「まったく見事ですな!さすがは孔明どの」
魯粛は感嘆の声をあげた。
昨夜、孔明の仕掛けた船が一名の死者も出さずに戻ってきたのであった。
20隻の船に立てかけてあった藁の壁には数え切れないほどの弓矢が突き刺さっていた。
「まあ、半分は火で焼けてしまっているでしょうけど、無いよりはましでしょう」
孔明はいささか満足していたようであった。
「それにこれに懲りて次回の戦では迂闊に弓を射ってこないでしょうから」
魯粛は孔明の底知れない神算に平伏するのみの気持ちであった。
その報告をするのに、3日ぶりに周瑜の陣営に戻ってみると、相変わらず周瑜は寝台にいた。
「お加減はいかがですか?・・・・・・・」
孔明がたずねると、周瑜は半身を起こして微笑んだ。
「ええ、だいぶ良くなりました」
孔明は3日前より顔色が優れないのを見抜いた。
「公瑾どの、見事10万の矢を手に入れましたぞ。いや、まったくすばらしい」
魯粛は少し興奮気味に言った。
「それはそれは。一体どんな手を使われたのですか?」
魯粛がそれについて、嬉々として説明する。
それを横目で見ながら、孔明はしばらく考えていた。
しばらくして、孔明は矢を抜き取る作業を見てきて欲しい、といって魯粛に周瑜の天幕を辞去させた。
天幕の中は周瑜と孔明、二人きりになった。
「・・・・私を追い払っていた間、どちらに行かれていたのです?」
孔明は唐突に切り出した。
「何をおっしゃっているのです。私が倒れた事はあなたもご存知でしょう」
「・・・・・あれはあなたが一芝居うったのですね。さっきわかりました。あなたはどこかで私の作戦を見ていたのでしょう。だが具合がわるいのは本当でしょう?そんな顔色をして」
「あなたの考え過ぎですよ」
「決戦を前にどうしてこんな無茶をなさるんです。あなたのまわりにはあなたを心配するものはいないのですか」
孔明は怒って言った。
「私があなたの側近なら殴ってでも止めますがね」
孔明はわざと聞こえるように大声を出した。
周瑜の天幕の外には徐盛が控えているはずだった。
周瑜は苦笑して、孔明を諌めた。
「そう興奮なさらないでください。それより、劉軍はどこに兵を配置するおつもりなのですか」
急に、真面目に周瑜が作戦の話しをふったので、それきりこの話題は途絶えてしまった。
「都督、呂蒙です。頼まれていたものができました」
「ああ、待っていたよ。お入り」
呂蒙は書状を持って入ってきた。それを周瑜に手渡す。
孔明はいぶかしげにその様子を見ていた。
「完璧だ。いいだろう、よくやったと言っておいてくれ」
「はい」
「あとは・・・・わかっているね?」
「はい」
意味ありげに周瑜は呂蒙に目配せをした。
呂蒙が出て行った後、孔明は言った。
「何か実行される策があるようですね。」
「ええ。まあ、見ていてください。そのうち動きますよ。向こう側から」
「そうだ、あなたに報告することがあります。夕べの船団のことですが・・・兵の報告を聞いたところ、やはり敵は矢を、それも火矢を射ってきました。風のこともありますが、至近距離では弓勢が強ければ届いてしまいます。敵の船に有効な火計を仕掛けるとなると、その距離に入り込まねばなりません。それまで敵が攻撃を仕掛けてこなければ良いのですが、そうはいかないでしょう」
「・・・・・・そうですね」
孔明には周瑜がうわのそらで返事をしたように思えた。
「都督、都督にお会いしたいという者が来ております。子翼が来た、と伝えてくれと言われましたが・・・いかがいたしましょうか」
「子翼・・・・蒋幹、子翼か、ああ思い出した。よい、通せ」
「・・・・こちらにお通ししてよろしいのですか?」
「ああ、構わない」
周瑜はそう言って兵を返した。
孔明は周瑜の傍によって話しかけた。
「あなたが待っていたのは、このことですか?蒋幹子翼とはどなたです?」
「昔なじみです。廬江にいたとき知り合ったのです」
「・・・・・その昔なじみがこの時期に訪ねてくるとはね。この天幕に呼ぶのは不用心ではありませんか」
「そうですか?」
「そうですよ」孔明はぶすっとして言った。
「では、私も船の方を見て参ります。また後ほど」
孔明は周瑜の天幕を出て離れたところで、向こうから兵が粗末な身なりの男を案内してくるのを見ていた。
どのような男か、興味があったのである。
無位無官、といった風に装っているが、顔は笑っていた。
「ふん、大した奴ではなさそうだ。あれでは公瑾どのの興味は引けぬだろう」
そうつぶやいてそそくさと行ってしまった。
「おお、周郎どの。おひさしぶりですな。私のことはご記憶でございますかな?」
蒋幹は天幕に入ってくるなり少し大げさに挨拶をした。
周瑜はすでに寝台にはいなかった。
「もちろんです蒋子翼どの。久方ぶりですね。名前をきいて驚きました。急にどうなされたのです?」
「長沙の方に用事があって参ろうとしていたところへ、あの曹操の軍に周郎どのの孫軍が勝利したときいたものでいてもたってもいられずお祝いにやって参ったのです」
蒋幹はとんがった前歯をみせながら言った。
「いやいや、まだ前哨戦に勝ったにすぎません。お祝いなどとんでもありません」
蒋幹は周瑜の前に立って、改めて周瑜を見た。
「いや公謹どのは相変わらずお美しい。昔と変わっておりませぬな」
「子翼どのは変わられましたね。曹操の説客を務めるとは」
蒋幹はぎくり、としたが平然を装った。
「何とおっしゃる。私はただ公謹どのの噂をきいて懐かしくて立ち寄ったものにすぎぬ。それを曹軍の間者と言われるとはあなたらしくもない。やはり曹軍と対峙して多少気持ちが不安になられておられるようですな」
「これは失礼。しかしこのような時期に来られる者に警戒心をもつのは当然でしょう」
「おっしゃるとおりです。ただ、私は公謹どのと昔語りを楽しみたい、と思っただけです。お疑いとあらばこのまま消えると致しましょう」
そう言って蒋幹は入ってきた方向に体を向けた。
「お待ちください。申し訳なかった。あなたを試すような事を言ったことを許されたい。酒を用意させますゆえ、どうか一時某の相手をしていただけますか」
「おお、いいとも。久方ぶりに故郷の話でもしようではないですか」
やがて日が暮れた。
酒が入り、いつになく二人は饒舌になっていた。
「それにしても、曹軍は大勢だ。勝算はあるのですか?」
「ええ。秘中の秘策があります。それはあなたにもお教えできませんよ」
「ほう・・・・」
蒋幹は周瑜を説得するという作戦を変更し、周瑜の作戦を知りその情報を持ち帰ることで曹操への言い訳にしようと考えた。
「では、水上戦での必勝策というのは何です?」
「そうですね・・・・常識として、ですが船を固定することでしょうね。一隻だと揺れて戦いにくい。だから船と船をつなぎ合わせて一枚にするのです。鉄鎖でつないで固定し、渡し板をかけるのです。そうすれば揺れないし隣の船へも自由に行き来ができるでしょう?」
「なるほど。それは水戦では常識なのですかな?」
「水軍を指揮するものであれば指示するのが当然です」
「ほう・・・・・」
蒋幹はそんな策は蔡瑁、張允からは全くきいたことが無かった。
もしや、という考えが頭を擡げた。
そうこうしているうちに周瑜はうとうととし始めた。
「すみません・・・少し酔ったようで・・・・」
そう言って周瑜は蒋幹の肩に倒れかかってきた。
「公謹どの?大丈夫ですか・・・?」
「・・・・・」
返事のかわりに寝息が聞こえた。
蒋幹は周瑜を床に横たえた。
そして自分はそっと立ち上がると、寝ている周瑜を気にしながら机の上を物色しはじめた。
「む・・・これは!」
蒋幹が手にしたのは手紙だった。
文末に差出人の署名があった。瑁、允と。
周瑜の自信はこれだったのか。蔡瑁と張允が周瑜に内通している。
それにそこにかいてある字を蒋幹は以前に見たことがあった。確かに蔡瑁の筆跡である。
(これをもって帰れば大手柄だ。しかしこの手紙がなくなっていることを周瑜に知られるのはまずい・・・説得に応じないとなればいっそのこと周瑜をここで始末していくか)
蒋幹はそう思い直し、周瑜のそばに忍び寄った。
懐には匕首を忍ばせていた。
「・・・・・・」
美しい寝顔に思わず見とれてしまい、罪悪感でいっぱいになって寝首をかくことができそうになかった。
「くそ・・・・」おのれの意気地のなさが歯がゆかった。
蒋幹はふと、灯籠に目を留めた。
「だれか!だれか来てくれ」
叫んだのは蒋幹だった。
「なにごとだ!?」
「都督の天幕から火が!」
「中にまだ公謹どのがおられるのだ」先に天幕の外に出た蒋幹が騒ぎ立てていた。
「なんだと!!?」
呂蒙や将兵たちがあわてて周瑜の天幕に入っていく。
天幕の中は煙が立ちこめていた。
「うっ」
中に入ろうとしたが思わず呂蒙はむせた。
「都督!!」
「呂子明どの、都督は無事です」
天幕の外から徐盛が声をかけた。
呂蒙が振り向くと、徐盛は意識のない周瑜を助け出し、地面に降ろして介抱しているところだった。
蒋幹もそれに気づき、いつの間に、と思った。
(もしや私が火をつけたことを・・・・?)と危惧した。
兵たちが江の水を汲み上げ、なんとか火は消し止められた。
だが天幕の半分ほどが燃えてしまっていた。
蒋幹は周瑜をたすけた武将を横目で気にしながら、怒号をあびせる呂蒙に言い訳をしていた。
「申し訳ない。周公瑾どのも私も酔ってしまってよく覚えていないのです。気がついたら火が出ていて自分が逃げ出すのがせいいっぱいだったのです」
この言い訳にはさすがに呂蒙も怒りを隠せなかった。
「都督はあなたを歓待しようとなさって天幕に招いたのになんという言い草だ!本来なら斬って捨てるところだが都督の顔に免じて命だけは助けてやる。即刻立ち去られよ」
大声で怒鳴られて蒋幹はすっかり恐縮してしまい、そのまま姿を消した。
もちろん、懐にはあの手紙が握られていた。
「都督、あれでよかったのですね」
呂蒙は周瑜を振り向いて言った。
徐盛の手をかりて立ち上がった周瑜は酔ってはいなかった。
「ああ、上出来だ」
蒋幹が持ち去った手紙は当然周瑜が用意した偽のものだ。ホウ統から受け取った書状は筆跡を確認するために蔡瑁の書いた物を持ち出したのだった。
「しかし、あの男も思いきったことをする。火をつけるとは・・」呂蒙は露骨に不快な顔をした。
「手紙を持っていったあと、どう始末をつけるのかと思っていたが、ね」
周瑜は苦笑いをした。
騒ぎを聞きつけた孔明が駆けつけてきた。
「公瑾どの、この騒ぎは一体どうされたのです」
「すみません、お騒がせしてしまいましたね。不注意で灯籠を倒してしまったのです。ごらんのとおり天幕が半分焼けてしまいました」
「・・・・・あなたはご無事でしたか」
「ええ」
「良かった。・・だから言ったのに。しかしこれではもうここで寝ることはできませんね。私の幕舎にいらっしゃいませんか」
「せっかくですがもうかわりの天幕を用意させていますから大丈夫です」
「それは残念」孔明の言い方は本当に言葉通りに聞こえた。