(一)使者




曹操に追われて夏口へ逃げ延びた豫州の牧・劉備玄徳の使者を魯粛が連れてきた。
周瑜は柴桑の孫権軍の駐屯している幕舎の一室でこの使者と会うことになった。
曹操に対し、孫権軍を巻き込んで戦おうというつもりなのだ。先日も周瑜が留守の間に孫権に謁見し、開戦を促したという。
魯粛が同席しようと言うと、使者は二人きりで会わせて欲しい、と要望を出した。

「失礼致します」
「どうぞ」
通された男は灯篭がほんのり明るく照らす部屋の真中に、歩を進める。
穏やかな物腰のその男は自分の顔が隠れるくらいの大きさの白い羽扇を持っていた。
「諸葛、孔明と言います。孔明とお呼び下さい、周中護軍殿」
背の高い男だ、と周瑜は思った。
軍師にしては立派な体格をしている。
口髭をたくわえた端正な顔。それにこの目の光。まだ若いが只者ではないことは一目で知れた。
油断をしては決してならない相手だ、と周瑜は自分自身に警告を発していた。

「私のことも公瑾、で結構です。孔明殿」
周瑜は真中の席を差してそこへ座るように促した。
しかし、諸葛亮はそれには従わず、ずい、と周瑜の傍に歩み寄った。
彼はじっと周瑜を見つめた。
周瑜は少し構えて自分よりはるかに上にある相手の顔を見上げた。周瑜の目線は男の肩に届く程の高さにあった。
「…何か?」
「……」
周瑜は少し身を引いて、諸葛亮と距離を取った。
気付かれたか?
周瑜は不審な顔で諸葛亮を見た。
「ああ…すみません。失礼をいたしました」
「孔明殿。お座りください。用件を聞きましょう」
「その前に…。少しよろしいですか?」
「何か?」
「あなたにお会いするまで半信半疑でした。この世にこのような美しい方が居られるとは思っておりませんでしたので」
「これはまた…何を言い出すかと思えば」
周瑜は苦笑した。
「私の気のせいでなければ、あなたからは異性の香りを感じるのですが」
周瑜は表情をこわばらせた。
だが少しの動揺も見せず、この背の高い男と対峙した。
周瑜は気にとめた風でもなく話を続けた。
「それは孔明殿の気のせいでしょう。私はそのようなものではない」
「……なにか事情がおありなのでしょうね」
周瑜はそれを無視した。
「ご用件を。孔明殿」


話し終えたあとも諸葛亮は周瑜を舐めるように見ていた。
(気に入らない男だ……)
このような不躾な視線を浴びることに、周瑜は慣れていなかった。

周瑜は魯粛を呼び、諸葛亮を孫軍の幕舎に案内するように命じた。
「お名残惜しいですがこれで失礼いたします」
そういって、背の高い使者は渋々周瑜の前から姿を消した。
周瑜はそれを見送って、一人唇を噛み締めた。
知られただろうか。
自らの絶対の秘密を。
周瑜は凌統を呼んで、彼に陣内を案内するふりをして始末せよ、と指令を出した。凌統は字を公績と言い、まだ二十才そこそこの若い武将である。
凌統は少し不思議な顔をしたが、直に納得して魯粛の後を追った。
どのようなことがあっても隠しとおさねばならない。
今更後には引けないのだ。


 一方、魯粛に案内されて外に出ようとしていた諸葛亮は、ふと思いついて足を止めた。
「魯粛殿。周中護軍どのは今年でおいくつになられるのでしょうか」
「さて、亡くなられた先代と同年だと聞いておりますので三十三歳でしょう」
「意外です。私より年下かと思いましたよ…もうずっとああして戦場に?」
「そうです。公瑾とは私も十年来のつきあいですが、あやつほど戦に長けている者はそうはおりますまい。江東随一の知将だと思いますよ」
「………」
「もしや孔明殿、彼の見かけに驚かれましたかな」
「……ええ、まあそんなところです」
「そうでしょうな」
魯粛は声をたてて笑った。
「私も最初は女かと思って口説きかけましたから。それも絶世の美女だと。声も高いし。ですが、あのような女はこの世にはおりませぬよ。仮に女だとしたらそれこそ宝玉をいくつ積んでも欲しいものです」
しかし諸葛亮は確信していた。

あれは男ではない。
孫権の第一の重臣にして知将・周公瑾はまぎれもなく女なのだ。

だが証拠は無い。
あるのは自分の勘だけだ。
それをどうにかして確かめねばならない。
どうするか…。
それにしても迂闊にしゃべってしまったものだ。
周瑜は警戒して自分を傍に寄せ付けないだろう。
もしかしたら、この事自体が周瑜の重大な秘密になるのかもしれない。
それを切り札に周瑜をこちら側に引き込み、孫権に開戦を決断させることもできるというのに。
いや、うまくすれば孫軍に対して有利に事を運ぶことも可能であろう。

しかし。
策略とは別の次元のところで、諸葛亮はふっと思った。

あれだけの美貌の持ち主がいて誰一人気づかぬとすれば、呉の武将達も大したことは無いな、と思う。
たしかに見かけからはそう断定はできないだろう。
あれでかなり気を遣っているようだった。
しかし、あの甘い体臭や色香までは隠しおおせていない。
息がかかるほど傍に立てば、それに気づくであろう。
ということは、周瑜はあまり人を傍に寄せ付けないようにしているのだろうか。
このことを、孫権は知っているのだろうか?
彼の考えではおそらく知らないのだろう、と思う。
先日直接言葉を交わした孫権の人となりでは、周瑜を女と知っていて、こうも最前線に立たせられるような主人ではないであろうと判断できる。
あれは優柔不断を絵に描いたような男であった。
おそらく周瑜の周りには数名の協力者がいて、彼らがその秘密を護らせているのだ。しかし、何故なのだろう。何故女などに軍権を任せなければならないのだろう?

「魯子敬殿」
「おお、公績。何か用か」
「はい。こちらが…劉豫州どののお使者の方ですか」
凌統の若い顔は好戦的な印象を与えた。
「諸葛孔明と申します」
「は…自分は凌公績と申します。幕舎にご案内するのであれば私が参ります」

諸葛亮にはピンときた。
「周中護軍殿のご命令ですか?凌公績殿」
瞬間、凌統という青年の眉がぴくり、と動いたのを諸葛亮は見逃さなかった。
「……はい。中護軍殿に使者の方をご案内するように申し付かりました。軍のことは魯子敬殿では不案内であろうと」
「幕舎への案内の他、何か申し付かって来ませんでしたか?」
「…何のことでしょうか?」
「たとえば私と二人きりになる機会を作れとか」
「おっしゃる意味がわかりかねます」
あきらかに凌統は狼狽している。
思ったとおり、この青年将校は周瑜の刺客なのだ。
これが秘密を握ったからだとすれば、彼の考えに間違いは無いということになる。
となれば、なんとしてでももう一度二人きりで会わねばならない。
「凌公績殿、ご好意はありがたいが私が軍を視察したところで孫軍のお力になれるとはうぬぼれてはおりません。あなたの大事なお時間を私のために割くような真似は本意ではありません」
諸葛亮の言葉に、魯粛は笑った。
「公績、気が利くのは良いがそのとおりだ。それに使者殿は少々お疲れのようなので軍の視察はまた今度にしよう」
「しかし」
「公瑾殿には私から言っておく。おぬしが怠慢をしたわけではないということをな」
凌統はバツの悪そうな表情を魯粛に向けたが、やがてそこから立ち去った。
諸葛亮はそれを見送って、魯粛に耳打ちした。
「魯子敬殿。お願いがあるのですが……」



周瑜は薄暗い部屋で一人座っていた。

「公瑾殿?おられるのですか?」
と部屋の外から声を掛ける者がいる。
「…ああ、子明か。お入り」
「使者の方は帰られたのですね」
部屋の扉からひょい、と顔を出したのは呂蒙であった。
呂蒙、字を子明。29才になったばかりであるが薄い無精髭が有る他はその印象は幼い。孫策の側仕えだった少年の頃からのたたき上げの武将である。周瑜は将来有望と見て側に置いてきた。
「何も…ありませんでした?」
「…なにを心配している」周瑜は苦笑した。
「いえ、別に…劉備軍の使者の男とお二人で会われたと聞いたもので。余計なことを申しました」
呂蒙は少し頬を赤らめて否定した。
「…ですが、見知らぬ男とあまり二人きりでお会いにならないほうがよいかと思います」
「そうだね…。気をつけるよ」
「そうしてください」
呂蒙は頭を掻きながら、周瑜の前に座った。

「…知られたかもしれない」
「は?」
「あの男に。私が女だということを」
「!」
呂蒙は愕然とした。
「確信はないが…おそらく気づいたのではないかと」
「何か、されたのですか」
呂蒙はおそるおそる訊いた。
「いや。間近に立たれただけだ。それで、異性の香りがする、とあやつは言った」
「………」
「おそろしく勘のいい男だ、あれは」
それを聞いて呂蒙は顔色を変えた。
しまった。もう少し気をつけていればよかった、と後悔した。
「それで先ほど公績に後を追わせたが、おそらくうまくはいかないだろうね。あの子は策略事には向いていない」
周瑜は目を閉じて溜息をひとつついた。
「俺がなんとかします。公瑾殿は何も心配なさらないでください」
「子明…」
「大丈夫です。俺に任せてください」
呂蒙は周瑜の腹心であり、秘密を知る数少ない一人でもあった。
「すぐに手を打ちますから。ご安心を」
呂蒙はそういってすぐに立ちあがり部屋を出ていった。


再び一人残された周瑜は過去に想いを馳せる。
「伯符様…」
ただ一人、その身を捧げた人の名を呼んだ。






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