(20) 仁姫


 
 

柴桑の孫権は江陵の周瑜の知らせをきいて心配していた。
結局孫権の命には従わずに江陵にそのまま残った周瑜が城を落とし、曹仁を追い払ったことに関してはさすがと言う他はなかった。
しかし、傷を負ったこと、体調がすぐれないことを知って養生させるため南郡太守に任命し、しばらくかの地にとどまるよう指示した。

「公瑾・・・・今おまえはどうしてる?」
孫権は書簡をたたんで空を仰いだ。
その空は江陵までも続いているはずだった。

「何を見ておいでですの?」
部屋の格子から覗く空を眺めていると、背後から若い女の声がした。
「仁か・・・・・いや、公瑾はどうしているかと思ってな」
「公瑾どのは負傷されたそうですわね。あの方でもそのようなことがあるなんて・・・」
彼女は孫権の妹で名を仁という。この年17になったばかりのなかなかに麗しい少女であった。
薙刀を得意とし、孫家の娘らしく武道に秀で、女だてらに馬も乗りこなす。
それが災いしてか、未だに想いを寄せる相手もおらず、浮いた話しのひとつも聞かない。
孫権としてはこの妹が可愛くて仕方が無いのだが手におえずに困ってもいた。
周瑜とも幼い頃からの知り合いでよく学問などを教えてもらっていたりした。
もちろん仁は公瑾が女だなどとは知らない。

「元はといえば公瑾を連れ去った劉皇叔の部下のせいだ」
「・・・・・・ねえ、お兄様。そのことで私お兄様に相談があるの」
仁の相談は、孫権を驚かせるのに充分だった。


 
 
 
 
 

「俺も残ります」
呂蒙はいつになく真面目な顔で言った。
周瑜の白い顔は少し哀しそうな顔になった。
「おまえが残ってくれるのは心強いが、今や一軍を預かる身をそうそう置いておくわけにはいかない」
「俺の兵は甘興覇に預けます」
呂蒙は椅子に腰掛ける周瑜の向かい正面からまっすぐな眼差しを向けた。
「子明どの。都督は某がお守り致します故、徳謀どのらとお戻りください」
傍に控えていた徐盛が口を開いた。
「いや、残らせてください。戻る時は都督と一緒に戻ります」
「・・・・・・仕方がないね」

呂蒙に根負けした周瑜は結局呂蒙と徐盛を、手元に5千の兵だけを残し全軍を孫権の元へと引き上げさせることにした。

程普や甘寧は病み上がりの周瑜を残していくことに不安を覚えながらも出立していった。
 

病床にある周瑜のかわりに見送りにでた呂蒙と徐盛だったが、一行が立ち去ったあと城壁の近くで徐盛は呂蒙に声をかけた。
「子明どの。なぜ軍を他の方に任せてまで残られたのか聞いてもよろしいですか」
「・・・・あんな公瑾どのを見て、平気で行けるほど、俺の神経は頑丈じゃないんだよ」
呂蒙は口を尖らせて言った。
「もしおまえが俺の立場だったら、どうだ?」
「・・・・私は・・・・都督が行けとおっしゃるのであればそれに従うだけです」
「ふん。おまえらしい答えだな」
呂蒙はおもしろくなさそうに言ってそのまま立ち去った。
「・・・・・・・・」徐盛は立ち去る呂蒙の背を複雑な表情で見送った。
 

「子明。せっかくここにいるのだから、少し話をしよう」
「えっ・・は、はい」
「文嚮もここへ」
「は」
周瑜は二人に魯粛のことをどう思うかと訊いた。
「えっ・・急になんですか?子敬どののことをどう思うかって・・・」
「うん。正直なところ、あの御仁は相当劉備に、というより諸葛孔明に心酔しているようだからね」
「俺は・・・・魯子敬どののことは尊敬しています。人当たりがいいとか、なんというのか・・その・・・」
呂蒙が言いたい言葉を見つけられずに困っていると周瑜がそれを見て笑った。
「子明はもう少し学を得た方がよいだろうね」
周瑜に言われて赤面してしまう呂蒙であった。
「文嚮はどうだ?」
「仁をもって治をなすお方だと存じます」徐盛は素直に答えた。
「・・・・・・そうか」
「しかし、なぜそのようなことを?」
「私が後事を託すにふさわしい者は誰かと思ってね」
周瑜があまりにもさらっと言ってしまったので二人は呆気にとられていた。
「・・・な!公瑾どの!そのようなことを・・・」
「都督、それはどういう意味なのでしょうか?」
二人は口々に理由を求めた。
「・・・・病を得て少々考えるところがある。後事を託すことのできる人物を定めておけばそれだけ気も休まるというものだ」
周瑜は薄く笑っていた。
「公瑾どの・・・っ!どうしてそのようなことをおっしゃるのですか!」
そう叫んだ呂蒙も徐盛も周瑜を必死の形相で見つめた。
「そう悲観することはないよ。人はだれでも命が尽きる時がくる。それが遅いか早いかの違いだ。・・・・私がこうなったのは・・・皆を欺いた罰がくだったのだ」
「罰だなんて!公瑾どのは、その・・・女の身で、よく戦ったではないですか・・・・!」
呂蒙を見つめる周瑜の目は微笑んでいた。
「女の身で・・・・か」
呂蒙は言ってしまってから、しまった、という表情になった。
周瑜は女扱いされるのが嫌いだったはずなのだ。
しかし周瑜は表情を変えず、言葉を継いだ。
「子明。頼みがある」
「は・・・?」
「劉備が増長するならば、討って欲しい」
「は、はい!必ず・・・!」


油江口に滞在していた劉備は一旦ここを本拠地とし、この地を公安と改めた。
馬良という人物を配下に治め、孔明とは零陵へと進軍することで意見は一致していた。
しかし孔明には気になることがひとつあった。
なぜ、周瑜は五千の兵だけを残して南郡に残ったのだろうか。
五千の兵では曹軍に再び攻められたとき耐えられないだろう。それならばなにも周瑜が残る必要はないのだ。
「それとも動けないのか・・?まだそんなに具合が悪いのだろうか・・・」
南郡が五千だろうが、今攻め取るつもりはない。
ひとしきり考えにしずむ孔明に声をかけたのは趙雲だった。
「・・・・周公瑾どののことをお考えか?軍師どの」
「ああ、子龍、あなたでしたか」
「私もあのような女人ははじめてです。軍師どのが迷われるのもいたし方ありませんが、今は零陵のことをお考え下さい」
「もちろんです、子龍どの」
孔明はそう言って微笑した。


数日たって、孫権から都に来るようにとの連絡があった。
連絡を持って来たのは孫権の従兄弟、孫瑜であった。
孫瑜、字を仲異。奮威将軍を拝する青年であった。その容貌はどことなく孫策を思い出させる。
そのせいか、周瑜は以前から孫瑜とは仲がよかった。
「公瑾どの。お体の具合はいかがですか?殿もたいそう心配されておりましたぞ」
「このとおり、もう心配には及びません、仲異どの。それよりあなたがいらっしゃるなんて急な知らせでもありましたか?」
「さあ、私はまだなにも聞かされておりません。とにかく公瑾どのに至急きていただきたいということでしたので」
「・・・・わかりました。ではここの留守は子明に任せ、私はあなたと共に京城へ参りましょう」


呂蒙は自分がなんのためにここへ残ったのだとぶつぶつ文句を言ったが、結局留守を守らねばならないことに変わりはなかった。
周瑜は徐盛をここへ呂蒙と共に残し、一路孫権のところへと向かった。



周瑜とは久しぶりで逢う孫権は両手を広げて出迎えた。
「・・少し痩せたな・・・・本当に大丈夫か?」孫権は周瑜を気遣った。
「お気遣い感謝いたします。ですがもう大丈夫です」
周瑜は孫権に拝礼した。
「ところで火急の用件とは一体何事でございましょうか」
「おお、それなのだが・・・じつは仁のことだ」
「仁姫がいかがなさいましたか?」
周瑜は孫権から意外な人の名前を聞いて少々驚いた。
「それが・・・」

「まあ、公瑾どの!お帰りなさいませ」

挨拶もなしに孫権の部屋に入ってきたのは仁だった。

「仁姫・・・」
さすがの周瑜も呆れ顔だった。

「兄上、私から話すわ。公瑾どの、私ね、劉玄徳の妻になりたいの」





(21)へ続く