周瑜が負傷したことはすぐに柴桑の孫権の知るところとなった。
孫権は、許昌に逃げ延びた曹操が南下してくるとの報告を受け、出兵の準備に追われていた。
そのため、周瑜の部隊に増援をだすこともできず、ただ、周瑜の安否を気遣うことしかできずにいた。
「撤退をさせるしかないか・・・」
そうつぶやく孫権に、張昭はうなづく。
「重傷のようだと聞いております。いくら公瑾どのといえど、傷を負った身では全軍の志気にかかわりましょう」
「・・・・あいつは怒るだろうな・・」
孫権はいつも強がってみせる周瑜の性格がこの場合は徒になった、と思った。
攫われた周瑜が戻ったと聞いて安心したのも束の間、今度は重傷、という知らせに少しも安穏としていられない孫権であった。
「兵を引けだと?」
「はい。殿からのお達しです」
魯粛が淡々と語るのが周瑜の神経を逆撫でしたことに彼は気づいていないようだった。
「・・・・そんなことはできぬ。ここで撤退するくらいならこのまま討ち死にした方がマシだ」
やっと起きあがって歩けるくらいに回復した周瑜の陣舎には報告を持ってきた魯粛と程普、呂蒙らがいた。
「しかし、都督。敵は勢いづいておりますぞ。このままでは志気にかかわります」
程普のことばに周瑜は質問を返した。
「曹仁軍はいまだ城から出陣してきているのでしょうか」
「・・・そのようですが、少しずつ城の外に陣を構える部隊が出てきております。おそらく奇襲でもかけようというのでしょう」
「籠城されては攻めにくいが、敵の主力をうまくこちら側におびき出せれば、勝機はある・・・・さてでは、私が明日陣頭に立つことにしましょう」
そこにいた武将たちはえっ、と声をあげた。
「そして派手に落馬してみせましょう。そのまま私は死んだことにすれば相手は油断するでしょう」
周瑜は敵を誘い出すために自分が死んだことにし、陣中が喪に服しているように見せかけよ、と提案したのである。
病み上がりの周瑜に危険を冒させたくない魯粛は孔明に助けを求めたらどうか、と周瑜に進言した。
いうまでもなく、周瑜は怒った。
「それだけは、孔明の助けだけはどうあっても借りぬ。子敬どの、もう二度と私の前でそのようなことは言わないで欲しい」
「・・・あなたはどうしてそう孔明どのにこだわるのです?」
魯粛の言葉に対する返答はなかった。
それよりも。
周瑜は自分の体の異変に気づいていた。
(おかしい・・・・痛みは治まってきたものの、薬がなくては息苦しいような気がする・・)
孔明の薬。
あの時も薬のせいで拉致されたのだった。
周瑜は不信に思いながらも、作戦の実行準備にかかった。
「何、周瑜が陣頭に立っていたというのか?」
「は。そのあとやはり相当具合が悪かったらしく落馬してそのまま命を落としたとか。間諜からはそのように報告を受けております」
これを聞いた曹仁は嬉々として孫軍に全軍で攻撃をしかける策を実行しようとした。
しかし陳矯はこれに猛反対した。
全軍が城をでていっている間に敵に攻め込まれたらどうするのだ、というのである。
それへは、曹仁はこう答えた。
「なあに、指揮官のいない孫軍などすぐに片をつけて、全軍でもって戻ってくる。それならばよかろう?」
牛金は周瑜が死んだらしい、という話を聞いて心穏やかではなかった。
真実はわからないが、もしあれがあのときの女ならば・・・・と思ってしまうのである。
「曹軍の奇襲だー!」
戦太鼓が鳴り響く。
そのほとんどが騎馬兵を要する曹仁の軍は孫軍の本営に奇襲をかけた。
しかし、都督の喪に服しているはずの本陣はどういうわけかもぬけの殻であった。
「なんだ、これは。誰もおらぬではないか!」
合流してきた曹洪の軍もなだれ込むようにやってきたが、あまりの静けさに気を削がれたかのようであった。
そこへ、背後と左右両翼から挟み撃ちになった形で孫軍が飛び出してきた。
その先頭には白銀の鎧をまとって帥旗を掲げた兵を引き連れた周瑜がいた。
「しまった!罠かっ!」
激しい怒号と馬のいななき、蹄が地を叩く音でなにもかもがかき消されていった。
牛金は混乱の中、周瑜と対峙した。
「おぬしは、本当は何者なのだ!?」馬上で声を荒げて問う。
周瑜はこんな場面ですら涼やかに笑って見せた。
「言わずと知れたこと!私は孫呉の大都督、周公瑾だ!」
そう名乗ったところで、二人の間に甘寧が切り込んできた。
「貴様は都督に矢を射た奴ではないか!この俺と勝負しやがれ!」
「おう!貴様か!」
牛金と甘寧が数合打ち合っていたとき、曹仁が撤退の合図を出した。
牛金は曹仁のいる方向に向かって、馬の向きを変えた。
「まて!逃げるか!」
甘寧が叫ぶ。
「この勝負、預けておく!さらば」
曹仁は曹洪と合流し、敗走した。
途中、城から逃げてきた兵に会い、南郡城が落ちたと報告を受け、愕然とする。
「なんと!孫呉のやつらにまんまとはめられたということか!」
曹仁は嘆いたが、兵はそれを否定した。
「いいえ、そうではありません。城を落としたのは劉軍です。陳季弼どのは捕らえられました」
曹仁軍に対し、勝利をおさめた周瑜に南郡が趙雲によって占領されたという報を届けたのは陽動作戦の最中に南郡城へ向かっていた凌統からの早馬だった。
「おのれ!孔明・・・・!これではまるで火事場泥棒のようではないか!」
驚きと怒りに周瑜は体を震わせた。
こんな策をたてるのは、あの孔明しかいない。
本陣で、程普がひとしきり劉軍を罵倒し、同盟のやることではないと憤慨していたところへ、趙雲からの使者がやってきた。
事情を話したいので周瑜に城に来るように、というのだ。
これには曹軍と戦った武将たちは全員怒り狂った。
「・・・・よし、行こう。相手は趙雲だったな・・・」
周瑜は徐盛に支えられながら立ち上がった。
「無茶です。仮にも大都督を呼びつけるとは、なんたる無礼!某が代わりにまいりましょう」程普はそう言ったが、相手は周瑜でなければ、と言う条件をつけてきていた。
「大丈夫だ。ここでひいてはいったい何のために勝利したのかわからなくなる・・・私に行かせていただきたい」
「では私もお供致します。文嚮、おぬしも来い」
呂蒙がそう申し出た。
「・・・そうしてくれ」
周瑜はつらそうに言った。
南郡城に着いたとき、周瑜を出迎えたのは趙雲だった。
「ようこそ、周都督。およびだていたしまして申し訳ありません。どうぞこちらへ。後の方々はここでお待ちください」
前の部屋で待つように言われて、呂蒙は怒った。
それを、趙雲は諌めるように言った。
「大丈夫です。決して失礼のないように致しますから」
呂蒙たちと離されて、周瑜が案内されたのは城の奥の間であった。
「ようこそ、周公瑾どの」
薄暗い部屋の奥から聞き覚えのある声がする。
「・・・・・・!」
周瑜は部屋の奥に足を進めた。
(まさか)
「傷はもう大丈夫なのですか?」
「・・・・!孔明・・・・・・!」
部屋の奥に座していたのはまぎれもなく劉皇叔の軍師・諸葛亮孔明であった。
「なぜ・・・・・ここに・・・・?」
孔明はにこりと笑って言った。
「あなたに会いたかったからですよ」
「な・・・・っ」
(どくん)
「はっ・・・・・・!」
次の瞬間、周瑜は自分の胸をかきむしるように掴んで膝をついた。
「おや、どうしました?」
周瑜の苦悶の表情にも関わらず、孔明の声は落ち着いていた。
「・・・・く・・・」
「ああ、やはり・・・禁断症状が出たのですね。可哀想に・・・・」
(禁断症状・・・?)
孔明の言った言葉に周瑜は苦しみながらも反応した。
「こちらへいらっしゃい。私が調合したこの薬で楽になれますよ」
孔明は立ちあがって周瑜の傍に来た。
「私に・・・さ、触るな・・・っ!」
「あなたがいけないのですよ。私に黙って逃げたりするから」
孔明は周瑜の両腕を捕らえて引き寄せた。
「これはおしおきです。私の気持ちをちっともわかろうとしないあなたへの、ね」