ハ陽湖のほとりで釣り糸を垂れる者がいた。
「こんなところで釣りですか」
通りかかった男が尋ねた。
釣り人は振り向きもせず答えた。
「大物がかかるのを待っているのですよ」
声は凛としていた。
男は興味を覚えて釣り人の隣に腰を降ろした。
「……あなたは呉の人ですか?」
釣り人は深く被った藁の帽子で顔をみせずにそう訊いた。
「いいえ。私は襄陽の者です。こうして諸国を見聞して廻っているのです」
「ほう。それはそれは。なにか見るものはありましたか?」
「まあ、いろいろと。向こうに見える大船団とかね」
釣り人は男が指差す湖の向こうにかすかに見える船の影を見た。
「…他国の間者だと思われて投獄されるかもしれませんよ」
「他国というと曹軍のことでしょうか」
「曹操は河北を制圧したようですからね。次は南に目を向けるのは自然なことです」
今、この大陸では中原を統一すべく、覇権を争う者がいる。
帝を擁する曹操。字を孟徳という。
宦官の血を引き、その強烈なカリスマ性を持って多くの知将・猛将をその幕下に置き勢力を伸ばしてきた。
目下その曹操に立ち向かえる唯一の勢力と目されているのが、江東・江南を支配下に置く孫権である。
今この二人がいるのはその江東の地であった。
「そうなるとまず荊州が危ないですね」
釣り人が言った。
「荊州には今劉備という食客が来ていますよ」
男が言う。
「劉…」
劉備。劉皇叔とも呼ぶ者がいる。
字を玄徳というこの男は、嘘か誠か、漢室の血を引くという。勢力というにはあまりにも小さいが、なぜかこの男の元には人が集まる。
戦場にでると恐ろしく強いという義兄弟がいることでも有名である。
「老い先短い劉表の心を捉えておりますよ」
男がそう言うので、釣り人は帽子を取って顔を男のほうに向けた。
お互いに顔を見合った形になった。
そして、お互いに笑い出した。
「……やはりあなたでしたか」
釣り人が声を掛ける。
「あなたこそ、このようなところで何をしていらっしゃるんですか」
男の方はもう笑ってはいなかった。
「釣りだなんて。刺客にでも襲われたらどうするつもりなんです」
釣り人はくっく、と笑って自分の後ろに視線をやった。
男はその視線の先に一人の武官が控えているのを確認した。
「だからって、無防備すぎませんか」
釣り人は男をじっと見詰めた。
「あなたが刺客ということではないでしょうね?」
「…よしてください。そんな美しい顔で睨みつけるのは。あなたを殺すだなんてできるはずがないでしょう?」
男のやぼったい顔が赤くなった。
「士元殿。このまま呉に留まりませんか」
「…お言葉は嬉しいですがあなたのためにも私は荊州にいた方が良いでしょう」
「荊州はこれから戦の中心になりますよ」
「…公瑾殿。あなたはいつまで戦い続けるおつもりですか?」
「どうしてそんなことを?」
男はホウ統、字は士元。今は荊州にいる識者である。
釣り人は周瑜、字を公瑾と言う。たぐいまれな美貌を有する武人であった。
「なぜ柴桑に戻らないのですか?」
「なぜ…?ご覧のとおり水軍の訓練のためですよ」
「あなたの主の元にはちょっとした波乱が起こっているはずですが…」
「波乱?」
その時ちょうど問いかけた周瑜の後ろに控えていた武官が近づいてきた。
「中護軍殿、そろそろ戻りませんと」
「ああ…もう時間か」
周瑜は竿を引き上げて立ち上がった。
「やれやれ、ちっとも釣れなかったよ」
苦笑して周瑜は武官に竿を渡す。
「大物を釣り上げるにはいま少し準備が必要のようですな」
ホウ統が言う。
周瑜はそれに頷いた。
「書簡をお送りしますよ。あなたに荊州の情報を差し上げたい」
「ありがとうございます。…お気をつけてお戻りください。荊州が陥落しても私の水軍が止めて見せましょう」
ホウ統は軽く会釈をして、その後姿を見送った。
「周中護軍殿はおられますか?」
ハ陽湖の陣にいた周瑜に柴桑からの使者が来たのは夕方近くになってからであった。
「…波乱というやつの正体がこれでわかるのかな」
ホウ統の言葉を反芻し、周瑜は緊張感のないまま使者の持ってきた書簡に目を通した。
周瑜が使いを帰した時、ちょうど呂範が入ってきた。
「何かあったか?」
「魯子敬からです。客人が待っているので私に柴桑へ来いと」
「客?」
「子敬が連れてきたらしいですよ。あの劉備の元から」
周瑜の口は皮肉たっぷりにまわっていた。
「ほう。それで?君はいくのかね?」
「さて、どうしましょうか。返事はしていませんが」
「これは私の勘だがね。じきに殿からも召還命令が来ると思うよ」
呂範、字は子衡。
周瑜と同じく孫権に仕える武官である。
彼は周瑜のよき理解者である数少ない人物の一人である。それ故に、他の人間には見せない素顔を見せることもある。
呂範の歳は周瑜より上だが、見た目は若く見える。身なりには相当気を遣っているようで、周瑜にはそれが面白くて仕方がない。
「公瑾、気をつけた方がいい。夕べ私のところにも柴桑から使いがきてな。その劉備の使者とやらが柴桑の城で文官達を相手に随分と論戦したようだ」
「論客なのですか、その使者は」
「舌先三寸、というやつだな。論破された連中は皆青くなっておろおろしていたらしい」
呂範はそう言って、くっくっく、と笑った。
「へえ。それは興味がありますね」
「そういうだろうと思ったよ。では行くんだね」
「殿に呼ばれたら戻らないわけにはいかないでしょう」
周瑜がそう言うのに対し、呂範は少し間をおいて口を開いた。
「曹操が、大群を持って南下してくる。使者の用と言うのはそれだろうな」
「そうなったら子衡殿、あなたのあの派手な船団の出番だと言うわけですね」
頬杖をつきながら笑って言う周瑜の態度は少しも真面目だとは思えない。
「余裕だな。なにか考えでもあるのか?」
「さあ」
「隠すな。江東随一の知将と言われたおまえだ。なにか策があるのだろう?」
「子衡殿は買かぶっておられる。私はそのようなものではありませんよ」
その時、部屋の外から声がした。
「文嚮か。お入り」
その声を受けて部屋に入って来たのは、鎧姿の武官だった。
徐盛、字を文嚮という。
浅黒く日焼けした精悍な面持ちの男は、この十年近く周瑜の傍を離れない武官である。
「柴桑のご主君からの早馬が到着致しました。すぐに戻られるようにとの仰せです。いかがいたしましょう」
徐盛は使者の携えてきた書簡を渡した。
「ほら、言ったとおりだったろう」呂範がそう言ってニヤニヤと笑う。
周瑜はその書簡に目を通し、同じ目で徐盛を見た。
「三日後にお目にかかる、と伝えてくれ」
「は」
返事を貰って徐盛が部屋を辞すると、呂範は周瑜の方に向き直った。
「……今も時々、あの方のことを思い出すことがある」
周瑜は呂範の口から「あの方」の名前を聞きたくなくて、そっと目を逸らせた。
「……」
「あの方がいなかったらこうしてここにいなかった。…君には思い出すのはつらいかもしれんがな」
「いえ」
「今の君を支えているものは一体なんだ?」
呂範は周瑜の心を見透かすように言った。
「…妄執…」
「ん? なんだ? なんと言った?」
「子衡殿、私は義を重んじる者です。一度誓ったことは最後までやりとおしたいと思う。ただそれだけです」
「討逆殿の為、か」
「いいえ、孫呉の為です」
「いまのご主君に対して、とでもいうつもりか」
「当たり前でしょう」
「ふ〜ん……ま、そういうことにしておいてやろう」
「子衡殿は違うのですか?」
「私かね?私はもちろん主公のために尽くしているよ」
彼はニヤニヤして言った。
呂範は周瑜と同じく孫策が挙兵した頃からの忠臣の一人である。
周瑜はくす、と笑っただけだった。
呂範という男は人を食ったようなところがある。占いが趣味で、奇行が目立つ故に呉の文武官達からは浮いた存在になっている。
「まあ、とにかくがんばりたまえ。何故かはわからんが君が負けるとは思えないのでね」
「私を占ったのですか?」
「近しい人は占わないことにしているんだ。今のは私の単なる勘だよ」
「ふふ。勘ではありませんよ。私がこの江東の地で負けたことがないのはご存知でしょう」
「ああ、そうだな。君は常勝の将だった」
「曹操などにこの地を渡すわけには参りません。天の理、地の利、これらは私に味方するでしょう」
何があっても決して渡しはしない。
ここはあの方の領土なのだから−
周瑜はその言葉を呑み込んだ。
「では出立の準備でもすることにしましょう」
周瑜は机に手をついて立ちあがった。
それを機に呂範も立ち上がった。
「君の水軍訓練の成果は充分だ。あとは私に任せておきたまえ」
「そうします。あとはよろしく頼みます」
陣を出た周瑜は深呼吸をした。
あくまでも優雅な仕草であった。
その周瑜を見つけて徐盛が駆けつけてきた。
「中護軍殿」
「使者は帰ったのか」
「はい。出立の準備を致しますか。船の用意を」
周瑜はそれに頷いた。
「そのまえに夕餉にしようか」
周瑜の言葉に、いつも表情を崩さない徐盛の目がほんの少し笑った。
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