江南を転戦していた孫策とそのころ中郎将の位にいた周瑜が、喬公の二人の娘の噂を耳にしたのは 早春のことであった。
「二喬、と言われているらしいな。江南随一という噂の美人姉妹らしい」
孫策はこのとき二十三歳。
白い歯を見せて豪快に笑う、活達な若者に成長していた。
同年の周瑜はその美貌に更に磨きがかかり、軍内でもちょっとした噂になっていた。
孫策のはからいで、あのときと変わらず周瑜は男として参軍していたのだが、その美しさは人の口に上らぬことがなかった。
「だが、どうかな。噂というものはあまりあてにはならぬものだからな」
昼は狩りに出て、夜は幕舎で周瑜と酒を酌み交わすことが最近の孫策の楽しみであった。
この日の夜もそうして、周瑜と二人でいた。
「おまえには及ばないであろう、と俺は思うのだがな」
ちらり、と目の前にいる周瑜に目をやる。
「では、ご自分の目で確かめて見られてはいかがですか」
「なに?」
「ユを抜いて、二喬をここへ連れてくればよろしい」
「略奪しろというのか」
「まあ、ありていに言えば、そうなりますね」
「……おまえ、何を考えている?」
周瑜は杯をあおると、一息ついて言った。
「伯符様にはそろそろ嫁をとっていただきたく存じます」
「……なんだと?」
孫策は口をあんぐりとあけた。
「何を言っている。俺を拒んだのはおまえのほうだぞ。それを棚に上げて俺に嫁を取れというのか」
「それは……」
「俺は、おまえを妻にしたいと言った。だがおまえは嫌だと言ったんだ。それで今度は別の女を嫁にしろと言うのか」
自分で言っているうちに怒りがこみ上げてきた。
孫策は杯を床に叩きつけた。
「どこまで俺を謀るつもりだ。そんなに俺が嫌いか!」
孫策は目の前の周瑜に掴みかかる。
「伯符様」
痛いほど両腕を掴まれ、引き寄せられた。
「この俺が、女ひとり自由にできないと思っているのか!おまえを蹂躙することくらい、いつだってできるってことを教えてやろうか!」
激情のままに口づけされ、息ができないくらい抱きしめられる。
「俺が、こんなに我慢しているのを、おまえが知らない訳がない。そうだろう?」
「伯符様、落ち着いてください、どうか……」
周瑜は孫策の強い腕のなかで喘ぐように哀願した。
「公瑾……なぜだ。なぜ俺を拒む」
孫策は周瑜の細い顎を捕らえ、自分の方に向かせた。
周瑜の胸がどきん、と鳴った。
少し、酔っているのだ、と思う。
「私だって、平気でこんなこと言っているわけではありません。しかし喬公の二人の娘のことはつとに有名です。あの曹操も娘を欲しがったといいます。
その娘のうちどちらかでも手に入れたとなれば伯符様の名に箔がつくというものです」
「箔だと!?そんなもの!」
孫策は怒りがおさまらないままに吠えた。
「俺は…俺は、ずっと昔からおまえが好きなんだ!どうしてそれがわからない?」
「わかっておりますとも!わかっているからこそ私は伯符様のお傍にこうしていたいのです!」
周瑜の細い指が、孫策の衣を掴む。
「伯符様、私の願いはあなたがこの国の覇王となられることです。お忘れですか」
「……」
孫策は周瑜を戒める手を離した。
周瑜はやっと解放されて、一息つき、襟を正した。
今の孫策には色恋よりも国土を持つこと、領土を広げること、それが優先される興味のすべてであることを周瑜はよく心得ていた。
孫策はその周瑜をじっと見つめた。
「なあ、教えてくれないか。おまえはなぜ女として生きないのか」
「……自分でもわかりません。きっと私の魂は男として生まれてきたのでしょう」
「そうはいうが、おまえはさっき平気ではないと言ったではないか」
「……はい」
「俺が嫁を取ったとして、おまえはどうするんだ」
「私のことなどお気になさいますな。心配せずともこの身は一生伯符様に捧げるつもりでおりますから」
じろり、と孫策は周瑜の顔をねめつけた。
孫策は座り直して、床に叩きつけられ割れた杯に目をやり、酒瓶を取って直接瓶に口をつける。
酒が喉元を伝い、夜着のはだけた胸に一筋落ちていくのが見えた。ひとしきり飲んだあと、口元を拳でぐい、とぬぐう。
その動作のひとつひとつが、いかにも男らしい。
周瑜はその一挙一動から目を離せずにいた。
一息ついて、孫策は自分の前にある切れ長の双眸を見つめた。
「よかろう。おまえの思うとおりになってやる。だが、条件がある」
「条件?」
「そうだ。今宵から俺が二喬を連れてくるまで、毎晩おまえを抱かせろ」
「……!」
「そうでなければおまえの言うことなんぞ金輪際きかん」
周瑜は困ったような、複雑な顔をした。
普段あまり感情を顔に出さないため、孫策はそれを面白そうに眺めていた。
「どうした?嫌なのか」
「いいえ……伯符様がお望みなのなら……」
「こっちへ来い」
呼ばれるままに、周瑜は従った。
肩に腕を置かれると、周瑜は体を硬直させた。
「ふっ……おまえ、怖いのか?俺が」
「……いえ。そんなことは」
孫策は周瑜の体を引き寄せ自分の腕の中に抱いた。
「いつまでもつかな?俺は優しくないぞ」
そういうと、周瑜の衣の胸元を開いて手を中に滑り込ませた。
乳房に直接手が触れる。
「あっ……」
周瑜の口から聞いたことのない声が漏れた。
孫策はにやり、として周瑜の首筋に唇をあわせた。
「もっと聞かせろ……」
二喬が連れてこられたのは、夏も終わりの季節だった。
主だった武将が居並ぶ広間の真ん中に、孫策に謁見するために大広間の真ん中に少女が二人、座らされていた。
そこにいた武将のほとんどがため息をつくほど美しい姉妹であった。
「なるほど。姉が大喬で妹が小喬というわけか」
当然のことながら、孫策のそばには周瑜が控えていた。
孫策は二喬と周瑜を交互に見た。
「どうだ?公瑾。美しい姉妹ではないか」
「はい。そう思います」
我ながら、しらじらしいな、と周瑜は思う。
この数ヶ月、周瑜は孫策の妻だった。
二喬がこなければいい、と思ったこともあったくらい幸せだった、とも思う。
夕べもいつものように孫策の寝所へ周瑜は呼ばれた。
約束どおり今宵が最後だ、と言って自分を抱いた孫策の情熱は忘れられない。
周瑜はふと昨夜のことを思った。
「女に言わせれば不実であるか」
褥で孫策はそう言った。
「だが俺はそんなに器用な男ではない。二喬には悪いが俺の気持ちはおまえの上にしかない」
「伯符様、それは秘め事です。お忘れになってはいけません。決して」
孫策は笑って「わかっている」と言った。
「公瑾、俺は決めた。俺が覇王になったらおまえの夢が叶うのだろう?ならばそのとき俺の夢も叶えてくれ」
「はて……伯符様の夢とは?」
「俺が覇王になったらおまえを俺の玉座の隣に座らせたい」
周瑜は微笑した。
「ようございます。そのときになって奥方が何と言われるかわかりませんが」
「俺のやることに口出しはさせん。昔から、俺を止められるのはおまえだけだ。そうだろう?」
孫策は心地よく笑った。
自分を安心させようとして、方便を言っている。
周瑜にはその心遣いが痛いほどわかった。
妻を娶っても自分を愛妾にするとは言わない。
妻と定めているのはおまえだけだぞ、と言っているのである。
周瑜は、だが女として、もう一人の妻になる女のことを考えずにはいられない。
その女が美しいだけでなく聡明であるように、と願った。
「連れて行け」
二人の佳人は奥に連れて行かれた。
「俺は大喬の方が好みだな」
「ではそのようになされませ。婚儀を挙げる準備を整えさせます故」
「妹はどうする?」
「では私が引き受けましょうか」周瑜は笑って言った。
そんなことができないことくらい承知している故の笑みであったが、周りの武官たちは本気にしてしまったように見えた。
周瑜は二喬にこのことを伝えるために二人のいる奥の部屋に入っていった。
入っていきなり、二人のうち一人が周瑜に飛びかかってきた。
その手には短刀が握られていた。周瑜はそれをなんなくかわして短刀をもぎ取る。
刀を取られた少女はもんどりうって倒れた。
「こんな扱いを受けて、無様に生きていくなど耐えられません、いっそ殺しなさい!」
倒れた少女は目に涙をためて叫んでいた。
たしか妹の方か。
姉に助け起こされて、さめざめと泣く。
「……申し訳ありません。妹は気が動転しているのです。お許しを!どうか処罰なさらないでください!」
姉の大喬は妹をかばって必死だった。
周瑜はしゃがみこんで二人の前に片膝をついた。
「あなたが大喬……お姉さんですね?あなたは殿、討逆将軍殿に見初められました。お喜びください」
大喬はそっと目を伏せ、頷いた。
「私は構いません。ありがたくお受けいたします。ですが妹は……」
「お姉さま!私は嫌!嫌ったら嫌なの!こんなところ、早く出ましょうよ!」
「我が儘をいうものではないのよ。私たちはもう既に孫軍の虜なのです」
それを聞いて周瑜は苦笑した。
(虜、か…)
困ったように姉は妹を諭す。
「いつだって女は戦の道具なのよ!私はそんな生き方なんかまっぴら!お姉さまはそうやっていつまでも男に媚びて生きてゆけばいいのよ!」
これにはさすがに周瑜も困った。
二喬のうちの一人がこんなに気性の激しい女だとは聞いていなかった。
いくら美しくてもこれでは……。孫策が姉の方を気に入ってくれて良かった、と思った。
仕方なく、周瑜は侍女に姉の方だけを別室に連れて行くよう命じた。
部屋には、周瑜とまだ悪態をつき続けて泣く小喬だけが残された。
そばに寄ろうとして歩を進めると、彼女は激しく拒絶した。
周瑜は構わず手布を差し出し、小喬に渡した。
「さあ、いつまでも泣くのはやめなさい。せっかくの美貌が台無しになる」
小喬は自分の目の前に膝をつく者の顔を初めてまともに見た。
その美しさに一瞬見とれ、泣くのを忘れた。
こんな美しい若者を見たのは初めてだった。
「あなたは……誰?」
その問いに周瑜は微笑みを返した。
「私は周公瑾。孫将軍の部下です」
小喬は、周瑜の名を聞いたことはあった。たしか、美男で名高い、孫将軍の腹心の部下だったはずだ。
「私の元へ来ますか?」
小喬はとたんに不安な顔になった。
「安心なさい。私はあなたを娶ることはできませんから。あなたがいつか好きな人ができたらそのとき出ていけばよい」
目の前の男が何をいっているのか、小喬には理解できなかった。
そんなうまい話があるわけがないではないか。
「なぜ?そんなことをおっしゃっるの?私を略奪しないの?他の武人のように」
「それは私が……」
なぜか周瑜はこの少女の前では嘘がつけなかった。
「私があなたと同じ女だからですよ」
小喬が驚いたのは言うまでもないことだった。