仁が一体何を考えてそのようなことを言い出したのか、孫権にはわからなかった。
劉備はすでに50を越した初老の男であり、仁はまだ17のうら若き乙女である。
その組み合わせが不吉なものに思えるのも無理はなかった。
「私は英雄にしか嫁ぐ気はないの。劉皇叔なら文句はないわ」
仁は実にはっきりと言った。
「本気なのか、仁」
「そうよ。だって兄上、劉皇叔とは同盟を結んでいるのでしょう?私だって兄上のお役に立ちたいわ」
周瑜はそれを聞いて眉をひそめた。
仁は知っているのだ。
先日劉備から荊州の一部を貸して欲しい、との知らせがあったことを。
そのとき、周瑜は江陵にいて反対していたが、孫権と魯粛により約束は交わされてしまったのだった。
「公瑾どのは反対なさったりしませんわよね?」
「・・・姫さまのご本意がどこにあるのか諮りかねますが・・・・ご自分で決めたことなればどうして私ごときが反対などいたしましょうか」
仁はふふっ、と口の先で笑った。
「では言いましょうか。私が兄上と公謹どのを困らせている劉玄徳の首を取ってご覧にいれるためですわ」
「仁!」
孫権は声を荒げた。
「滅多なことをいうものではないぞ!」
仁は笑いながら、華のような衣のすそを翻した。
「あら兄上。劉玄徳が荊州を返してくれるという保証はありませんのよ。それならばいっそ亡き者にしたほうがよろしいのではなくて?」
孫権が青くなって仁を見ている横で周瑜は急に笑い出した。
「公瑾、何がおかしい!?」孫権は怒ったように言った。
「ああ、失礼致しました・・・いえ、姫さまはまこと、孫家の女性であられるとつくづく感嘆致しました」
「まあ、公瑾どの。それはどういう意味ですの?」
「褒めているのですよ」
周瑜は微笑んで言った。そして孫権の方に向き直った。
「殿。この縁談を勧めましょう。そして劉皇叔を誘い出し、暗殺するのです」
「・・・・本気か」
「ええ」
孫権には周瑜が本気だとはとても思えなかった。
しかし妹がそういうのであれば、悪い話ではない、とも思う。
同盟を結んでいるとはいえ、昨日の友は明日の敵、そんな状況であったからなのだ。
「しかし・・・・おまえは本当にそれで良いのか?妻になったとたん未亡人になるのだぞ」
仁には他に姉妹がいたがいずれも早逝している。
そのためか、孫権はこの妹をずいぶん可愛がっていたのだ。
「この世の女には自由などありはしませぬ。このような我が儘をとおせるのも私が兄上の妹として生まれたからです。それならばその血に報いることこそが私のさだめというものでしょう」
周瑜は仁の言葉に内心驚いた。
幼い、いつも孫策や孫権のあとについては構って欲しくて泣いていたあの少女がよくもこうまで成長したものだ。
(やってみるがいい。そうそう思い通りにはいかないものだが・・・)
周瑜はそう思った。
「万一劉皇叔の暗殺に失敗して居づらくなられたら、戻っていらっしゃればよい。そのときはお迎えに参りますよ」
冗談なのか本気なのか、周瑜はそう言った。
周瑜の真意を孫権は伺い知ることはできなかった。
その頃、公安の劉備はその知らせを聞いて複雑な思いにかられていた。
劉備は孔明にこの縁談のことを相談した。
すると孔明はすんなりと言った。
「なかなかに良いお話しではありませんか。お受けください」
「む・・・」
「しかしそれでは敵の罠にはまるだけですぞ」
このとき、同席していた馬良が口を出した。
馬良、字を季常というこの男は、最近劉備に召抱えられたばかりであった。
「罠だと?」劉備が聞き返す。
「さようです。皇叔さまをおびき出す罠でございます」
劉備は、馬良の言葉に一言も発しない孔明の方を振り返った。
孔明はただニコニコしているだけだったが、馬良が言葉を継ぐと、大きくうなづいた。
「この縁談を餌に皇叔さまを敵の居城に呼び出し、暗殺を図るつもりなのでしょう」
「孔明よ、それが本当ならば受けない方がよいのではないか」
孔明は首を横に振った。
「いいえ、いけません。相手は孫主の妹君です。断れば同盟そのものが崩れ、孫軍につけいる隙を与えてしまうだけです」
「孔明どの、あなたと同じ方法を私も考えております」
馬良は孔明にそう言い、この縁談を断らず、主君を暗殺から守る方法をお互いに披露した。
母親を抱きこみ、孫権の部下をおとなしくさせるという手段であった。
この時代、女はただの道具としてしか扱われなかったが国主の母親ともなれば違う。
なにかにつけ、母親に挨拶を通す、ということは非常に大事なことであったのだ。
それは軍事にすぐれ、武勇を誇る武将にはおよそ考えもつかぬ策であったといえよう。
「では使者どのにそのように伝えましょう。そして同時に呉国太君に使者を」
「もう出立されるのですか?」
回廊を歩む周瑜に声をかけたのは仁であった。
「姫。このような場所にお出ましとは・・」
「あなたを捜していたのよ。私の晴れ姿を見てはいただけないのね」
「残念ながら、私にはまだやらねばならぬことがございますので・・・」
仁はふうん、と気の無い返事をした。
「公瑾どのにとっては私のことなどどうでもよいのね」
周瑜は驚いて仁を見た。
「そのようなことはありません。ですが私がいなくても他に頼りになるものは大勢おりますよ」
仁は、とたんに足を踏み鳴らした。
「あなたでなければ嫌なの!私を迎えにきてくださると言ったじゃないの!うそつき!」
周瑜は更に驚いて1歩後ずさった。
同時に仁は1歩前に踏み出して周瑜の腕を掴んだ。
「・・・どうして、どうして気が付いてくださらないの!?私、私は・・・!」
「姫!」
周瑜は一括した。
仁はびくっとして口をつぐんでしまった。
「・・・もう行かなくてはなりません」
仁は周瑜の袖を掴んだままだった。
「・・・・・この袖をちょうだい」
「は?」
「公瑾どののこと、私は忘れないから。劉皇叔の元に行っても、私があなたを裏切らないように、この袖をちょうだい」
仁の目は少し潤んでいた。
周瑜は懐から短刀を取りだし、左手の袍の袖の先を切り取った。
「私のことなど捨て置き、姫は姫の人生をお歩きください」
そう言って周瑜は切り取った袖を差し出した。
仁はそれを受け取った。
「では、お元気で。失礼いたします」
周瑜は仁の前を通りすぎて行った。
背中に視線を痛いほど感じる。
(どのように思われようと・・・私にはどうすることも出来ない)
周瑜は一度も振り向くことなく立ち去った。
「公瑾の・・・・馬鹿」
仁は周瑜の袖を胸に抱きしめて立ち尽くした。
その瞳は幼い初恋の相手に別れを告げる涙を流しつづけていた。
(22)へ続く