(二) 邂逅
初めてその人と出会ったのは十歳の時だった。
舒県に住んでいた周瑜の噂を聞きつけ、会いに来たのだという。
活達とした雰囲気と少年ながらすでに立派な人物になると将来を予想させる整った容貌を持った少年、それが孫策であった。
周瑜の家は漢王室の重臣である三公を輩出した名門であった。
この当時、家柄の良さはすべてにおいて優遇されるものであり、周瑜はその周家の次女として生まれた。
しかし、家督である父が早くに亡くなり、周家を背負って立つと嘱望された長男が不慮の死を遂げると、周瑜は少女でありながら亡くなった兄のかわりに男として育てられるようになった。
勉学も良くでき、剣弓の稽古を兄としていたのを母親は良く知っていたからかもしれない。
傍流とは言え、跡継ぎの男子のいない家は衰える。
養子をとってはどうかと親戚の者は言った。
だが、周瑜の母は言った。
「我が家には跡継ぎと定めたこの瑜がおります。どうして養子など迎える必要があるでしょう」
周瑜の母は夫と長男の死んだ時に精神を病んでいたのかもしれなかった。
少女として生まれたときの名はあったが、既に名乗らなくなって久しい。
そんな周瑜と孫策は出会い、お互い何の意識も無く親友として親交を深めた。
孫策は周瑜を男だと思い、周瑜もそれを否定しなかった。否定する理由がなかった。
周瑜と孫策は義兄弟の契りを交わし、孫策の父・孫堅が黄巾族討伐の軍をあげると、その家族ともども舒に移り住むよう周瑜は進言した。
周瑜と孫策は家族ぐるみの付き合いをするようになった。
十四歳の時、孫策が父である孫堅の出兵に際し、初陣を飾ることになった。
孫策は周瑜にも一緒に来い、というのだ。
正直、周瑜は戸惑った。
いくら男と偽っているとはいえ、女である自分がついていっては、足手まといになるかもしれない。
そうやって態度をはっきりさせない周瑜をみて、孫策はイライラしていた。
孫策は周瑜がはっきりしないのは、周家の為に悩んでいるのだと思っていたからだ。
ある日、孫策は周瑜の室に従軍を決心させるため説得に行った。
「公瑾。一体おまえは何を悩んでるんだ? おまえ、俺と一緒に行きたくないのか」
「いいえ、そんなことはありません。私だって伯符と一緒にいたいです。でも…」
周瑜は困った顔になって言った。
「じゃあ、いいじゃないか。一緒に来れば」
「それが……そうはいかないんです。そんな簡単な問題じゃないんです」
そっとその綺麗な顔を孫策から背ける。
そのしぐさが、孫策の気に障った。
「いったい、なんだってんだ!黙ってないで言えよ!」
爆発したように大声で怒鳴る。
この少年は時々火のついたように怒る。そうなると親でも手がつけられないのだった。だが唯一この親友がなだめる時だけは別であった。
「もし言ったら……伯符はきっと怒るから」
「そんなの言わなくちゃわかんないだろう?」
「………」
周瑜は迷っていた。
ここで自分の正体を明かすべきかどうか。
騙していたわけではない。だが真実を告げる勇気がいままでなかった。
自分が女だとわかったら、孫策は自分を軽蔑するのではないだろうか。
そんな不安が周瑜の胸を締め付ける。
ふいに、孫策の腕が周瑜の肩にかけられる。
「なあ。家のことなんか後回しだろ?手柄を立てれば何も言われないって。それとも何か他に不満があるんなら言ってくれよ。俺のできることならなんだってするから」
孫策の朗らかな顔がすぐ傍にあった。
隠し事をしている、という後ろめたさはずっとあった。
だが、いつもこんなに身近にいるのに、少しは気がついてくれても良さそうなものではないか。
少しだけ理不尽な怒りが込み上げてきて、それが周瑜に決断をさせた。
「伯符…聞いて欲しいことがあるんです」
「なんだ?」
「伯符は…私と一緒にいて、何か気になることとかありませんか?」
「はあ?気になることって…?」
「たとえば、しぐさとか態度とか」
「そうだなあ、綺麗なことくらいかな?あと時々動作がちょっと女っぽいかな」
「………女っぽい?」
「うん。ほんの時々なんだけどさ。髪を結ったりするときとかすげー色っぽいんだ、おまえ」
孫策は悪戯小僧のように笑った。
しばし間をおいて周瑜は口を開いた。
「……そりゃそうですよ。女なんだから」
「は?……今なんてった?」
「女だから仕方がないと言ったんですよ」
間があいて、孫策が口を開く。
「誰が?」
「今言ったでしょう?誰の話をしてると思っているんですか」
「まさか、おまえが?」
「その、まさかです」
「う、嘘だろ?」
「……本当です」
孫策は文字通り目を白黒させて驚いた。
「なんなら脱いでみせましょうか」
「い、いや、いい……」
孫策はどうしていいのかわからなかった。
周瑜の肩に置いた手もすばやく引っ込めた。
「…どうして私が一緒に行けないのか、これでわかったでしょう?」
そういって周瑜は立ち上がった。
「もうお帰りください。…そしてここにはもう来ないでください」
毅然とした口調だった。
「なんだよ…それ」
孫策はあっけに取られながらもその理不尽な言い草に抵抗を感じた。
「私が女だと知られた以上、これまでどおりに伯符とつきあえるとは思っていませんから」
孫策は立ちあがって、周瑜の肩を後ろからつかんで引き寄せた。
「俺が、そんな狭量な男だと思ってんのか!」
「……伯符」
「おまえが男だろうと女だろうと、俺にとっては親友にかわりないんだ。…そりゃ、さっきは驚いたけどさ。でも、俺にはおまえが必要なんだ!…公瑾、一緒に来い!」
「伯符…本気ですか…?」
孫策は頷いた。
「俺はおまえを女だと知ったからって態度を変える様な、薄情なヤツじゃあない。今までだってこれからだっておまえとは親友でいたいんだ」
孫策はそういって、一緒に従軍することを勧めてくれた。
涙が出るほど嬉しかった。
女でも、自分に必要だと言ってくれた孫策に感謝したい気持ちでいっぱいだった。
それに従って周瑜は男として従軍することになった。
そしてその三年後、孫策の父が亡くなり、長男である孫策が跡を継いだ。しかし領地もなく、まだ十七の少年だった孫策は寿春の袁術という将軍の元へと身を寄せることになった。
孫策の側にはいつも周瑜がいた。父の部曲(私兵)が解体される中、孫策を支えたのはこの美貌の友人であった。
しかし、ついに二人が離れなければならない時がきた。
きっかけは周瑜の病がちの母親が亡くなったことだった。
離れがたかった。
ここで別れればおそらくは二度と会えないだろう、という予感があった。
惜別の思いは二人とも同じであったが、周瑜は舒へと戻り、孫策は家族を江都へ移し、自分は曲阿へ身を置いた。
周瑜は周家の統領である叔父の周忠のもとへ召還された。
周家としては、帝から将軍職をいただいた孫堅が死んだことにより、孫家に対し膝を折る必要が無くなったのである。
叔父はもちろん、周瑜が女であることは知っている。
今まで周瑜を息子として育て上げた母親が亡くなったことにより、男でいさせる必要が無くなったのだ。
ひとつにはその美貌があった。叔父はどこか有力な家の男と周瑜を縁組させようと考えていた。
気の触れた母親はもういない。跡継ぎなど、周瑜が男子を産めば解決するのだ。
こうなると周瑜には断る術はなかった。
いくつか縁談があがって、そのうちのひとつの話が進んでいった。
やがて周瑜は呉にいる孫策に手紙を書いた。
そこには別れの言葉が書かれていた。
孫策はこれに激怒し、早馬を飛ばして周瑜に会いに出かけた。
突然の訪問に周瑜は驚き、また単騎で駆けてきた愚行を責めた。 相変わらずの男装だったが、その美貌は輝きをいや増していた。
久しぶりの再会に、孫策は有無をいわさず周瑜を両腕に抱きしめた。
その腕に抱く感覚は、周瑜が女であることを物語っていた。
孫策は昔のような親友への感情から、えもいわれぬ暖かな感情が混じってきているのを感じて少しだけ戸惑った。
そして、強行軍で駆けている間ずっと心の中で暖め続けた言葉を口にした。
「俺は、おまえを貰い受ける」
「伯符様…?それは一体…?」
「俺の妻におまえを迎える」
「……」
「他の男になんか、絶対にやらない」
孫策の男らしい態度と言葉に周瑜は胸を打たれた。
女として、これほど嬉しいことがあるだろうか?
周瑜は身体を預けたまま、その言葉にしばらく酔っていたが、何事かを考えてもいた。
そして口をついた言葉は孫策がまったく予想しなかった返答だった。
「…伯符様。どうかそれだけはご勘弁を」
自分の耳を疑った。
好かれている、という自信はあったのだ。
すぐに返答できなくても強引に奪ってしまおうとまで考えていた。
なのに腕の中の周瑜はなぜ自分を拒むのか。
なによりその理由を知りたかった。
「…だれか他に、思う男でもいるのか……?」
答えを聞くのが怖い質問をしてしまった、と思う。
「いいえ、そうではありません。私は、伯符様のお役に立ちたいのです。それには妻という立場は相応しくありませんから」
「はあ?」
何を言っているんだ、とばかりにいぶかしげに周瑜を見つめる。
「伯符様は私をまだ以前と同じように親友だと思ってくださるでしょうか」
「もちろんだ。そうでなければここへ一人で来たりはしない」
「私は女としてでなく男として伯符様と知り合いました」
「…何が言いたい」
「私はこれまでどおり、親友の周瑜として伯符様にお仕えしとうございます。ですから男として扱っていただきたいのです」
「だって…おまえ」
「ありがたい仰せだとは思いますが、こればっかりは私の好きにさせていただきたいのです」
孫策の内心は複雑だった。
何と言っても自分はまだ未熟で、妻を持てるような身分とは言い難い。
それを知って周瑜はそう言っているのだろうか、とも思う。
だから、孫策はここへ来るまでの道中、なんといって切りだそうか、とそればかり考えてきていた。
その血を吐くような想いを口にしたというのに、目の前にいる男の格好をした想い人はそれを無かった事にしようとする。
「おれが…どれだけ考えてここへ来たと思ってるんだ。なのにおまえは!」
「すみません。伯符様のお申し出はとても嬉しいのです。…夢のようなことだと。ですが私は妻より参軍として迎えられたいのです」
あっけに取られて、しばらく口が聞けなかった孫策は、抱いている腕を緩めて周瑜の顔をまじまじと見つめた。
「ほんとに…おまえはそれでいいのか」
周瑜の首がこくん、と頷く。
真っ黒な瞳の奥が少し揺れたような気がした。
なぜ女として生きることを これほどまでに拒むのか。正直、孫策には理解できなかった。
女として、望めば思う限りの贅を楽しむことも叶うであろうこの美貌の持ち主は。
ここでこうして再会するまでに、何かあったのだろうか。
孫策はあくまで頑固な姿勢を崩さない周瑜にあえて聞くことをしなかった。
「…俺は妻にするならおまえしかいないと心に決めている。今は駄目でも俺が一国の領主になったら妻になってくれるか?」
孫策は周瑜の秀麗な顔を見つめてそう言った。
周瑜の返事はこうだった。
「私の望みは伯符様が中原の覇王となることです」
視線が交錯する。
孫策は無言のまま漆黒の瞳を見つめた。
やがて嘆息をひとつつき、
「…わかった。言い出したら聞かないもんな、おまえは。いづれにしろ俺の元に戻ってきてくれるのなら…構わない。好きにしろ」
周瑜は微笑した。
こういう大らかなところが、好きだ、と思う。
そうして孫策を改めて見た。
背が伸びた。
体つきもがっしりとして男らしい。
この腕に抱かれればさぞ幸せであろう、と思った。
そして何より周瑜を惹き付けるのは覇気のある両眼。
なんという立派な若者だろう。
この若者のために何でもしてやりたい。
周瑜は頬を少し染めながらほれぼれと見入っていた。
そんな思いが込められているとは知らず、孫策は自分の頭ひとつ分、下にある視線を受け止めていた。
「やれやれ、これでまだ当分、俺は独り身だということになったな」
「これから戦が続きます故、しばらくはそのようなことに構っていられないと存じますが」
周瑜は少し含み笑いをして言った。
「まったくだ」
孫策は苦笑した。
「つきましては、伯符様が兵力を回復するのに策を献じたいと思っておりますが、聞いていただけますか?」
「……おまえって可愛くないな。まあ、いい。聞かせろ、その策とやらを」
なんだか騙されたような気がしたが、昔からそういうヤツだったな、と改めて思う孫策であった。