いつ、入れ替わっていたのかはよくはわからない。
だが、使者として呉に来たのは本物の孔明の方だったという。
「あの烏林での水戦のさなか、私は一足先に劉皇叔さまの元へ戻っておりました。そのあとです、弟があなたを攫ってきたと知ったのは」
孔明はことの次第を語り出した。
つまり、周瑜を攫ったり、薬を盛ったりしたのはすべて自分の知らぬ間に自分になりすました弟がやったことだと言うのだ。
「では、都督を攫ったのはおぬしではないというのか、孔明どの」
呂蒙は厳しい口調で言う。
「ええ」
孔明はうなづいた。
「弟がいつどこであなたを見初めたのかはわかりません。ただ、私の後を追って東呉に来たのは事実です。・・・そう、おそらく烏林に陣を張っているときにでも。そして私の行動をどこからか逐一見ていたのでしょう・・・・でなければ我が君を信用させるには至りません」
孔明は、周瑜の手を取り、その前に跪いた。
「私は襄陽におりました。あの城はすでに関雲長の手によって落とされましたから」
それを聞いた周瑜は自失していた気を一転して回復させた。
「・・・・なんと・・・いった?襄陽を?」
「そうです。ですから、この城はあなたに明け渡しましょう」
「・・・・・・!」
周瑜は孔明の手を激しく振りきった。
その手は怒りに震えていた。
やられた・・・・!
襄陽に比べたらこの南郡は戦略的な意味は薄い。
弟が自分になりすまし、いいようにしていることを逆に利用するとは。
自分が薬で呆けている間に、まんまとうまいところを孔明にかっさらわれた形になったのだ。
それで悟った。
すべては孔明の仕掛けた罠だったのだ。
自分と瓜二つの弟まで使って。
徐盛は周瑜の肩が震えているのを見て取った。
周瑜が何に怒りを感じているのか、徐盛も呂蒙もわかっていた。
徐盛は周瑜の肩に手をかけて耳打ちするように囁いた。
「都督、大丈夫です。今は譲るとしましょう。必ず形勢は逆転させてみせます」
周瑜は徐盛の方を振り返り、その目を見つめた。
そして周瑜の厳しい眼差しがふっとやわらぐ。
「・・・そうだな・・・過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がない」
周瑜は孔明に向き直り、
「わかった。ではこの城を明け渡していただこう」と言った。
孔明は正気を取り戻した周瑜をにこやかに眺めながらうなづいた。
「本当は今でもあなたを奪ってしまいたいくらい、私はあなたを想っていますよ」
公然と人目もはばからず、周瑜にそう告白する孔明に呂蒙や徐盛、趙雲すらも唖然とした。
しかし周瑜はききあきたとばかりに
「私はもうあなたの顔を見たくありません。あなたの弟を刺殺したことへは思うところもありますが・・・」とあしらった。
孔明は苦笑したが、それには答えずに、
「その前に」と、立ち上がった。
「・・・・・・まだ、何か?」
「あなたの体から毒を抜かねばなりません」
孔明が神妙な面もちで言うので、不信に思う一同であった。
「・・・どのように?」訊いたのは徐盛であった。
「二日の間、薬を絶てば良いだけです・・・しかしそれが非常に苦しいはず」
「どういうことだ?」
呂蒙は理解に苦しんだ。
「公謹どのが飲まされた薬は常用性があり、一定の時間以上薬を飲まないと禁断症状が出て非常に苦しむのです」
「・・・・・・!」
「苦しんで、時には悶絶死してしまうこともあります。・・・・また暴れて自らを傷つけてしまうこともあります」
「ど、どうすればよいのだ?」呂蒙は焦った。
「二日間柱に縛り付けて動けないようにするのです。・・しかしその様子を見るのはあまりにも忍びないでしょうが」
「そ・・・そのような!」
呂蒙も徐盛も絶句した。
「無用だ」
周瑜が言う。
「自分のことは自分でなんとかする。私のことは気にしないでいただきたい」
周瑜はさらりと言ってのけた。
「公瑾どの。今のあなたの体力では・・・とても心配です」
「あなたは趙子龍どのとその軍勢を率いて戻られよ。ここにはもういて欲しくはない」
「・・・・・・わかりました。しかし、なにかあれば必ず連絡してください。いいですね、呂子明どの」
呂蒙は無言で頷いた。
孔明と趙雲たちが出ていった後、周瑜は呂蒙に呉の本陣へ行き、待機している彼らを城へ連れてくるように言いつけた。
「し、しかし!」
「呂子明。これは命令だ・・・はやく行け」
呂蒙は周瑜のことを気にしながら、渋々外へ出かけていった。
周瑜の傍に一人残った徐盛は、一言も口をきかず控えていた。
「文嚮。頼みがある」
江陵から出発した孔明は襄陽へは行かず、油江口へと戻ることにした。
「・・・・・・軍師どの。先ほどの弟御のことは・・・」
趙雲に問われて、孔明は顔を上げる。
「あれはあのように情欲に負けなければまことに良い才であったのですが・・」
「私に指示を出していたのが軍師どのでなかったと見抜けなかった自分が愚かしくてなりません」
「・・・・・子龍どの。そのようなことでご自分を責められても困りますからあなたには本当のことを話しましょう」
「本当のこと?」
「弟を呼んだのも、そして公瑾どのを攫わせたのも私です。いくらそっくりと言っても玄徳さまや忠節なるあなたを偽るまねなどこの私がさせるとお思いでしょうか」
「・・では、先ほどのことは・・・」
「真実でもあり、真実では無かったりします。ふふふ・・」
孔明は馬上で声をひそめて笑った。
「しかし、弟が本当に公瑾どのにあれほど入れ込んでしまうとは予定外のことでした・・・・・私の想い人に薬を盛ったり夜這いをかけたりするから、こうなってしまうのですよ・・」
最後の方はほとんど孔明の独り言で、口のなかで囁いていた程度のことだったがそれを趙雲は聞き逃さなかった。
趙雲は眉をひそめた。
弟が殺されたというのにそれを気にかけるでもなく平然としている。
この才能希なる軍師は果たして本当に人なのだろうか。
もしかすると弟を抹殺するようにしむけたのはこの男なのではないだろうか。
「しかしこれで五分。まだ私は諦めませんよ」
孔明の声は心なしか弾んでいるように聞こえた。
呂蒙が軍を従えて入城したときにしたことは、真っ先に周瑜に会いにいくことだった。
城をでて今日で二日目。
孔明の言うことが本当なら、周瑜は自分のいない間に苦しんでいたことになる。
心配で心配で、気が狂いそうだった。
本当は一騎で駆け戻って来たかったのだが、周りに曹兵が潜んでいるとも限らなかったため、行軍が遅れたのだった。
呂蒙が駆け込んできた時、周瑜の室の前には徐盛が立っていた。
「文嚮、どうした!?」
こちらを向いた徐盛の顔は蒼く、寝ていないらしく目のしたにはクマが出来ていた。
「都督は・・・?」
「まだ、お入りにならないでください。中からお声がかかるまで、入ってはならぬとのお達しです」
「・・・・・!しかし!都督に万一のことがあったら・・・!」
「手足を戒めてありますので大丈夫です」
「手足を・・・・」呂蒙は唾を飲み込んだ。
そんなに苦しんだと言うことなのか。
そのとき、中から声がした。
周瑜だ。
か細い声で、何事かを話している。
二人は急いで中に入った。
そこで見たものは未だかつてみたことのない無惨な周瑜の姿であった。
縛られたまま暴れたらしく衣服は乱れ、白い肩や脚が剥き出しになったまま横たわっていた。
縄のくい込む両手と両脚首からは血がにじんでいた。
二人ともその光景があまりにも無惨で目をそらせた。
呂蒙は周瑜を抱き上げて寝台に運んだ。
徐盛は戒めを解き、その血をぬぐった。
呂蒙は涙ぐみながらそれを見ていた。
「・・・軍医を呼んで参ります。子明どの、都督を頼みます」
そういって徐盛は室を出ていった。
そのあと呂蒙は本格的に泣いてしまい、腕で涙を拭っていた。
「俺が・・・ついていながら・・こ、公瑾どのに・・・こんな・・・っ・・」
「・・・子明・・・か?」
はっ、として呂蒙は周瑜の方をみる。
「気がつかれたのですね!・・・良かった」
「何を・・・泣いている?」周瑜は呂蒙の方に顔を向けてのんびりとした声で訊いた。
「い、いえ、泣いてなんかいません」
慌てて腕で顔をこすった。袖が汚れていたらしく顔もすす汚れてしまった。
その様子を見て周瑜はわずかに笑った。
「すまなかった・・・心配かけたようだね」
「そ、そんな・・・都督・・・!」
呂蒙はまた泣いてしまった。