「・・・・曹操軍は烏林に陣を張るつもりのようです。先ほど先遣隊が向かっていると報告がありました」
周瑜はその報告の内容がいちいち孔明のいうことと合致していることにいらいらしていた。
さきほど自分に対して無礼をはたらいたあの男。
しかし、その才能は認めざるを得ない。
周瑜はわずかに唇を噛んだ。
「わかった。すぐさまこれを叩く必要がある。敵を烏林に陣取らせてはならぬ」
周瑜の船室には報告を聞くために主な武将が集まっていた。
「先鋒は甘寧、凌統。この指揮を子明、おまえに任せる。後続を韓義公どの、周幼平どの。総指揮は黄公覆どのにお願いする」
「は」
そこにいたのは呂蒙子明、韓当義公、周泰幼平、黄蓋公覆、程普徳謀の5人。
全員その命を聞いてうなづいた。
「敵は数を頼りにしているだけの烏合の衆。わが呉の精鋭が負けるはずはない。まず緒戦で勝ち、その勢いを見せつけることに意味がある」
周瑜にしてはめずらしく激している、とそこにいた全員が思った。
「ただちにおのおのの陣に戻り、部隊を編成して報告してくれ。部隊長を集めて策を授ける」
おお、と声が上がり、その場は解散となった。
周瑜は机上の地図を睨みながら何事か考えていた。
「あの、公瑾どの・・」
「子明か」振り返りもせず、周瑜は言った。
「ひとつ、ご相談があります」
「・・・・甘寧と凌統のことか?」
「はい」
周瑜はゆっくり振り向いた。
甘寧、字を興覇というのは、孫権の代になってから呉に仕えた猛将である。
元々は江賊で、長江を荒らし回っていた、破天荒な男である。
それが劉表の口利きで黄祖の部下になり、様々な手柄を立てたが評価されず、ついには呉の孫権に下った。
その際、最初に頼ってきたのが呂蒙のもとであった。
それ以来、呂蒙は甘寧の男気あふれる気性やさっぱりした性格などに惚れ込み、親交を深めることとなった。
一方、今回周瑜が先鋒を任せようとしている凌統、字を公積という若い武将がいる。
彼の抱える問題とは、ずばり仇討ちであった。
甘寧興覇、彼が凌統の父の仇なのである。
それもすべて戦のなかでのできごとと、一時は収まったが、長い船旅の疲れからか、ここのところ妙に二人の仲が膠着してきている、と呂蒙はいうのだ。
甘寧にあとで部屋に来るように、と呂蒙に伝え、周瑜は部屋に一人になった。
地図をみながらじっと考える。
扉を叩く音がして、開けると兵が書簡を携えてきた。
それを受け取り、兵を帰すとさっそくその書簡に目を通す。
ホウ統からだった。
「何・・・・!」
しばらくして甘寧が入ってきた。
彼は孫権や二張にも敬語を遣わない。だが、周瑜にだけはなぜかうやうやしく敬語を使う。
呂蒙が言うには彼なりの尺度があるのだろうという。
南の男らしく、日に焼けた精悍な顔、堂々とした体躯に鎧を纏っている。腰にはいつもの鳴り物が下げられていた。
「お呼びですか、都督どの」
「まあ、そこにおかけなさい」
部屋に置かれたいくつかの椅子のうちのひとつを示して促した。
甘寧はちょうど周瑜の前になる席に座った。
「どうせあの小僧のことでしょう?」
「・・・・・・わかっているのなら話は早い」
「俺はいいんですが、向こうが勝手に斬りつけてくるんです。そうなったら俺は身を護るしかないでしょう?」
「公績には言っておく。だから・・・・彼を護ってやって欲しい」
「は?」
甘寧は驚きを隠せなかった。
「俺が?あの小僧を護る?」
「彼はつっぱしりすぎて見境が無くなることがある」
「・・・・あの小僧が大切ですか」
「そう、大切だよ。甘興覇、そなたと同じように」
「俺とあの小僧とが同じですか」
「不服か?」
「不服ですね。俺はあなたにもっと評価されたいんです」
甘寧は周瑜の顔を見て爽快なほどに言い切った。
「ではこの緒戦で必ず勝つと約束してくれるか?」
「もちろん」
「頼りにしているよ」
「ですが、あの小僧のことは俺より子明にいっといた方が賢明ですよ」
「水軍の指揮はそなたの方が優れている。だから頼りにしているといった」
甘寧はその言葉を聞いて、にかっと笑い、膝を叩いた。
「ようし!了承した。俺は全力を尽くします」
立ち上がり、部屋を出ていこうとした。
「興覇」
「はい?」
「敵の水軍都督は蔡瑁と言う者だ。副将は張允。知っているか?」
「蔡瑁か・・・・もちろん、存じております。先代の蔡夫人の弟です。大した男ではありません。やつの策ならだいたい読めます。俺にお任せください」
「頼もしいな」
周瑜は秀麗な顔を和らげて笑った。
「必ず勝利を我が都督に捧げて、戻ります」
ふいに扉を叩く音がした。
孔明は目線を入り口に移すと、そこから戦衣に身を包んだ周瑜が入ってきた。
「やあ・・・もう来ていただけないかと思っていましたよ」
・・・・本当は来たくなぞなかった、と周瑜は思う。
「さきほどあなたを打ったことは、謝りませんよ」
孔明はふふっと笑って言った。
「ええ、あれは私が悪かったと謝ります。・・・自分の妻でもない女性に失礼なことをしてしまいましたね」
周瑜はぎろ、と孔明を睨み付けた。だが今更、それを否定する気も起きなかった。
「本当に、あなたが私の妻になってくださったら良いのに」
「ふざけるのはそれくらいにしていただきたい」
周瑜はくすりとも笑わずぴしゃりと言った。
孔明は両肩をすくめてやれやれ、といった表情になった。
「なにか報告はありましたか」表情を引き締めて孔明は訊いた。
「あなたのおっしゃった通りになりました。曹軍は烏林をめざしてきています」
「もう出撃の準備はさせているのでしょうね?」
「ええ。蒙衝を準備させています。そこでひとつご相談にのっていただきたい」
蒙衝、とは駆逐艦のことでいわゆる戦艦である。
「・・・・大型の蒙衝か小型の蒙衝か、というところですか。いつもながらあなたの考えは正しいですよ」
孔明は涼やかに笑った。
「・・・・・・!」
周瑜の考えていることがことごとく看破されている。
やはり、おそろしい男だ、と思わざるを得なかった。
「私の知るところでは、敵の蒙衝には小型のものはありません。大勢の兵を運ぶため大型のものしか用意していないようです。
となればこちらは小回りのきく小型の蒙衝で敵を翻弄するのが上策でしょう・・・ああ、そんなことはもうとっくにお考えのことですね」
「・・・兵を運んで来るということは、彼らはやはり陸口を目指しているのですね」
孔明はにやり、として周瑜を見た。
「さすがは呉の都督。そうです、陸口の大きな渡し場をおさえられたら北の騎兵が渡ってやってくる。そうなったらすぐに柴桑は陥落するでしょう」
「・・・・もうひとつ、あるのです。漢水を南下してくる水軍の一団があると。文聘というものが指揮を執っているらしいのです」
「ほう・・・」そのような情報をどこで、と思う孔明であった。
「劉キどのはどこらあたりに陣をはっておられたかな?」
周瑜は孔明の言いたいことが瞬時にわかった。
劉キというのは荊州の劉表の遺児で、後継者争いに破れ、一地方の太守に任じられていた。
ところが彼を残して一族が皆曹操に下ってしまったため、豫州の劉備と同様、孫権軍と共同戦線を引き、今回の戦に参加してきているのである。
彼が陣を張っているところは、漢水と長江との交わる地点であった。
孔明の意図するところは、漢水を下ってくる兵は荊州の兵であるから元は同じ荊州の領主であった劉キとはそうは戦えまい、と言うのである。
「おっしゃることに一理あります。では漢水の下流に兵を5千配置するにとどめおきます」
「それがよいですね」
孔明はにこにこと微笑んだ。
「まったく、あなたと話していると実に楽しい。いらぬ説明をしなくて済みますからね。本当にできればずっとこうしていたいくらいです」
命を狙われていることを知っているくせに、しらじらしい、と思う周瑜であった。
「残念ですが時間がありません。私はこれから評定のためにこの船を離れます。もうじき子敬が戻るでしょうから何かあれば彼に言ってください」
「それは寂しい・・・・ああ、そうだ、5千の兵を割いてしまって本隊は大丈夫ですか?」
「樊口で別働隊が合流することになっております。それをみたら孔明どのも驚きますよ。なにしろ派手な船団ですから」
周瑜は笑みをたたえながら出ていった。
派手な船団とは、呂範子衡の隊のことである。
周瑜の秘密を知る一人である彼は孫策の代からの臣だが昔からその派手好みはつとに有名であった。
甘寧、凌統の先鋒は呂蒙の指揮下、出発した。
敵の蔡瑁は小型の蒙衝の船団を見て嘲笑した。
「馬鹿め。あのような小舟で我が船団に対抗するつもりか!」
しかし操舵をよくする呉の蒙衝はこれを取り囲み、一斉に矢を射かけた。
甘寧は船首に立ち、弩を引き絞り、敵の旗艦めがけて射た。
その勢矢はみごとに弧を描き、旗艦の艦首にいた司令官の喉に突きたった。そのまま江に落ち、指揮官を失った船は混乱するばかりであった。
蔡瑁は味方の船が取り囲まれ、次々と矢を射かけられるさまを呆然と見ていた。
「な・・なんだ、これは。呉の水軍とはこれほどまでに強いものであったのか・・・」
完全に舐めきっていた蔡瑁は呉の船団が迫ってくる恐怖を感じていた。
負ける!
そこへ副将の張允が蔡瑁に声をかけた。
「都督、ここは一旦引きましょう。残念ですが旗艦の指揮をしていた弟君が戦死なされたようです・・・。幸い私が連れてきた陸兵がそこまで来ております。船を捨てて陸に上がり、合流しましょう」
「そ、そうか、そうだな・・」
張允の助言どおり蔡瑁は味方を見捨てて自分の船首を陸に向けさせた。
しかし、陸沿いに陣をしき、敵を掃討していた凌統の部隊に追われ、まさに命からがら、といった体で逃げ延びたのだった。
ふと横目で味方を見ると、敵方の船に包囲され乗り込まれ次々と孫軍の旗に塗り替えられていった。
惨敗である。
烏林を取って要塞を作る、などと曹操に大見得を切って出てきた蔡瑁は顔色を失っていた。
黄蓋はこの圧倒的な勝利を確認し、撤収命令を下した。
前哨戦は呉軍の勝利に終わった。
曹操軍は 烏林より少し江陵よりに退かざるを得なくなった。