孫軍が江陵に兵を残し、三千の兵が甘寧に率いられて夷陵に出立したことを、曹軍の間諜が嗅ぎつけていた。
これを知った南郡城の曹仁は夷陵に急ぎ使いを出して知らせた。
夷陵にいた牛金は一計を案じ、甘寧の隊を誘い出す罠をかけることにした。
牛金は周瑜のところへ来て、孫軍が攻めてくることを話し、自分たちは城の外に出て包囲策を取ることを告げた。
孫軍が近くにいることを知って、周瑜は気を取りなおした。
そして、なんとかして孫軍と合流する方法を考えようと思った。
「おまえもつれていく」
牛金は周瑜にそう言った。
「いいえ。それでは足手まといになってしまいます。どうか私をここへお捨ておきください」
「しかし、それでは孫軍の兵どもにいいようにされてしまうぞ」
「構いません。それに私なぞをつれていってはあなたさまのお立場に関わりますでしょう」
牛金は名前も素性も明かさないこの女に心を打たれた。
「すまぬ・・・許せよ」
甘寧の率いる部隊は夷陵まで数里のところまで来ていた。
「おい、伝令。呂子明に言っとけ。あとをたのむってな。俺は精鋭を率いてこのまま突っ込む」
そう言うと、甘寧は自分の手下一千を連れて夷陵城に乗り込んだ。
「なんだ・・・・?」
旗や幟は立っているのだが、人のいる気配はない。
甘寧らはあまりにも簡単に城に入れてしまった。
「なんだなんだ、この城は。もぬけの殻ではないか!」と甘寧が言うと、
「大将、我らにおそれをなして逃げたのとちがいますか」と別の兵が笑って呼応した。
「・・・・・・」
不安を覚えながらもとにかく甘寧は兵たちに先んじて周瑜を探さねばならなかった。
城中の部屋を探してまわった。
そしてある一室に入ったとき。
「・・・・・?誰かいるのか・・?」
甘寧は乱暴に入ると、そこには背を向けた女が座していた。
「・・・・・・都督・・・?周、公瑾どの・・か?」
甘寧の問いかけに、少しだけ振り向いた。
「甘・・・興覇・・・・か?」
久しぶりに聞いた心地好い声に、甘寧は駆けよってその前に片膝をついた。
「都督・・・!よくぞご無事で・・・!」
周瑜はまだ甘寧が自分が女であることを知らないと思っていたから、その装束のまま振り向くのをためらっていた。
「そなたが大将として乗りこんできたのであったか」
「都督」
それを察してか甘寧は立ちあがり、周瑜の両肩に手をかけてこちらを向かせた。
周瑜は急に振り向かせられて驚いた顔をしていた。
「いいんですよ、俺の前では。もう隠さないで下さい・・・俺、知ってるんです。あなたが女だということを」
甘寧はこの上なく優しく言ったつもりだった。
「甘興覇・・・・・なぜそれを」
周瑜は意外そうな顔をした。
甘寧は意識して笑顔を作って見せた。
「呂子明から聞きました。まあ、前からうすうすは気づいていましたが・・・」
「・・・・そうか、子明が・・・」
「あなたをお救いするために参りました」
甘寧は周瑜の両肩を支えた手でもって目の前の人が女であると改めて認識した。
あまりにも華奢な肩であった。
この人を、抱きしめたい。
自分に正直な甘寧は正にそうするはずだった。
「都督!」
甘寧に続いて入ってきたのは同じく城中を巡っていた徐盛であった。
「ああ、文嚮・・・!おぬしも一緒だったか」
徐盛が入ってきて周瑜の前にひざまづいたので、周瑜はなんなく甘寧の腕を擦りぬけていってしまった。
せっかくのいいところをさらわれた形になった甘寧は再会を喜ぶ徐盛をじろりとねめつけた。
「某と共にここを出て、本隊に合流しましょう。江陵近くの本隊には未だ手付かずの二万の兵が残っております」
と徐盛は言った。
しかし周瑜は首を横に振って甘寧の方を見た。
「・・・・甘興覇。おぬしは罠にはめられたのだ。気づかぬか」
しばらくして、甘寧のもとに兵が飛び込んできた。
兵は甘寧の傍に女がいることを知って驚いたようだったが、かまわず報告した。
「大変です!城の周りに曹軍が出現しました!」
甘寧はこの報告を受け、周瑜の言ったとおり城が曹操軍に包囲されつつあることを知った。
甘寧は罠にはめられたことを知って舌打ちした。
「どうしましょうか、大将。糧食も予備がありません。やつら、城から食い物を全部引き上げてしまったようで・・このままだと3日で底をついてしまいます」
兵は心細そうに言った。
甘寧は背を向ける周瑜にちら、と目をやって、
「ふん。それが奴らのねらいだろう。食い物がなくなって志気の下がったところで一気に攻め込むつもりなんだ。・・・・とりあえず城には何が残ってるんだ?」
と兵に訊いた。
「酒なら・・・あります」
「よし。酒をもってこい。うだうだいってても仕方ねえ。とにかく外の部隊に伝令を出せ。そしたら城門をしっかり閉めとけよ。しばらくここにやっかいになるんだからな。食い物が無くなったらとりあえず馬を食うとしよう」
甘寧はそういってどっか、と腰を据えた。
「都督。その・・・衣裳を着替えられますか?」
「いや。それよりひとつ試したいことがある。城門の警備はたしか・・・・」
周瑜は甘寧に一つの提案をした。
城からの伝令は外の曹軍に捕まってことごとく斬られた。
「これでは救援を求める事もままならぬ」
甘寧はこの事態を脱却するべく、仕方なく周瑜の策を入れた。
「本当に、もうこれっきりにしてほしいですよ、こんなこと。この俺がついていながら、あなたにこんな真似をさせるなんて」
と始終ぶつぶつ文句を言っていた。
その甘寧を笑って諌めている周瑜の姿があった。
徐盛はそれへ鋭い眼光を送ったが甘寧はまったく意に介さないようだった。
夜営をしていた曹軍は赤々と灯をつけ、城からの奇襲攻撃に備えていた。
城門を警備していたのは牛金である。
「む」
と、見ると城の門の横の小さな扉が開いた。
「また伝令か。よし、行け」
扉から出てきたのは女を背負った男だった。男は鎧をつけていない。
牛金は不審に思い、斬らずに捕らえさせた。
捕らえて見ると果たしてそれは牛金の密かな願いどおり、背負われていたのは周瑜であった。
「貴様は孫軍の者だろう。その女をどこへ連れて行く?」
男は当然徐盛であった。
芝居ッ気たっぷりに、女に懇願されたから、と言った。そしてまた、兵たちに酷い扱いをされているのを見るに見かねたから、とも言った。
牛金は徐盛を斬ろうとした。
だが、これも芝居ッ気たっぷりの周瑜に哀願され、すっかり心を奪われていた牛金は徐盛を斬らずにそのまま城へ帰した。
「恐ろしゅうございました・・・もうこれで殺されてしまうのではないかと思いました。再びあなたさまに助けられてうれしゅうございます」
そう言って、周瑜は震える体を牛金に押しつけた。
牛金は兵たちの手前、周瑜に手を出す事はしなかったが、内心燃えるように心が熱くなっていてなんとかしてこの女を手に入れたい、と思っていた。しかしこの駐屯地にいたのでは気が気ではない。周瑜を馬に乗せ、兵3人を護衛につけ、とりあえず襄陽に向かわせることにした。
牛金は馬に何日か分の食料を積ませ、しばらく周瑜の手を握っていて離そうとしなかった。
周瑜は何度も丁寧に礼を言うと曹軍を後にした。
夷陵から北へ向かう道の途中、周瑜は具合が悪いといって馬を止めさせた。
馬に乗っているのは周瑜だけで、あとの護衛3人は歩兵であった。
そこで馬の手綱を強く握り、馬首を反転させた。
「わっ、な、何をする!」
護衛たちは驚いた。
そしてそのまま周瑜は馬の腹を蹴り、南へ駆け出した。
周瑜は丸腰であったため、追いつかれたら太刀打ちできない。
(甘興覇の話しだとこのままいけば子明の陣に当たるはず・・)
周瑜はますます馬を飛ばした。
ふと後ろを振り返ると、歩兵の護衛たちはみるみる小さくなっていく。
そうして周瑜はやっと脱出に成功したのである。
(15)へ続く