(22) 雨音


 

周瑜は孫瑜と共に江陵へと旅立った。
率いる兵は500。
自分の出した案とはいえ、仁を劉備の嫁にし、暗殺を謀るなどという策は安易すぎるか、とも思う。
おそらく孔明あたりには看破されているだろう。
さて、どのような手にでるか。
仁のことが気がかりでもあったが、呉主妹なのだからそうひどいことにもならぬであろう。

疲れている−

以前の自分ならばもっときちんとした策を立てたに違いない。
しかし、今は・・・・・もう何にもする気がおきない。
自分の目的がなんだったのか-
一体何をしたかったのか・・・・体の不調と共に心にも病を得たようだ、と思う。

「左将軍、どうかいたしましたか?お加減でも?」
すぐ横を駆ける孫瑜が心配顔で馬を寄せてきた。
周瑜は呉都に戻ったとき、南郡太守であるとともに左将軍を拝命した。
そのとき孫権は笑って言った。
「曹操が、おかしな書簡をよこしたぞ。見ろ、周瑜をもって名をなさしめるのか、だと」
書簡を見て周瑜も苦笑した。
離間の計か。
孫権と周瑜のことを知らぬ者の言いそうなことである。
確かに周瑜の名は烏林でー曹操軍を焼いた火が岸壁を染めてから赤壁と呼ばれるようになった地でー勝利し、また江陵を攻略したことにより全国的に知られるようになった。
曹操はそのことを、孫権の周瑜への妬みにすり替えようとしたのだ。
そのことを思うと、一瞬でも曹操に惹かれた自分を恥じた。
 

「いや、なんでもない・・・雨が来そうだな」
「ああ、そうですね。今日はもう日暮れも近いことだし野営の場所を求めましょうか」
孫瑜はそう言って、部下に指示を出した。

幕を張り、火を焚く。
その作業のさなか、周瑜は単騎で周辺を回ってくると言い、出かけていった。
孫瑜はついていこうとしたが、ここで指示を出すため、ととどまるように命じられた。
雨はぽつぽつと落ちてきた。
周瑜の兜を叩く雨音が大きくなってきた時、雨にけぶる向こうに一騎、こちらへ向かってくる影をみた。
周瑜は緊張してその場にとどまった。

近づいてくる騎影は見たことのない姿の者であった。

獣の形をした兜と鎧が目を惹いた。
猪の皮をなめしたものを鎧の下に着込んでいる。
その顔は白く、唇は紅く、鈴とした精悍な面差しをしていた。
馬の横腹には矛がくくりつけられている。

「どこのどなたか?この先は孫軍の夜営地であるから通り抜けることは出来ぬぞ」

周瑜は語りかけた。
相手は周瑜の手前で馬を止めた。
鋭い目が、周瑜を射る。
野性的な目だ。

「馬、孟起と申す。失礼だがおぬしは?」
「・・・・・西方の馬一族のお方か。私は周公瑾と申す。呉都の孫家に仕える者です」
「周公瑾・・・先年の長江の水戦で曹操を破った孫軍の大都督の名であったと記憶しておるが・・・それがおぬしであられるというのか」
周瑜はこの武者のことを知っていた。
馬超という、西涼に勢力を持つ馬騰の息子である。
馬騰は曹操に一旦はくだり、漢中を納めたが先ごろ反曹操ののろしをあげたのであった。
馬超はその急先鋒である。
だがその当主がなぜこのようなところにいるのか。
ここは江夏の西の山道である。
「涼州の若君がなぜこのようなところに?」
渭水流域がその拠であるのに一人でこのようなところにいるのはおかしい。
「・・・・上庸の刀鍛冶に矛を直させにきたついでに荊州の様子を探りに参ったのだ」
「刀鍛冶・・・?」
周瑜は馬超の馬の腹にくくりつけた矛に目をやった。
「・・・・というのは口実だ。本当はおぬしに会ってみたかった」
「私に?」
そのうちに雨がひどくなり、お互いの声も届きにくくなった。
周瑜は馬超を自分の野営地の本営に誘った。


夜営の準備を終えた孫瑜の元にずぶぬれになった周瑜が客を連れて戻ってきた。
孫瑜はさすがに驚き、馬超の姿を見ると警戒した。
周瑜はそれをおしとどめ、自分の幕に馬超を案内した。
二人とも濡れた兜と上衣を取り、乾いた布で顔や髪を拭く。
「・・・・・・」
馬超は兜を取った周瑜を見てとまどいを覚えた。
周瑜もそれは同様だった。
お互い、酷い雨の中でろくに顔もよく見えていなかったのだ。
馬超は上半身に着ていたものを脱いで直接体を拭き始めた。
周瑜はさすがにそれはせず首筋や髪を拭っていただけだった。
「周公瑾どの。噂どおりおぬしは女子のように美しいな」
急に言う。
「急に何を言い出すかと思えば、そのようなことを」
「いや、曹操の側近が言っておったのだ。女子とみまごうような美男だとな。しかし曹軍30万をたった3万の兵で破った孫軍の大都督ともあろうものがそのような軟弱な姿をしているものか、と思っておった」
「・・・・・・そのようなことを言うためにここへ来たのではないでしょう?」
「・・・・俺はおぬしが欲しくてここへ参った」
馬超はその鋭い目で周瑜を射抜いた。
「俺は策士が欲しい。おぬしのような知恵者が必要なのだ」
「・・・それは無理です。あなた自身もおわかりになっているでしょうが」
「・・・・・・・」
「それに策士なら私でなくてもおりますよ。例えば・・・・劉皇叔の軍師諸葛孔明どのとか」
「・・・おぬしでなくてはいらぬ」
馬超は憮然として言った。
周瑜は口元に手をあてて笑った。
「言いにくいなら私から言いましょうか、馬孟起どの」
「・・・・孟起、と読んでくれ」
「では孟起どの。あなたは近々大規模な反乱を起こそうと計画なさっておられるのですね。それで曹操を撃つつもりなのだ」
「・・・・・・そうだ」
「味方に自信が持てませんか?私と同盟したいと・・・そうお考えなのでしょう?」
馬超は目をつむり、また沈黙した。
しばらくして目を開けて口をひらいた。
「何もかも読まれている、というわけか」
「いえ。私があなたでもそうしたでしょうから」
「・・・・では、どうなのだ。受けてくれるのか」
「今ここでは返事はできません。我が主君に進言してみないことには」
「そうか。だが俺のいう言葉をご主君に伝えてくれ。曹操を討たねば天下のすべてを手に入れることは叶わぬ」
周瑜は正面から自分を見つめる男の裸の胸から目を逸らした。
鍛えぬかれた体躯。精悍な面差し。
なぜかそれが周瑜には正視できぬものとなっていた。
雨音だけが二人の距離だった。
「・・・おかしなものだ。なぜだかおぬしと居ると、妙な気分になる。今日初めて会ったというのに」
自分も同じだとどうして言えようか、と周瑜は思った。

「孟起どのは今は漢中に身を寄せておいでですか?」
「ああ。しかしここへ寄ったら西涼へ戻る。親父の部曲を任されているからな」
「・・・・その方がよろしいでしょう。それに私には乱を起こすには時期が尚早だと思われます」
「なぜだ?」
「曹操は50を越している。直に息子の曹丕に後を譲るでしょう。そのときが機会到来というものです」
「・・・・・・」
「何かの都合で曹操があなたを都に呼びつけるようなことがあればご注意なさるべきです」
馬超は驚いた顔をした。そして笑った。
「俺の心配をしてくれるのか」
「あなたと同盟するのに損はないと思いますから」
周瑜も微笑を返した。
馬超はとたんに機嫌が良くなった。
「来た甲斐があった。周公瑾どの、俺はおぬしが気に入った」

周瑜と馬超はすっかり打ち解け、共に酒を酌み交わした。
雨で冷えた体に心地良い酔いがまわった。
馬超も饒舌になり、今までの武勇伝や羌族のことを語り出した。
このような武者と酒を酌み交わすのはなんと久しぶりであろうか。
周瑜はなんとなく楽しい気分になった。
夜がふけてもそれは続き、何時の間にか眠ってしまった。
周瑜はここのところの疲れから、深い眠りに落ちていた。
外の雨は一向にやむ気配はなかった。

夜中にふと、目を醒ますと自分のすぐ隣に馬超が寝息を立てていた。
酔ってよく思い出せないが、馬超が自分に寄りかかってきた事は覚えている。
その腕が自分の肩に覆い被さるようにして眠っていた。
・・・・まるで抱き合っているかのようではないか。
その馬超の腕をそっとはずした。
「公瑾どの」
「……・起きておられたのですか」
「おぬしは曹操という男に逢うたことがあるか」
「・・・ええ」
「どう思われた?」
「・・・・強引で強い指導力を持つ男だと思います」
「そうか・・・・おぬしほどの男だ。おそらく曹操もちょっかいをだしてきたのではないかと思っていた」
「・・・・・」
馬超は今しがたどけられた腕を再び周瑜にまわし、その頬に触れた。
「頼む。俺に力を貸してくれ・・・・」
「も、孟起どの」意外なしぐさに周瑜は慌てた。
「俺は酔うて、おぬしにおかしなことをしたかもしれぬ。許されよ。・・・おぬしが美しすぎるせいだ」
「・・・お戯れを申されますな」
「すまぬ。・・俺はどうかしている。公瑾どの・・・」
そう言うとまたすぐ眠りに落ちて行った。
周瑜はその馬超を黙ってみていた。
雨音に交じってわずかに嚊が聞こえ始めた。

次の朝、周瑜に別れを告げ、馬超は陣を発っていった。
曹操を討つ、という新たな目標を得た周瑜はその伴侶となるはずの馬超を頼もしく見送った。
雨はすっかり上がっていた。



(23)へ続く