話は少し前に遡る。
「何?周都督が倒れられたと?」
孫軍上層部の主だった武将が集まり、軍議の前の席であった。
「しっ、大きな声を出すな。先日の緒戦から膠着状態が続いているだろう?そこで軍議づめになっていてどうやら心労で倒れられたらしい」
「それで、大事はないのか」
「ああ、ただの心痛だということだから心配はないと言っていたが、しばらくは安静にされるそうでどなたも面会できないそうだ」
「ああ、なんと言うことだ・・・・こんなことで呉軍は大丈夫なのか」
「当座は右都督の程徳謀どのが指揮を執られるらしい」
周瑜が倒れたのは昨夜のことであった。
孫軍は夏口の先に船を係留し、そのちかくの陸地に陣営をこしらえていた。
その中でももっとも大きい周瑜の陣舎では魯粛、孔明の両名が来ており、今後の策について話をしていた。
お互いの策を披露しあおう、ということになって互いの口からでた言葉は
「火でしょう」
「火計がよいかと」
同じ策であった。
これを見た魯粛はさすが、お互いの同盟国を代表する軍師同士であるな、と感嘆した。
「ただ、心配な点がいくつかあります」
周瑜が目線を下におとすと、孔明はそのあとをひきとって言葉を継いだ。
「問題は風でしょうね・・・・こればかりは私にもどうにもできませんよ。運を天に任せるしかありません」
「そのとおりです。長江に詳しい甘興覇によれば、この時期には必ず逆風が吹く日がある、というのですが保証はありません」
「あとは、いかに大艦隊に効率よく火を仕掛けるか、というところですね」
「・・・・ええ」
今更ながら、周瑜は孔明の読みの鋭さに危機感を覚える。
「実はもうひとつあります」
「ほう?なんです?」
「物資が足りていないのです。特に弓矢が」
「なんですって?」
孔明は意外な顔を周瑜に向けた。
火計を仕掛ける策を考えていたという周瑜がここへきて火矢をしかけるための矢が足りない、などと言い出すとは考えられない。
なにかあるな、と思ったがそれは口には出さなかった。
「先日の緒戦で意外にも多くの弓を使ってしまったのです。今、手の空いている兵に用意はさせているのですが全然足りない」
「・・・・どのくらいあれば良いのです?」
「数はあればあるほどよいのですが・・・。」
孔明は周瑜の秀麗な顔を見ながらしばし考えた。
顔色が悪い。なにかあるのだろうが、今ここで周瑜に恩を売っておきたい、とも思う。
「・・・わかりました。私がなんとかしましょう。三日ほどいただけますか。兵を20人ほどお貸しください。それと船を20隻」
「たった三日で?大丈夫なのですか。孔明どの」
魯粛が心配顔で孔明に声をかけた。
「大丈夫です。ちょっと試してみたいことがあったのでちょうどよかった。・・・それより公瑾どの、顔色が悪いように見受けられますが・・・どこかお加減でもお悪いのですか?」
「いえ、大丈夫です。少し寝不足気味なだけです」
そう言って、周瑜は立ち上がろうとした。
「あっ」
声を発したのは魯粛だった。
周瑜の体はそのまま立ち上がることはなく後ろに倒れた。
孔明は慌てて周瑜の傍に駆け寄り、抱き起こした。
「公瑾どの!どうなされた、しっかりなさい!」
孔明の声に周瑜はうっすらと目を開けた。
「軍医を呼んで参ります」魯粛はそう言って急ぎ出ていった。
「だ・・・大丈夫・・・です。ちょっと目がくらんだだけ・・・」
周瑜は弱々しく言った。
「無理をしないでください。今あなたに倒れられたら勝てるものも勝てなくなるではありませんか」
孔明は腕の中の周瑜に強い口調で言った。
「・・・・・」
周瑜はまた目を閉じた。
(周瑜公瑾・・・やはり女には無理があるのだ、こんな風に倒れるまで何も言わぬとは、なんと気丈であることか・・・)
孔明は気を失った周瑜の顔を見つめながら思った。
そして顔を近づけていき、周瑜の形のいい唇に唇を重ねた。
その瞬間、周瑜の指がぴくり、と動いたことを孔明は気づかなかった。
「心労からくる過労でしょう。腑がだいぶお悪いようです。しばらくはあまり無理をせずゆっくりなさることが肝要ですな」
軍医はそう言って丸薬をいくつか置いていった。
周瑜は寝台に横たわって寝息をたてていた。
魯粛は、呂蒙、程普、黄蓋らを呼び集め、事の次第を語った。
「・・・とにかくしばらく安静にせよとのことでしたので、公謹どのがご自分で采配なされるまで徳謀どのに指揮をお願いしたいのですがよろしいでしょうか」
「・・・まあ、そういうことなら致し方あるまい。それにしても、こやつ見かけ通りのか弱さよの」
程普は毒づいて言った。
今回に限らずなにかと程普は周瑜の指揮下に入ることが多く、日頃から不満に思っていたのは皆が知るところである。
それが表沙汰にならないのは周瑜が程普に対して常に一歩引いて接していたからだ。
しかしその態度もまた程普には疳に障った。
「まあ、とにかくしばらくはそっとしておきましょう。といってもこの人のことだからすぐに復帰するでしょうが」
魯粛の言葉に一同はうなづいた。
そして一同が去った後、周瑜はおもむろに目を開けて立ち上がった。
「文嚮、そこにいるか」
天幕越しにひそかに声をかけた。
「はい。ここに」
「手はず通り、やってくれ」
「はい」
「配下のものは?」
「大丈夫です」
「よし。支度をする。そのままで人が来ないように見張れ」
「は」
孔明はさきほど魯粛とともに出発したらしい。
それにしても、と周瑜は先ほどのことを思い出した。
気絶したふりをしていた自分に口づけをした孔明のことを。
手の甲で唇をぬぐう。
(一体どういうつもりなのだ、奴め)
余計な考えを振り切って、周瑜はおもむろに着ている物を脱ぎ始めた。
「文嚮」
「こちらへ」
周瑜の天幕から出てきたのは薄物の布を頭からすっぽりかぶった女であった。
それはむろん周瑜であった。
徐盛に手を引かれ、夜の林の闇に消えていった。
「ホウ統どのか!良かったここでお会いできて」
周瑜の発する声を聞いてホウ統は半信半疑だった思いを確信に変えた。
「まこと、公瑾どのか・・なぜここに・・しかもその姿は・・・」
ホウ統は周瑜の手首にかかっている縄を懐から取り出した短剣で切断した。
「あなたになんとしてもお会いして伺いたいことがあったのです。それと、お願いしておいた件のこともあります」
「なんと無茶をなさる・・・ああ、これですね。持ってまいりましたが・・・あなたの留守中、呉軍はどうしているのです?」
ホウ統は懐から竹筒を取りだし、渡した。
「その点は一芝居うって参りましたから大丈夫です」
「しかし時間がありませんぞ。もうじき曹操の迎えがくる。このままではあなたは曹操の元に引き出されてしまいます。早くお逃げなさい」
「・・・・・・このまま曹操に会ってもよいと思っています」
「なんと!」
「曹操の褥に行き、ヤツの寝首を斯きます」
「・・・・刺し違えるおつもりか。やめなされ。ここで曹操が死んだとしても残った将兵は引き上げたりはしませんぞ。むしろ仇討ちと称して死兵となって戦うでしょう。そうなったら今より状況が悪くなるだけです」
「・・・・」
「なにより私はあなたにこんなところで死んで欲しくない」ホウ統はそう言って、周瑜の手を取った。
周瑜はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「・・・わかりました。ではひとつだけ教えてください。ずっと荊州ですごされてきたあなたのご意見を伺いたい。戦場はおそらく烏林、石頭関つまり長江の南岸になります。この時期東南の風は吹くでしょうか。またそれはどうして知る事ができますか?」
「・・・・・火計を用いるおつもりですか」ホウ統は少し驚いたような顔をした。
「・・・おっしゃるとおりです」
「なるほど。季節は冬通常なら北西にしか風は吹きません。しかし、有る条件で東南の風がこの時期にだけ吹くのです」
「おお、どうかそれをお教え下さい」
「あなたの御為ならばいかようにも。霧の深い朝にご注意ください。その日は午後から快晴になり、気温が上昇します。その夜にはかならず東南の風が吹くでしょう。北西に吹く風が一時凪ぐ時があります。それが合図です。その後風は逆に吹くことになります」
「ああ、感謝致します。これで必勝の策が完成致します」
「では急ぎここを脱出なされるがよいでしょう」
「ええ。しかし危険を犯しても士元どのにお会いできて良かった」
「さ、こちらです」
ホウ統は天幕の裏側からそっと周瑜を逃がした。
「うまく逃げられよ」
ところが、天幕の外に出たところで徐晃の部下と出会ってしまった。
周瑜はそのまま江へ走り出した。
「おい、まて女!逃げるな!」
兵は女を捕まえるのにいちいち味方を呼んだりはしなかった。甘く見ていたのだ。
逃げる周瑜を追いかけて行き、江水のほとりまで追い詰めた。
「さあ、もう後が無いぞ。おとなしくこちらに来い。丞相さまがお召しだ」
じり、と兵が歩み寄ろうとしたとき、周瑜は後ろを振り返り、江に身を投げた。
「わあっ!何を・・!!」
兵の見ている前で飛びこんだ女物の袍が長江の速い流れに流されて行く。
「ああ・・・・なんてこった。隊長になんといえば・・・」
兵はそれきり肩を落として陣に戻って行った。
女が身を投げたのであればまず助からない、兵はそう思って引き上げて行ったのだが、
周瑜は幼い頃から孫策と遊び、江や川で泳いだりしていたため、泳ぎは得意であった。
曹操軍の駐屯している江陵からわずかに烏林よりの小さな渡し場に小船が一隻係留されていた。
その船に江からずぶぬれで這い上がってくる者がいた。
船上の徐盛が手を貸して、船に引き上げられたのは先ほど身を投げたと見せかけた周瑜であった。
「大丈夫ですか?」
「ああ・・・・だが少し疲れた」
「これを。そのままでは風邪をひきます」
徐盛は自分の鎧の上から羽織っていた肩衣をほどいて周瑜に手渡した。
「すまないね」
それを受け取ると、周瑜はすぐに濡れた衣裳を脱ぎはじめた。
徐盛はその間周囲に目を光らせていた。
「ん?なんだあれは・・・・」
江を曹操軍の方に向かって走って行く船の一団があった。
それこそは孔明の用意した葦と藁を積んだ船団であった。