(9)拉致





「私をあなたの蒙衝に乗せてくれませんか」
孔明は唐突に言った。
「・・・・・いいですよ。でも危険なことには変わりはありませんが」
周瑜はいぶかしげに言った。

孔明は今夜の空を見て、決行は明日の夜だ、と言いにきたのだ。
孔明は星を読む。

夕べ、黄蓋の密書を持たせたカン沢が戻ってきていた。
先鋒を黄蓋の部隊に任せる事は決まっている。
あとはいつ決行するか、ということだけだった。

周瑜にはわからなかった。
孔明をひきとめ、あるいは暗殺する、という計画はずっと周瑜の中にあった。
孔明もそれに気づいている以上、早く孫軍から逃げ出したいはずなのだ。
なのに、なぜ、周瑜の船に乗りたい、などと言うのだろう。

「戦を最後まできちんと確認をしないと戻れませんから」
と言った。それが理由だという。
周瑜は突然立ち上がった。
「どうしました?」
「気分が悪いのです。少し風にあたってきます」
「・・・・・・」


はじめて会った曹操は力に溢れていた。
曹操のカリスマに周瑜は充てられてしまっていたのだ。
「・・・伯符さまさえ生きておいでであれば・・・」
知らず知らずのうちに口にしてしまう名前。
似ている、と思った。
あの輝き、傲慢なほどの強さ。
惹かれているのかもしれない、とひそかに思った。
孫権に不満はない。むしろ自分を頼り、一切を任せてくれる度量には敬服しているといってよい。
だが、自分が本当に求めているものを、孫権では与えてはくれないことはわかっているのだ。
周瑜は首を振ってその考えを否定しようとした。
「伯符さまの領土を明渡すわけにはいかぬ」
周瑜は自分に言い聞かせるように呟いた。

明日。
勝敗は明日決する。
勝つための策は施した。負けるとは思っていない。
だが、

(孫権はおまえの主としてふさわしい男か?)

曹操の言葉は周瑜の胸に突き刺さったままだ。

(いけない、こんな気持ちでは負けてしまう)
周瑜は自分を叱咤した。そして陣舎にもどり、明日の決行を皆に伝えるべく、動き出した。



その日は、霧の濃い朝だった。
ホウ統の言ったとおり、午後になると快晴になった。
先鋒を務める黄蓋につづく甘寧の船には蔡中らが乗りこむことになった。
そして、夜ー。

「さ、いよいよですね。うまく行くと良いですが」
孔明は周瑜の傍に立って、黄蓋隊が出立していくのを見送った。
「うまくいきますよ。この船も黄蓋の火計が成功すれば出動します。今のうちに後続の船に移られたらいかがですか」
「いいえ。あなたお一人を危険にさらすなんてとてもとても」
「・・・・・・」
何を考えているのか、わからない。



最初に異変に気づいたのは、荀攸であった。
「風が・・・・・むっ・・・・巽の方角に吹き始めているのか・・?」
黄蓋の船が近づいてくる。
味方は裏切ると信用しているのでまったく攻撃を仕掛けていない。
しかし一人だけ、それが偽りであると、この後に及んで気づいた者がいた。
程イクである。
「止めろ、あの船を!あれは偽りだ。近づけてはならん!」

しかし、すでに遅かった。
枯草や藁を船一杯に積んだ船は炎の塊となって曹操軍の船団につっこんでいった。
「矢を射よ!風は吹いた!目を瞑っていてもあたるぞ!どんどん射よ!」甘寧の声が響いた。
後続の甘寧の部隊が火矢をつづけざまに射る。
甘寧の船にのっていた蔡中・張政はあわてふためき、なにが起こったのか混乱していた。
「案内、ごくろうだったな。もう用はないぜ」
そう言って、甘寧は一撃のもとに二人ともを斬り捨てた。
甘寧とはなかの悪い凌統の部隊は甘寧とは逆の方向に船を展開していた。
そして敵の軍艦に乗り移り、激しい戦となっていった。
曹操軍の船はあちこち火が燃え移り、燃える要塞となった。


「うまくいきましたね」
「ええ。曹操軍は混乱している。この機に乗じて一気に殲滅する」
周瑜は采配をふって、船団に合図を送った。
「さすがは大都督どの。しかしひとつだけ心配な点があるのですが」
「何?」孔明の意見に周瑜は眉をひそめた。
「こちらへ。きちんとご説明いたします」
孔明は周瑜の手を取って船室に入った。
「一体なんだというのです?」
孔明は周瑜にばれないように懐から劉備に持ってこさせた例の包みを取り出した。
「これです」

「はっ・・・・!」
振り向きざまに孔明は手にしたもので周瑜の口を塞いだ。
「む・・・・・・!」
周瑜は驚き、抵抗した。
しかし孔明によって手を抑えられ、そのまま気を失い、孔明の腕の中に倒れこんでしまった。

「すみませんね、こうでもしないとあなたは承知しないでしょう?」
孔明の持っていたものは名医、華佗の発明した麻酔薬を染み込ませた布であった。
劉備が持って来た時には固形薬の状態であった。

孔明は腕の中の周瑜を船室にあった絹織布ですっぽりと包んでしまった。



「おお!おのれ!黄蓋めが!」
曹操はいきり立っていた。
「丞相、ここはあぶのうございます。いったん船を捨て、烏林から江陵の隊に合流いたしましょう」
荀攸が進言した。
張遼が火矢を切り払いながら駆けつけて、曹操の前に膝をついた。
「私めがお守りいたしますゆえ、ここは一旦お引き下さい」
曹操は側近達に説得され、船から陸上に上がり、江陵をめざした。
「く・・・・周瑜め。やりおるわ」


「ここです!」
孔明は船から手を振った。
戦乱のさなか、一隻の船が大都督の船に近づいてきてもだれも気にも留めなかった。
「軍師どの、お迎えにあがりました」
「ご苦労さまです、趙子龍どの」
孔明は大きな布に包まれた周瑜を抱いて趙雲の船に乗り移った。
船に乗り移るとき、趙雲は孔明を手助けし、彼の抱いているものに一瞬触れた。
人のようである、と思った。
「軍師どの、それは・・・?」
「私の戦利品です」

周瑜の姿が見えないことに気づいた徐盛は、船室を探したが見つけられず船の後尾に向かった。
そこで、遠ざかって行く小船を見た。
孔明らしき人が乗っているのが見えた。その手になにか大きなものを抱いている。
「まさか・・・・・!」
徐盛は周瑜が孔明に連れ去られた、と直感した。
すぐに操舵兵に言って、船を反転し、後ろの船を追え、と命じた。


「気づかれたようです。子龍どの、船の速度を上げないと追いつかれます」
「大丈夫。某にお任せあれ」
趙雲はそう言うと、船の最後尾に立ち、弩を引き絞った。
趙雲の弓は徐盛の乗った船の帆綱を見事に断ち切った。
帆綱を切られた船は急に速度を落とし、孔明たちの乗った船との差は広がるばかりであった。
「お見事です、子龍どの」
孔明はそう言ってにっこりと微笑んだ。

「軍師どの、教えてくれませんか。その包みは一体なんなのです?」
趙雲は船の片隅に包みを置いている孔明に尋ねた。
孔明は包まれている顔の部分だけを広げて見せた。
「この方は・・・?」
趙雲は周瑜の顔を知らない。だから孔明は見せたのだ。
「呉で知り合って言い交わした女性です。連れかえって妻にしようと思っているのですよ」



(10)へ続く