(三) 罠



周瑜の室を辞した呂蒙は、軍の兵舎へ向かったという魯粛と諸葛亮の後を追った。
確証はない、と言っていた。
ただ疑問をもったに過ぎない。
証拠さえなければ、一笑に伏すこともできる。
だいたい、真実を語ろうが、信じるはずもない、途方もないよた話なのである。
おそらく魯粛たちは使者を兵舎に案内した後、ここへ戻ってくるだろう。
なんにしても、その使者とやらを二度と二人きりで周瑜に会わせてはならない。
呂蒙は堅くそう思った。


しかし、実は諸葛亮は兵舎には行かず、幕舎に戻ってきていた。
少々疲れたから、と言って戻り、魯粛に室を用意させたのだった。
彼は与えられた客室に戻り、一人であれこれと考えていた。
脳裏に浮かぶのはあの白面の美貌だった。
魯粛から聞いた話によると、周瑜には妻も子もいるという。
しかし、諸葛亮は自分の直感を信じていた。
なんとしても確かめねばならない。

そうして彼は動き出した。
そっと客間を出て、先ほど会談を果たした周瑜の室に忍び込もうと足音を忍ばせて回廊を歩く。
周瑜の室の前まで来ると、兵が一人立っていた。
たしか、先ほどまではいなかった、と思う。
一向に兵は立ち去る気配を見せないので、一旦は客室に戻ろうかと思った。
そのとき回廊の反対側から足音がした。
諸葛亮は角に身を潜め、様子をうかがった。
先ほど別れた凌統である。
彼は室の前に立っていた兵を下がらせ、室に入っていった。
(……やはり、そうか)
諸葛亮は自分の直感の正しさを今更ながらに確信した。

しばらくして、凌統が出て行った。
その隙にすばやく滑り込むようにして、室に入った。
薄暗い室には香が焚かれているようだった。目眩をおぼえるような芳しい香りだった。
灯りが室の隅に燈され、その人の影を室の中に落としていた。
「……」
その人は自分に背を向けている。
気配を殺して近づくと、美貌はゆっくりと振り向いた。

「…なにかご用ですか?使者殿」
薄明かりに照らし出された白い美貌に、おもわずごくり、と喉を鳴らしてしまう。
彼はその妖しいまでの美しさに、なぜか息苦しさを感じ始めていた。
「……ご存知でしたか」
「誰何もせず、人の室に勝手に入られるとは礼儀をご存知ないとみえる」
諸葛亮は姿勢をただし、自分の方に向きなおる周瑜を前に、少し緊張した。
凌統から自分が戻っていることを聞いて、予想をしていたのだろう。
「失礼とは思いましたが、こうでもせねば二人きりでお会いにはなっていただけないかと思いまして」
「……私にはもうお話することはありませんが」
周瑜はそっけなく答えた。
「私にはあります」
「ほう。開戦か否か、ということですかな」
「…それもあります」
「他に何か?」
「…あなたが女性か否か」
「………馬鹿なことを」
周瑜は口元だけを歪めて笑った。
「…私にはあなたがどうしても女性に見えるのです」
「否、です。孔明殿」
周瑜はきっぱりと言った。
「万一、ですよ。万が一にもそういうことがあったとしましょう。それがどうだというのです?私が女だとして、それが何だと?」
「……女性が自分たちの総大将だとわかって、果たして兵たちが言うことをきくでしょうか」
「さて、それが弱みになるとおっしゃる?」
「それはなるでしょう。軍としての士気にかかわると思いますが」
「そうなるかどうかはわかりませんが、もしもの話をここでしてもらちがあきません」
そういって、涼しげに笑う。
諸葛亮はその妖艶な笑みに魅了された。
我知らず、腕を伸ばしていた。
周瑜の目の前に座した身体を乗り出し、おもむろに周瑜の両肩を掴む。
「何をなさる!」
「確かめさせていただきたい」
見かけよりずっと力が強い、と周瑜は感じ、瞬間怯えた。
その負の感情が顔に出たのを諸葛亮は見逃さなかった。
「……私が怖いですか?」
息がかかるほど近くに顔を寄せ、囁く。
「男というものがどんなものかご存知ですか…?」

なぜ、こうも残酷な言葉を自分は吐いているのだろう。
…なぜ、こんなにも征服欲をそそられるのだろう。
諸葛亮は自分の中にこのような一面があったことに密かに驚いていた。
「あなたは女なんでしょう?……このような美しい唇をして」
諸葛亮はこれまで自分が人に対してこのような容赦のない感情を駆り立てられたことはなかった。
それは掴んだ美貌の肩があまりにも華奢だったからかもしれなかった。

「私を謀るのですか」
「いいえ。私はただ、真実が知りたいだけです」
諸葛亮は周瑜の肩に置いた手に体重を掛けるようにして力を込める。
「痛っ……」
周瑜の顔が苦痛に歪む。
体勢を崩してそのまま後ろに倒れ込む。
諸葛亮の身体が周瑜の上にのしかかる格好になった。
「言っておしまいなさい。本当のことを。そうすればこれ以上酷いことをしなくて済みます」
「うっ……」
倒れた拍子に冠が取れ、結い上げていた髪がほどけて床に広がった。
白い喉が目の前になめらかな曲線を描き出す。
その様子は息を飲むほど美しい。
諸葛亮は我を忘れてその様子にうっとりと見入っていた。

「……美しい」
口をついてでた言葉は無意識に反応した心の声だった。

それでも周瑜は口を堅く結んだままだった。
「強情ですね……。身体をあらためさせていただくしか方法がないようだ」
諸葛亮は両手を周瑜の両襟にかけた。
白い胸元がちらりと覗く。
諸葛亮はふと手を止めた。
自分は何をしようとしているのだろう?この衣の下に己の願望があったとしたら、今それを手に入れてしまいたくなるのではないか?
…それでは目的を見失ってしまう。
しかしこの強烈な誘惑に勝てる自信がなかった。
周瑜を見つめたまま、諸葛亮は己の中の欲望と戦っていた。
芳しい香りに美貌が揺れる。
周瑜が顔を背けたのだ。

……抗えない。これは己を誘惑に来た仙女なのか?
諸葛亮は口元だけでかすかに笑った。

その時、だった。
猛烈な勢いで扉が開き、背後で怒号が聞こえた。

「何をしておられるかっ!!」



その少し前―

呂蒙は回廊で凌統を見かけた。
「あれ?おまえ、兵舎へ行ったんじゃなかったのか?」
「ええ……そうなんですが実は……」
凌統はことの次第を話した。
豫州の使者が戻ってきている、と聞いてなぜか胸騒ぎを覚えた。
なぜ、兵舎に行かなかったのだろうか。
使者ならば同盟を結ぼうとする軍の実情を主に報告すべきではないか。
嫌な予感がする。
呂蒙は不審顔の凌統をその場に残し、回廊を周瑜の室へと急いだ。
先ほど念のために周瑜の室の前に兵を配置したはずだが、姿が見えない。
悪態をつきながらも周瑜の室の前まで来た時、中の様子がおかしいのに気がついた。
室の丸い格子窓の障子に人影が浮かび上がっているのだ。
だれかがわざと、灯りの位置を変えて中の様子を外に映し出させているとしか考えられない。

呂蒙は、はっと気がついて急ぎ声もかけずに室に入った。
中に入って愕然とした。
見知らぬ男が床に倒れた周瑜の上にのしかかっている。
瞬間、かっとなって大声で怒鳴っていた。



呂蒙は諸葛亮の肩を掴んで引きずり倒した。
「何をしておられたっ!?」
怒りのあまり、語気に力がこもる。

周瑜がゆっくり体を起こすのが目に入った。
呂蒙はそれへ駈け寄り、周瑜が起きあがるのを助けた。
「大丈夫ですか?」
「ああ……大事ない」
髪がほどけて頬にかかっている様は呂蒙でなくてもドキリとさせられる。
周瑜は乱された服の袷を両手で整えた。
そのしぐさを見て、呂蒙はかっ、と頬が熱くなった。
床に倒れた長身の男がいかなる破廉恥な真似を自分の大切な上官に対して行ったのかを悟った。
改めて諸葛亮に向けて怒りがこみ上げてくる。
きっ、と鋭い眼光を男に向けた。

「一体、どういうおつもりでこのようなことをなされたのか?事と次第によってはこの場であなたの首を刎ねることもできるのですぞ!」
怒気を伴って勢い良く吐いた言葉とともに、腰に帯びた剣に手をかける。
倒れたままの諸葛亮には言い返す言葉もない。
確かにあの一瞬、目の前の麗人に心を奪われ、本来の目的を見失っていた。
そこへこの武人の乱入だった。

諸葛亮は、もしかして嵌められたのかもしれない、とこの時になって気づいた。
凌統に命じたことが失敗に終わったと聞き、周瑜は手段を変えたのだ。
それにうまく乗せられて自分は見事にその罠に嵌まってしまった。
この室に入ったとき香が焚かれていた時点で気づくべきだった。媚薬が混じっていたのかも知れない。
いつもの自分らしくなく、色香に惑わされてしまったのだ…。
なぜなら周瑜はそのとき諸葛亮を見て、確かに微笑していたのだ。




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