけした。
周瑜は驚いてその手を振りほどいた。
「と、とにかく、その作戦はもう少し考えてから検討することにします」
「よした方がいいですよ。こうしている間にも曹操は南下を続けています。先に烏林に陣を張られると手が出しにくくなります。あのあたりは水流が緩やかで、陣を張るにはもってこいの場所ですからね。逆にその対岸は流れが速い。攻める側としては苦戦してしまいますよ」
「・・・・・!」
そのとき部屋の扉を叩く音がした。
「だれだ」
扉越しに周瑜は誰何する。
「偵察に出ていた者が戻りました」
「すぐにいく。報告は私の部屋で聞こう」
「は」
扉の向こうで兵が去っていく足音がした。
「それでは私はこれで」
周瑜は孔明に背を向け、入り口の扉の方に向き直った。
そのとき、孔明は周瑜の肩に背後から手をかけた。
「もう行ってしまわれるのですね。つまらないな」
強い腕だった。
「何を・・・・」
周瑜はそのまま後ろに引き寄せられ、背中から両腕で抱きしめられる格好になった。
「・・・華奢な体ですね。これで戦にのぞむとは信じがたいことです」
「離せ!」
「あなたはいい香りがしますね・・・花の香ですか?」
周瑜は自分を戒める孔明の腕に手をかけた。
「いい加減に・・・!」
「あなたともっとこうしていたいのに・・・残念です」
そっと孔明は腕をひらいた。
戒めの解かれた周瑜は孔明を振り返り、ぎろりと睨み、凄んで見せた。
「・・・・本当に殺されたいようですね。今後このような無礼は許しませんよ!」
だが孔明は一向に悪びれない様子で言った。
「すみません。なぜか私はあなたといるとどうしても手を出さずにはいられないようです・・・・これも病の一種でしょうか」
「あなたという人は!なんという恥知らずな!」
周瑜は孔明の頬を平手で打った。
そのまま、荒々しく扉を開けて周瑜は部屋を出ていってしまった。
「女に殴られたのは初めてだ・・・」
孔明はしばし呆然としていた。
そして打たれた頬に触れてその甘い痛みを感じていた。
(2)へ続く