烏林に近い、呉軍の駐屯している鼻先で、周瑜たちを待っていたのは数騎の魏軍であった。
周瑜はあっと声をあげた。
なぜこんなところにまで敵が入り込んでいるのか。
周瑜は蒋幹を睨みつけた。
「おまえが周瑜か」
林の中から現れた騎馬の一団の先頭の騎馬兵が口をきく。
その物言いにきっとなって周瑜は答えた。
「人を指すよりまず自分から名乗ったらどうだ!」
周瑜は言った。
「ふむ、手厳しいな。儂か・・・・儂は」
笑いながら兜を取る。
「曹操、孟徳だ」
「な・・・・・に・・・?まさか・・・そのようなことが・・」周瑜は我が耳を疑った。
敵の総大将が、よもやこんなところに数騎の供しか連れず現れるとは。
無意識に周瑜は腰の剣に手をのばそうとした。
「動くな!林の中の伏兵の矢がおぬしを狙っておるぞ」
蒋幹が周瑜に一括した。
「おのれ蒋幹!そのようなハッタリを信ずると思うか!」
呂蒙は咄嗟に周瑜の前にでて庇うように立った。
「ここは俺にお任せを。この程度の敵ならば蹴散らせます」
「おぬしにどうしても会いたくてな、隠密にここへ参ったのだ」
曹操はそう言って馬を前進させた。
「周瑜よ。孫権はおまえの主としてふさわしい男か?」
曹操のうしろについていた騎兵がさっと横に出て、呂蒙の前にきた。
呂蒙は構えたがその隙に蒋幹は周瑜の腕を取り、曹操の前に引き出した。
別の騎兵が下馬し周瑜の後ろにまわりその腕を後ろ手に抑えた。
「何をする!?」
曹操は馬上から手を伸ばし、周瑜の顎を捕らえた。
「ふむ。噂にたがわず美しい。男にしておくのはもったいないな」
周瑜はその手を振り切った。「無礼な!」
「儂のものになれ、周瑜。おまえが欲しい」
「だれが!戯言を申すな!」
周瑜が掴みかかろうとしたとき、後ろにまわっていた兵が周瑜を羽交い締めにした。
「・・・・・?!」
周瑜は鎧をつけていなかった。
その兵は徐晃だった。抱きしめた感触が明らかに違うことに気づいた。
「まさか、おぬし女、か・・・?」
「なに?」曹操は徐晃の言葉を聞き逃さなかった。
徐晃がひるんだ隙に周瑜は肘を徐晃の鳩尾に強く打ち込んだ。
徐晃がもんどりうって倒れると、事態は変わった。
林の中から後を追ってきた徐盛が飛び出してきた。
呂蒙が剣を抜き、蒋幹を斬って周瑜の元に駆けつける。
周瑜も剣を抜いて曹操に踊りかかった。
魏の騎兵が周瑜と呂蒙を取り囲もうとしたとき、林の奥で声がした。
「魏軍が入り込んでいるぞ!ここだ!援軍を呼んで来い!」
「ちっ、邪魔が入ったか。仕方が無い。今日はおぬしの顔を見れただけで良しとしよう。さらばだ」
曹操の騎馬は林の奥に消えて行った。
倒れた徐晃は仲間に助け起こされ騎乗してそのあとを追った。
「後を追います!いくぞ文嚮!」
呂蒙と徐盛は曹操の後を追って駆け出した。
それを見送って、周瑜は後ろを振り返った。
「孔明どの。今回は礼を言う」
木の陰から孔明が現れた。先ほどの声の主は彼であった。
「いいえ、礼など。面白いものを見せてもらいましたから」
孔明は周瑜の前まで来て、斬られた蒋幹を見下ろした。
「このような男にのせられるとはあなたらしくない」
「・・・・・なにかあるとは思いましたがよもや曹操自身が乗りこんできているとは思いませんでした」
「よほどあなたが欲しかったのでしょう。自ら説得にくるほどに。しかし、あなたの秘密がばれてしまったかもしれませんよ」
「・・・・別にどうという事はありません」
「・・・そうかもしれませんね。曹操にとって女とは自分を楽しませるための道具であって、あなたのような存在がいることすら信じられないことでしょう」
「・・・・孔明どの。あなたはなぜ私をそんなに女扱いなさるのです」
「おや、気に入りませんか」
「当たり前でしょう」
「それにしてもあなたが曹操になびかないで良かった。恋敵がこれ以上増えるのは嫌ですからね」孔明は手を口元にあてて笑った。
「くだらないことを」周瑜は吐き捨てるように言った。
「私の気持ちをわかってはくださらないのですね」
「はっきり言いましょうか、孔明どの。私はあなたが嫌いなんです」
「・・・わかっていますよ。公瑾どの。だが嫌われれば嫌われるほどあなたの中で私は生きるというもの。悲観はしておりません」
孔明はにこにこして周瑜を見つめて言った。
さすがの周瑜もこれには辟易としてため息をついた。
その後、呂蒙と徐盛が戻ってきたが結局追いつけなかった旨報告した。
「で、徐公明よ、周瑜が女だったというのはまことか」
船に戻った曹操はあばらを折って手当てを受けた後の徐晃を見舞った。
「はい。確証はありませんが、あれは男の体とは思えませんでした。その、乳房の感触がありまして、つい油断してしまい申し訳ありません」
「良い。しかし仮にも呉軍の大都督であるぞ。何かの間違いではないのか」
「はい、そうなのですが・・・・」
「女にあれだけの仕事はできぬよ。女はそういうものではない。まあ、よい。周瑜を捕らえて調べて見れば良いことだ。それでもし本当に女であればあれだけの美貌だ、儂の側室の一人に加えても良い。いやしかしあの智謀の主をのう・・・」
「丞相、丞相、まだ捕らえてもおらぬ先からあまり先走るのはどうかと思います」徐晃は苦笑して言った。
「蒋幹めはうまく始末できたな。あの男は自分で言うほど役にはたたん奴であった」
「徐公明よ、おぬしはその体だ。江陵に残り後攻めを任すことにする」
「は、まことに申し訳ありません」
と、そこへ荀攸が来て、蔡・張から書状が届いたと報告した。
その中身は、周瑜と黄蓋が不仲だ、ということであった。
周瑜の棒罰を受けて黄蓋は重傷を負ったのだという。
「ふむ」
曹操はこの日、周瑜に会って、戦の最中に敵の大都督である周瑜をどのようにして生け捕るか、ということばかり考えていた。
はっきりいって蔡中らのことなど二の次であった。
「よい、蔡中らに黄蓋に近づき、寝返るよう説得させよ。おお、そうだ。黄蓋を使えば周瑜を生け捕ることも簡単ではないか」
曹操の中ではすでに策が出来上がっていた。