無駄に弓矢を浪費したことについて、曹操は怒っていた。
于禁をはじめ、これにあたった武将たちは平謝りであった。
しかし曹操の怒りの原因はこればかりではなく、ここのところ、烏林近くで何度か小競り合いがあり、ことごとく負けていることに起因していた。
「全く、我が軍には水上戦に巧みな者が一人もおらぬと見える」
そうつぶやいた後、曹操の脳裏に周瑜公瑾の名が浮かび上がる。
こうなったらなんとしてでも奴が欲しい。
人材蒐集家の曹操としては今一番欲しい人物の筆頭にその名が刻まれている。
それに絶世の美男という話しも興味をそそった。
そこへ、蒋幹が戻ったという知らせが届いた。
曹操は部屋に蒋幹を呼んだ。
人払いをお願いしたい、というので、荀攸、程イク以外の側近を下がらせた。
蒋幹は周瑜の天幕から持ってきた手紙を曹操に渡した。
「これは・・・・・」
手紙は孫権にあてて、曹操の首を献じる、ご覧じろ、という内容のもので最後に蔡瑁、張允の署名があった。
「・・・・・罠ではないのか」
荀攸は言った。
「その可能性もあるな」程イクも賛同する。
蒋幹はちょっとむっとした。
そして周瑜に教えられた、船を鉄鎖でつなぐ、という作戦のことを申し立てた。
水戦の知識に乏しい曹操はホウ統を呼んで意見を聞くことにした。
蒋幹が説明をすると、ホウ統は頷いて言った。
「それは周瑜の言うとおりです。船を縦横につなぎ、巨大な要塞とするのです。そうすれば船酔いで苦しんでいる北の兵たちも楽に戦えましょう」
そこへ程イクが口を挟む。
「しかし、それでは小回りがきかぬうえ、火でもかけられたら身動きがとれなくなるぞ」
「それはまずありません。このあたりでは風は北西にしか吹きません。呉軍が火矢を射ようものなら自分の船を焼いてしまいますよ。敵の都督はそんなことがわからぬような素人ではないでしょう」
「ふむ。それもそうだ」荀攸が頷いた。
蒋幹がそらみろ、と得意そうな顔になった。
「丞相、蔡瑁がなぜその策を上申しなかったのかを問いただしてみられたらいかがですか」
荀攸が言った。
「うむ・・・・」
水軍都督の蔡瑁が周瑜と通じているのであれば、ここのところ負け続きの戦もなんとなく頷ける。
曹操が思い悩んでいる様をみて、程イクは進言した。
「疑わしくは斬る、ということにすればよろしい。仮に蔡瑁・張允が周瑜に通じていたとして、斬られたことを知って周瑜は動揺するでしょう」
荀攸がそのあとを引き継いで提案した。
「万一そうでなくても、疑われて斬られた蔡瑁・張允の身内を間者として送り込むのです。それならば周瑜も信用するでしょう。周瑜の仕掛けた策を逆用するのです」
「なるほど。まことに名案だな」曹操はぽん、と手を叩いた。「すぐに蔡瑁を呼べ」
周瑜の策に乗せられたとも知らず、蔡瑁・張允は裏切り者として斬られた。
「蒋子翼よ。なんとかして周瑜を連れて参れ。褒美はおもいのままぞ」
曹操はそう言うが、周瑜の天幕を焼いて追い出されてきたことを思うと、それはなかなかに難しいことであった。
蒋幹は首を横に振って、
「ここへ連れてくることはまず無理でしょう。周瑜のまわりには常に人がおり、連れ出すこと自体が難しいのです」と言った。
「おぬしの舌を持ってしても周瑜を説得できなんだか。まあ、そのくらいでなくては価値がないというものだ」
曹操はどういうわけか機嫌良く笑って言った。
蒋幹はそれを不信に思った。なびかぬなら、殺してしまえ、ということになると思っていたからだ。
それほど、周瑜という人物が欲しくなったのであろうか。
「ここへ連れてくるのは無理でも、どこかに誘い出すことはできるであろう。ひとつ、策がある」
「は・・・・」
「公謹どの、少しよろしいでしょうか」
替えの天幕にいた周瑜の元を訪れたのは老将・黄蓋であった。
黄蓋、字を公覆という、彼は孫策や孫権の父の代からの忠臣であり歴戦の名将でもある。
程普らと違うのは彼があくまで実戦を主とする武将であったため、年齢や身分にとらわれることがない点だった。
「このままでは長期戦になり、いくら曹軍に疫病が流行っているとはいえ数に勝る曹軍に対して持ちこたえることができません。公謹どののお考えをお聞かせ願えますか」
周瑜は黄蓋に対し、孔明の言ったとおり、確実に火計を成功させるために、敵の懐に入り込むことが肝要だ、と言った。
「では、公謹どの。某は敵に投降しようと思います。お留めになっても無駄ですぞ」
「・・・・公覆どの。そのような役を自らかって出てくださるといわれるのですか」
「もちろんです。某はこれでも破虜さまの代から仕える古将でございますれば、いささか知名度もあると自負しております。投降すると言えば曹操も信じましょう」
「・・・・・ありがたいお申し出です。実はそこが一番の思案どころでした」
そこへ、伝令が入ってきた。
曹操軍から投降してきた者がいる、という。
蔡中・張政といって、先日、間者と疑われて斬られた蔡瑁・張允の身内であるという。
彼らは身内の罪をまとめて取らされることに恐れ、脱出してきたのだという。
蔡瑁・張允が斬られたことを知ると周瑜は曹操の決断力の早さに驚かされた。そしてそのあとにつづくある可能性を考えていた。
それがこれだ。
投降してきた者はおそらく間者であろう。
黄蓋もそれは同じ考えであるらしかった。
「公覆どの、ちょうど観客が到着したようですから、ひとつ芝居を打ちましょう」
そう言って、周瑜は黄蓋に自分の策をうち明けた。
黄蓋は喜んでそれにのり、ひとつ注文をつけた。
「やるからには遠慮はいりませんぞ。同情を引くぐらいのことはしなければなりませんからな」
「ええ」
「都督、また蒋幹が現れました」
呂蒙が報告にきた。
周瑜は意外な顔をした。もう現れないと思っていたからだ。
「大切な用件があるから、是非都督お一人ににお会いしたい、と」
「よい、通せ」
「危険ではありませんか」
「ではおまえは天幕の外でまっていてくれ」
やってきた蒋幹は先日の非礼をひたすらに謝り、謝罪に来た旨を伝えた。
「子翼どの。ふたたび私の前に現れたのは曹操にこの周瑜公瑾の首を取ってこいとでも言われましたか。それに、私の天幕から手紙を盗んでいったでしょう。あなたのせいで私の計画は台無しだ!」
周瑜は穏やかに話し出したが途中で激昂して言った。
「はっはあ・・・ばれてしまっては仕方がありませんね。そのとおりです。私は今曹軍に仕えております」
蒋幹は開き直って言った。
「曹丞相はあなたを欲していらっしゃる。どのような望みでも叶えるとおっしゃっておられます」
「何を馬鹿なことを!私の望みは曹操の首級をあげることだ!」
「本気で勝てるとお思いか?公謹どの」
「もちろんだ」
「あなたは勝てない。その証拠をこれからお見せしましょう」
「なんだと!?」
「私についていらっしゃい」
「おや。あれは公瑾どのの番犬ではないか・・・客でも来ているのだろうか」
孔明は周瑜の天幕まで来て、呂蒙が外に待機しているのをみてつぶやいた。
見ていると中から例のあの男−蒋幹といったか−と周瑜が出てきた。
そのままどこかに行くらしい。二人の後に呂蒙が続く。
「・・・?」
孔明はなんとはなしに気になったのでこっそり後を付けていくことにした。
そこで孔明は意外なものを見ることになった。