劉備のもとに遣いに行っていた魯粛が戻ってきて言った。
「劉皇叔どのがこちらに参られます」
(ああ、やはり我が君はそうされると思っていた・・)
孔明は現在人質同然に扱われている自分を劉備が迎えにくることを予想していた。
普通なら、漢室の血筋であり豫州牧の身分である劉備の方にこちらから出向くのが礼儀というものである。
だが周瑜の命により、船を寄港させられない事情を鑑みて劉備自らが船をだし、都督である周瑜に挨拶にくるというのである。
周瑜はそんな劉備の意外な行動力に少々驚いていた。
そうして間もなく劉備の船が周瑜の旗艦に寄り、当の本人が乗り込んできた。
(これは・・・)
周瑜は劉備に会うのは今日が初めてだった。
「貴公が周瑜公瑾どのか。初めてお目もじいたす。劉備玄徳と申します。こたびはまったく見事な戦勝でありましたな」
劉備玄徳という男の容貌についていくつか噂は聞いていた。
長耳、腕は膝より長いと言われていた。
なるほど、耳は大きく、耳朶が肩につくほど長い。劉備の首が短いため、余計にそのように見えるのだ。
腕は、膝には届きそうだが、噂ほどではない。
だが、異相だ、と思った。
人の良さそうな下がった眉とはうらはらにその両目からは厳しい意志を感じた。
「周瑜公瑾と申します。わざわざのご足労痛み入りましてございます」
周瑜は差し出された手を握り返す。
その劉備を守護する鬼神のごとく、左右後ろに敢然と直立する二人の武者が目を惹く。
(これが関羽、張飛か)
二人は周瑜の一挙一動を見逃すことなくその恐ろしげな目で威圧していた。
特に関羽はおそろしく背が高く、体格も良かった。なにより人目をひくのがその立派な髭であった。
「時に、わが軍師はどちらかな」
劉備はとぼけた顔で言った。
「私が呼んで参りましょう」と、魯粛が迎えに行った。
しばらくして部屋に孔明が入ってきた。
「おお、孔明。変わりはないか」
「ああ、我が君。お久しゅうございます。関雲長、張翼徳どのも」
「これから軍議を開くのですが、お出になられますか?孔明どの」
と周瑜はそらぞらしく訊いた。
「ええ、是非」
「では我らは待たせていただこう。よろしいかな?」
「わかりました。部屋を用意させます」
自分たちの部屋を用意してもらった劉備はそこに孔明を呼んだ。
「孔明よ、頼まれていたものだ」
劉備は懐から小袋を取り出して孔明に手渡した。
「ああ、なんと手ずからお持ちいただいたのですか。ありがとうございます」
孔明は受け取ったものを自分の懐に入れた。
「それをどうするつもりだ?どこか痛むところでもあるのか?」
「いいえ。もしもの時に使うつもりなだけです。ご心配には及びません」
「そうか、それなら良いが・・・しかし、あの周瑜公瑾という男は女とみまごうばかりの美男であるな」
劉備が感嘆の声をあげると、孔明はくすり、と笑った。
「ええ、美人です。私もすっかり魅せられてしまいました」
じろ、と関羽がにらむ。
「同盟相手とはいえ他国の指揮官をそのように言うのはどうかと思うが」
低い、よく響く声で孔明をせめる。
「私は美人は好きですよ。雲長どのはお嫌いですか」
「孔明、まさかおめえ、ほんとにあの女みてぇなヤツに惚れちまったんじゃねんだろうな」
張飛は遠慮がない。
「さあて、どうでしょう」
「ほんとにおめぇは食えねぇヤツだな」
「まあ、翼徳よ、それくらいにしておけ。どうだ孔明。呉軍は勝てそうか」
劉備は張飛と孔明の間に入って言った。
「五分五分でしょうね。緒戦に勝ったとはいえ敵はあまりにも多勢です。なにか謀計をもちいねば苦しいところです」
「そうか」
「ですが周都督ならばやるでしょう。それに呉の水軍は本当に強い」
「うむ。侮れぬな」
「せっかく迎えにきていただいたのですが、私はこのままここにとどまりたいと思います。お許しいただけますでしょうか」
「何、戻らぬのか」
「はい。呉軍の動きをもう少し見ていきたいと思います。本隊の開戦までまだ当分あるでしょうから、開戦の合図があったら趙子龍を迎えによこしていただきとうございます」
「うむ。そちにはなにか考えがあるようだな。わかった、そうしよう」
「ありがとうございます」
一方、敗戦の将となった蔡瑁は曹操のもとに戻ってきていた。
「なんたる様だ。蔡徳珪よ。よくも私を失望させてくれたな」
「申し訳ありません、丞相閣下。ですがあれはもう少し船の数が多ければ・・・」
「だまれ!数に頼るのであればわざわざそなたに出撃させたりはせぬわ。そなた、なんといって出ていったかもう忘れたのか」
「・・お、お許しください。今度こそ、勝利してご覧にいれます」蔡瑁は深々と叩頭した。
「・・・・私は欺かれるのが嫌いだ。その言葉、しかと聞いたぞ。次が最後だ。その次はないと思え」
「・・・はっ・・」
蔡瑁を下がらせると、曹操は苦い味をかみしめるような表情になった。
「それにしても、周瑜といったか、敵の都督は。誰か、どのような男なのか知らぬか」
曹操の側近たちは一様に顔を見合わせ、首を横に振った。
曹操にしても、周瑜などという名前はここへくるまで知らなかったのだ。
「江東随一の知将でございます。孫権など周瑜がいなければとっくに首をどこぞにさらされて朽ち果てておりましたでしょう」
「む、子翼か」
ひとり、進んで曹操の前に出た者がいた。
蒋幹、字を子翼という。
「そなた、周瑜を知っておるのか」
「はい。大尉を輩出した名門周家の者で、昔廬江郡にいたとき、塾で弁舌を競い合いました」
「どのような男だ」
「知才にあふれ、文武どちらにも優れ、楽や詩文などをよくします。私が会ったときには女とみまごうようなたいそう美しい男でした」
女とみまごう、と聞いて曹操の目が輝いた。
「ほう。それは興味深いな。なんとか連れて来れぬものか」
「周瑜は先代の孫策とは義兄弟の中で、孫権の信頼も厚いと聞きます。それは難しいでしょう」
「おぬしの得意な弁舌でも無理か?位階、宝玉、なんでも思うままに取らすと言え」
「・・・やってみましょう。そのかわり・・・」
蒋幹はねずみのような前歯を出して言った。
「わかっておる。見事周瑜を連れてこられれば褒美は思いのままだ」
曹操は内心、この蒋幹という男に疑念を持っていた。なかなかの論客というのでとりたててやったが、なにかにつけ貪欲なのだ。
その様子をひそかに見ていた者がいた。
ホウ統士元である。
彼がひそかに周瑜と親交を持っている事はここにいる誰一人として知らない。
危険を犯してたびたび曹軍の内情を書簡に託して周瑜に知らせてきたのだが、船中からではそれもかなわない。
蒋幹が行く事をなんとかして周瑜に知らせたい、と思った。
しかし、このままでは身動きが取れない。どうすればよいものか。
その夜もいつものように曹操は要塞のような船上で酒宴を催していた。
そして、いつものように口癖を言った。
「この船はなかなかに居心地は良いがこれで美女がおればなあ・・・」
いつもならここで程イクや荀攸などに窘められて酒がますます進むだけだったが、今夜は少し違っていた。
同じく酒を飲んでいた徐晃が言い出した。
「そういえば今日私の部下が女を捕らえました。こんな戦場近くに一人でいるのもおかしいので声を掛けたところ逃げたので捕まえたらしいのです。いかがいたします?丞相。御自ら詰問されますか?」
「なに?女だと?美女か」
「良く見たわけではありませんが、なかなかの美女でした」
「そうか、そうか。今どこにいる?」
曹操はとたんに機嫌がよくなった。
「はい、陸地の方の私の部隊の陣地に捕らえております」
「そうか!いますぐ連れて参れ」
「は」
広間で酒を飲んでいたホウ統はこれを聞いて、不信に思った。
果たしてこのような戦場となる地に女が迷い込んだりするものだろうか。
ホウ統はそっと忍び出て、徐晃の隊の駐屯している幕営に先回りした。
おそらく其処に捕らわれているのだろうという天幕に当たりをつけ、ホウ統は見張り立っている兵に酒を与え、幕舎の中に入り込んだ。
中には仄明るく燭が灯されていて、薄紅の衣裳を纏った女が座っていた。
手に縄をかけられていた。
ホウ統が入ってきたことに気づくと、女は顔をあげた。
ホウ統は驚きの言葉を発した。
「こ・・公瑾どの・・・・か?」
まぎれもなくそれは美女の姿をしているが、周瑜公瑾その人であった。
(4)へ続く