「文嚮、まずい。今すぐ船を出せ。このままでは敵の流れ矢の的になってしまうぞ」
周瑜はひどく慌てて言った。
徐盛には周瑜の言っている意味がよくわからなかった。
「しかし、都督、そのままではお体に障ります。少し休んで行かれた方が・・・」
船には小さなかがり火が焚いてあったが、徐盛は夜目に見ても周瑜の顔色が悪い事を心配していた。
「いいか、文嚮、あれは孔明の仕立てた船だ。あのまま敵陣につっこませるつもりなのだ。そしておそらくぎりぎりのところで戻すのだろう。私はヤツに弓矢を集めるよう示唆した。その答えがあれだ。敵は無数の矢をあの船に向けて射ってくるぞ。孔明め、敵から物資を調達するとはな、妙計だ」
周瑜は徐盛にわかるように説明をし、とにかく船を出させた。
だが徐盛は心配だった。
船に低く身をひそめてはいるが、冬の江の風は冷たい。ましてや周瑜はこの江の冷たい水に浸かっていたのだ。
本来は渡し場で合流するはずだったが、おそらく敵に見つかったので江を泳いできたのだろう、と思った。
今はかがり火も消して、身を潜めている。
先ほどの船団の向かった方の夜空が赤々と燃える。
周瑜の言ったとおり、敵との交戦が始まったのだろう。
このまま船を呉軍の陣地の手前まで走らせ、津から上陸する。
船を係留し、振りかえると周瑜の反応がない。
「・・・都督!」
傍によって抱き起こすと、体が冷たく、ひどく震えていた。
(これはいかん・・!)
徐盛は周瑜を肩衣ですっぽりとくるみ、そのまま抱き上げて船を降りた。
「そこにいるのは誰だ!?」ふいに徐盛は背後から怒声を聞いた。
振り向いた先には大柄な武者が剣を片手に立っていた。
「太史・・・子義どのか」
「!?」
そこに立っていたのは太史慈、字は子義。孫策の頃からの忠臣であり、徐盛とはもちろん戦友である。
「文嚮どのか!?何をなさっているのだ?」
太史慈は松明をかざして近づいてきた。
「その手にあるのは・・・・・なんだ?」
(まずい・・・)
「子義どの、私は今周都督の命を受けて敵情視察に行ってまいったところだ。隠密の行動ゆえあまり人目につかぬよう行動しているのだ」
「おお、そうであったか。ではこれから都督のもとに戻られるのだな。ここからではまだ少し距離がある。案内しよう」
「いや、せっかくだが子義どののお仕事の邪魔をするつもりはない。このまま行かせてくれればよい」
太史慈は徐盛の頑なな態度に少し首をかしげた。
そのとき、徐盛の腕の中の周瑜がうめき声をあげた。
「なんだ?文嚮どの。その手のなかにあるのは人か。一体どうなされた?」
徐盛はとっさに周瑜を抱く腕に力をこめた。
「・・・実は潜入させていた密偵が敵に追われて江に落ちたのだ。途中で拾い上げてきたのだがこの寒さで動けなくなってしまったのだ」
嘘ではない。それが誰なのか、が問題ではあったが。
「ほう・・それは大義であったな。ではどこかで休ませた方がよいであろう。その者は拙者が預かるゆえ、文嚮どのは早く都督のもとへ行かれた方が良い」
「・・・・」
ここで変に断れば怪しまれる。
この太史慈という男は律儀で礼節正しい武将であった。
「申し訳ないがそれはできぬ。この者と一緒に戻れと、都督から言われているのだ。・・・・できれば人目につかぬところで休ませてからこの者を連れて戻りたい」
徐盛がそうまでいうのなら、ということで太史慈は自分の天幕のひとつに案内した。
「ここは武器庫として使っている陣舎だ。人は来ぬゆえ、ゆっくり休まれるが良い。火が必要ならばそこに枯れ木と油がある」
「かたじけない」
「では・・」
太史慈は去り際に徐盛が抱えている人らしきものに目をやった。
(なにか、事情があるのであろう・・・詮索はすまい)
火を起こし、その前に周瑜を寝かせる。
なんとか夜明け前には周瑜の陣舎に戻らねばならぬ。
「・・・さ・・寒い・・」
周瑜の口から漏れた言葉。
顔面は蒼白で、唇は紫色になっていた。
周瑜の黒髪はまだ乾いていない。自分の肩布に包まってはいるがその中の女ものの下帯はまだ濡れているはずだ。
「・・・・・・」
武器庫といったが、この天幕には他にいろいろな物資が置いてあった。
その中のひとつに防寒用の毛皮を見つけた。
それを取り出すと、やにわに自分の甲冑を脱ぎ出した。
「・・・失礼つかまつる」
徐盛は周瑜の包まっている布を取り、着ていた下衣を脱がせ、肌をあらわにし自分の腕に抱いた。
周瑜の裸身を毛皮でくるみ、自分の懐にすっぽり納める。そのうえから自分と周瑜を肩布で纏い、周瑜を暖める。
こういう事情とはいえ、意識のない裸の周瑜を抱いていることに罪悪感をおぼえた。
周瑜に付き従ってきたこの10年、影のように護ってきた。
自分を傍に置くのは周瑜の秘密を知っているから、ということだけではないことも知っていた。
「文嚮・・・・」
ふいに名を呼ばれ我に返る。
「気が付かれましたか・・・」
「すまない。おまえの手を煩わせてばかりだな・・・」
腕の中の周瑜が気づき、この状況を受け入れられなかったらいかようにも処罰を受けるつもりであった。
炎に照らし出された周瑜の顔にほんのりと赤みが戻ってきていた。
「申し訳ありません。あまりに体が冷え切っておりましたのでこのようにさせていただきました」
「ああ・・いいんだよ、そんなこと。おかげで暖かくなってきた・・・文嚮、もっと強く抱いておくれ」
そう言って周瑜は徐盛の胸にすがりつくように体を寄せてきた。
徐盛はぎゅっと目を閉じて周瑜を抱き締める手に力をこめた。
徐盛は孫策の生前から、背格好が孫策に良く似ている、と言われていた。
まだあのころは一卒伯であったし、孫策、周瑜と個人的に話しをするような身分では到底無かった。
だが、周瑜が倒れたあの日以来、何かにつけ周瑜が自分の背に向かって
「まるで伯符さまがそこにいらっしゃるようだ」
と言った。
孫策が亡くなってからはそのようなことは一度たりとも口にしなかったが、周瑜がいまだに自分に孫策の面影を求めている事はわかっていた。
無意識であっても、徐盛はそれで良かった。
この人をお守りしたい、それだけが彼の望みであった。
「文嚮どの」
沈黙と追憶を破ったのは太史慈の声であった。
徐盛は腕の中の周瑜を懐深く隠した。
声を掛けて入ってきた太史慈の手には酒瓶があった。
太史慈は徐盛の様子に少し躊躇した。
布に包まって顔は見えないが、抱いているのはどうやら女らしい、というのがわかったからだ。
だが思いきって話しかけた。
「これを。体を暖めるには一番だ」といって酒瓶を差し出した。
「ああ、これはかたじけない」
それを片手で受け取る。
太史慈はその様子をじっと見ていた。
「・・・なにか?」徐盛は用心深くそれを指摘した。
「いや。間者というからてっきり男だと思っていたので」
「・・・・・・」
「ああ、すまぬ。いらぬ詮索だったな。発てるようならいつでも行くと良い」
「子義」
出て行こうとしていた太史慈を呼びとめたのは徐盛ではなかった。
一番驚いていたのは徐盛だったが。
「?」
振り向いた太史慈は誰に呼ばれたのかわからなかった。
顔を見せぬまま、声は続けた。
「馬を用意してほしい」
「・・・・?一体・・誰だ?」
徐盛は腕の中の人物に囁いた。
「・・・よろしいのですか」
「仕方がない。今すぐ戻らねばならんが、私はまだ歩けない。おまえ一人では無理だ」
「・・・・・何を言っておられる?」怪訝そうな顔をして太史慈はきいた。
「私だ」
周瑜は徐盛の懐からそっと顔を出した。
「・・・・・!まさか・・・都督・・・いや、そんな馬鹿な!」
太史慈は信じられない、といった心持だった。
「子義どの、都督は一計あって敵の手中に赴かれていたのだ」
「・・・・・」
太史慈は周瑜の顔を見た。
髪を下ろしているが、まちがいなく周瑜であることはわかる。だが、納得はできなかった。
「・・・・なんという無茶をなさる。あなたは都督なのですぞ」
太史慈は徐盛の腕の中にある周瑜を見て言った。
この人はこんなにも線が細かっただろうか。自分が女と思ったほどに。
「わかっているよ、子義。だが危険を犯しても行った甲斐があった。文嚮、そこの竹筒を取ってくれ」
太史慈は脱ぎ捨てられた衣服の中に竹筒があるのを見た。
「これでしょうか」
拾い上げて、周瑜に手渡す。
その白い腕に、一瞬ドキリ、とする。
徐盛はそれを見て、周瑜の体を隠すようにさらに包み込んだ。
太史慈はそんな自分の心内を徐盛に見透かされたようで、自分を恥じた。
「・・・馬を調達してまいります。しばしお待ちを」太史慈はそう言い残すとさっさと出て行った。
周瑜は布を体に巻きつけたまま徐盛から離れて座り、竹筒の中身を検めた。
竹筒は密封されていたため、幸い中に水は入っていなかった。
書状が1通と、布きれが一枚入っていた。
「・・・?」
布きれには「蒋幹説客」、とだけ書かれてあった。
おそらくホウ統が自分の着衣の一部を切り取って、急ぎ書きつけたものであろう。
「蒋幹・・・・・?はて、どこかで聞いたような」
思案している周瑜に、鎧を装着しおわった徐盛が声をかけた。
「濡れた衣服は捨て置かれた方がよいでしょう。そのままで私がお連れします」
「すまない。頼む」
竹筒をもとに戻し、懐にいれる。
しばらくして太史慈が馬を2頭引いて戻ってきた。
そのうちの1頭に徐盛が手綱を引き、周瑜をその前に乗せる。
「僭越ながら私が先導いたしましょう」
太史慈は自らもう1頭にまたがった。
「どのような理由にせよ、わが都督をお守りするのは呉軍にいるものの務めでござる」
そう言って、先に駆けた。