「江陵は堅固な城だ。三万の兵では難しい」
本陣での軍議での大方の見方はこうであった。
「・・・・先に襄陽を攻めたらいかがでしょうか」
そう進言したのは呂蒙であった。
周瑜は感心したように彼を見、そのあと一同を見回した。
「それは・・・良い考えだと思う。あそこなら、三万でも落とせる」
程普、韓当といった諸将らも一様にうなづく。
軍議は進路を北へ取る方向へと傾いていたそのときであった。
口令の兵が曹操軍の様子を報告しに入ってきた。
報告によると、曹仁軍から城を捨てて北上している兵の一団がある、というものだった。
すぐに甘寧、呂蒙は先遣隊を組織してその様子をうかがいに走った。
城外に出ていったのはどうやら曹洪の部隊らしい。
馬に食料を積んでいたところを見ると、北上して襄陽へ向かうつもりなのであろう、と推測された。
戻ってきてすぐに甘寧は自分が先鋒で撃って出ることを志願した。
同じく、夷陵攻めの際には留守番だった凌統も負けじと志願した。
周瑜・程普らもこれに賛同し、部隊を左右に展開させる策にそれぞれ甘寧・凌統を両翼に配置することにした。
ただ呂蒙だけが何か浮かない顔をしていた。
「どうした?子明」軍議のあと周瑜が声をかけた。
「・・・・・いえ。なんだか調子がよすぎるなと思って」
「・・・・・罠だ、というのか」
「可能性はあります」
「・・・・・」
周瑜はここへ来る前に趙雲に遭ったことを思い出していた。
ここでひいては、孔明の思うツボになる。
周瑜は無意識に唇を噛んだ。
呂蒙はその周瑜の癖を知っていた。
何か、気になっていることがあるのだ、と思った。
孫軍が城を攻めたとき、南郡の城門は開いていた。
不信に思いながらも、甘寧、凌統らは進軍していった。
城門をくぐったとき、先行していた兵の一部が落とし穴に馬ごと落ちた。
「しまった!やはり罠か!」
甘寧はすぐさま崩れかけた隊をまとめようと後退させた。
そのとき城壁の上から曹兵が雨のように弓矢を射かけてきた。
「かかったな!孫軍め!」
大声でどなったのは曹仁であった。
孫軍は大混乱になり、落馬するものや逃げまどう者が続出した。
「おのれ、やはり罠だったか!」
隊の中程にいた周瑜は帥旗を押し立てて城門の中にいる兵たちを救おうと進軍していった。
「お待ちください、都督!危険です!」
後詰めにいた呂蒙が叫ぶ。
「来たか、周瑜!」
牛金は周瑜を認め、城壁の上から弓をつがえた。
周瑜は声の方を仰ぎ見た。
「・・・・・・!?」
牛金は周瑜を見て驚いた。
「まさか、そんな!」
兜をかぶっていたがその顔には見覚えがあった。
たしかにあれは、つい先日自分の腕の中で震えていた女の顔ではなかったか。
牛金は矢をつがえたまま、射ることができなかった。
そんなはずはない。
あれは女だった。
そこにいるのはただ似ている男だ。
牛金はそう思いながらも、周瑜の白い顔を食い入るように見ていた。
「都督、あぶない!」
甘寧は城壁に向かって弓をひいた。
牛金はその矢をよけようとして、つがえていた矢を放ってしまった。
「あっ!」
周瑜は脇に鋭い痛みを感じた。
「くぅ・・っ」
甘寧も凌統もそして牛金もあっと声を出した。
矢は周瑜の脇腹に突き刺さっていた。
周瑜はそのまま落馬して倒れてしまった。
牛金はあっけにとられてその一部始終を見ていたが、
「良くやった!何をぼけっとしておる!早く周瑜を生け捕りにしろ!」
背後から曹仁の怒声を受け、はっと我に返った。
「都督!!」
周瑜のすぐうしろに付き添っていた徐盛はすかさず周瑜の前に躍り出てかばいながら襲い来る敵兵を薙ぎ払った。
そこへ丁奉、甘寧らが駆けつけた。
「早く、都督をお助けしろ!」
甘寧は徐盛にそう言い、徐盛は倒れた周瑜を助け起こして後退した。
後詰めの呂蒙の隊に護られながら徐盛は周瑜を抱いて孫軍の本陣に帰還していった。
程普の指揮で一旦全軍撤退となった孫軍は損害も少なくはなかった。
それでも甘寧、凌統の活躍により総崩れにならなかったのはさすがといえた。
周瑜の天幕では軍医が呼ばれていた。
呂蒙の配慮で治療中は全員外に出ることになった。程普は天幕の外で行ったり来たりしていた。
甘寧も同様に天幕から離れようとはしなかった。
凌統は周瑜が矢にあたったのは甘寧のせいだと怒鳴り散らした。
「もういっぺん言って見ろ!貴様、殺してやる!」
「ああ、何度でもいうさ。あのときおまえが余計なまねをしなければ都督はあんな矢などに当たったりはしなかったんだ!」
「なんだと・・・・っこの・・・・!」
甘寧が凌統に掴みかかった。
それを呂蒙が一括する。
「いい加減にしろ!二人とも。都督の天幕の前で何をやってるんだ!やるなら他でやれ。迷惑だ」
凌統は甘寧の手を払いのけて、ふん、と言ってその場を去った。
甘寧は拳を手のひらで叩き、散々悪態をついてその場に座り込んでしまった。
しばらくして軍医が出てきた。
すぐにみんな駆け寄り、周瑜の容態を口々に問うた。
「矢を抜いて傷口をふさぎましたが、矢尻に毒が塗ってあったようで危険な状態です」
「な・・・・!」
全員言葉を失った。
「どうなんだよ!助かるのかどうなんだ!?」
甘寧は軍医の胸倉をつかんだ。
「よせ、興覇」
呂蒙が諌めると甘寧は手を離した。
「毒はほぼ抜きましたが、それに伴う痛みが酷いようで・・・・体力が持つかどうか。痛みのあまり狂い死にしてしまうやもしれません」
程普は手のひらで目を覆った。
「なんということだ・・・・・!なぜ矢は都督に当たってしまったのか」
「・・・・・・・なにか打つ手はないのか」甘寧は低い声で訊いた。
「話に聞く、名医華元化の薬があれば、痛みも安らぐでしょうが」
そう軍医が言ったとき魯粛はふと孔明のことを思い出した。
前に豫州に行ったとき、孔明は医学の心得があると言っていた。
あれだけの知識のある孔明ならば何か知っているかもしれない。
油江口は江陵から馬を休まずに飛ばせば半日で着く所にある。
劉備や孔明は今そこにいて、偵察に出した趙雲らの帰還を待っていた。
「先ほど早馬が参りまして、孫呉の魯子敬から書簡が届きました。軍師どのあてのようです」
「私宛ですか」
孔明はさっそく書簡を読んだ。
「なんと・・・・・!」
そこには周瑜が負傷したことが書かれており、良い薬を知らぬか、というものだった。
孔明は例のあの薬を使えば痛みは和らぐだろうと思った。
そこで魯粛の使者に薬と用法を書いたものを渡してやった。
「・・・・・私の元にいれば・・・そのような辛い目に会わずにすんだものを」
孔明はそっと嘆息をついた。
本当は自分が見舞って周瑜の痛みを取り去ってやりたい、と思うのであった。
徐盛は周瑜について看病をしていた。
ひどく汗をかいている。
そしてひどく苦しんでいた。
徐盛はどうすることもできない苦しさを味わっていた。
「私が替わることができたなら、どんなに良いか・・・」
周瑜の額に濡らした布をあててやる。
汗が珠のように吹き出て、白い面を紅く染めていた。
そこへ、魯粛が軍医を伴って入ってきた。
「この薬ならば、痛みも和らぐことでしょう」
曹仁は周瑜が牛金の矢を受けて落馬したところを見ている。
すっかり有頂天になって曹仁は城を出て、孫軍の本陣を叩く、というのだ。
曹仁には陳矯、字を季弼という参謀がいた。
彼は城をでて戦うという曹仁を止めようとしたが、
「今こそ烏林での恨みを晴らすときぞ。敵の都督が負傷した今、孫軍を叩くまたと無い機会だ!」
といってきかなかった。
「それでは陳季弼、おぬしが城の留守を護れ。兵を三千ほど置いて行くゆえ」
敵の都督を射落とした手柄であるはずの牛金はといえば、何事かをじっと考えてあまり口をきかなかった。
(矢には毒を塗っていた。どうしただろうか・・あれが本当にあのときの女であれば落馬した時点で命はなかったかも知れぬ。しかし・・・・わからぬ。あれはたしかに女だった。まさかあの孫呉の都督が女のはずは無い。・・・あるいはあれも策だったのか)
「行くぞ、子廉ともこののち合流し、孫軍をたたく」
「よいか、周都督に余計な心配はさせるでないぞ。曹軍との小競り合いがあっても、演習だと申せ」
程普は先ほどから幾度となく罵声を浴びせながら殺到する曹軍の小隊との戦いについて、周瑜に心配させないための配慮を皆に申し渡した。
魯粛の持ってきた薬のおかげで周瑜は意識を取り戻したのだった。
「おかげんはいかがですか、公瑾どの」
「ああ、子敬どの・・・・だいぶいいですよ。ああ、すまない文嚮」
上半身を起こそうとした周瑜の背中を徐盛が支え起こした。
「さすがに孔明どのの薬は効きますな。そのように回復されるとは」
魯粛の言葉に周瑜は凍りついた。
「こう・・めい、だと?」
「さよう。昨日あなたに差し上げたのは孔明どのから託された薬です」
「・・・・・」
「魯子敬どの、失礼ながらそれはあまりにも不注意なのではありませんか」
徐盛が少し怒ったような口調で言った。周瑜の心中を察していたのである。
「都督を攫って行ったのが誰なのか、お忘れではありませんか」
魯粛は少しとまどったが開き直って
「しかしあの状況ではそうも言ってはいられなかったでしょう」と言った。
(またしてもあの男に・・・・・なんと私は情けないのであろう)
周瑜はまた唇を噛んだ。