あれは孫権がまだ十七の時だった。
兄の軍に参加し江東を平定しながら城を落とし、ある城に数日逗留していた時のことであった。
夜中、ふと目が覚めてそのまま寝付けなくなり、気分を変えようと部屋を出た。
あたりは寝静まっている。
その静けさの中、庭をのぞむ通路に出た。
通路の桟に腰掛け、しばらく夜空を見ていた。
雲ひとつない暗い空の真ん中にぽっかりと月が浮かんでいた。
通路の向こう側から、誰かが歩いてくる。
こんな夜中に一体だれが?
月明かりだけが照らす通路の向こう側を見ていた。
やがて月光は、白い面を映し出す。
月光が反射し白く浮かび上がる衣服に袍を纏い、その表情は何も映していないように見えた。
「こう…きん…?」
髪を降ろしているところを初めてみた。
周瑜、公瑾。まぎれもなくその人だった。
孫権がひそかに憧れている、軍略の天才。
「仲謀殿…?どうしたのです?こんな時間に」
それはこっちのセリフだ、とも思った。
「ちょっと眠れなくて…公瑾こそ」
周瑜は少し笑って、自分も同じだと言い、孫権のすぐ隣に腰掛けた。
香りがする。
すごくいい香りだ。 まるで花のような…。
公瑾の香りなのか…?
そう思ってすぐとなりにある美貌を見た。
月光のせいだろうか。
孫権は胸が震えるほどの高揚感を味わった。
美形だということは今更取り立てて思うことでもなかったはずだ。
だが。
この人はこんなに綺麗だっただろうか。
妖しいほどの美しさがすぐ傍にあって、視線を向けることすら躊躇してしまう。
その紅い唇で自分の名を呼ばれる事にですら鼓動が早く感じるほど、孫権は気が動転していた。
自分の頬が赤くなるのを感じた。
「仲謀殿は頼もしくていらっしゃる。伯符様がよくおっしゃっておいでですよ」
「そ、そうだろうか?俺は……兄上みたいに強くないし、度量もないよ」
「伯符様と比べることなどおよしなさい。仲謀殿には仲謀殿の良いところがたくさんおありですよ」
周瑜に面と向かって言われるとなんだか気恥ずかしい。
「髪を降ろしてるせいかな、公瑾。おまえが絶世の美女に見えるよ」
話題を変えようとして振ったその話に周瑜は突然眉をひそめた。
「よしてください……そのような言われ方は嫌いです」
「あ、すまん……気を悪くしたのなら謝る。そんなつもりではなかったんだ」
嘘ではなかった。
このときの周瑜は孫権にはまるきり女にしか見えていなかった。
そしてその疑惑は次の夜に深まるのだった。
次の日の夜も、同じ時間に周瑜はそこを通りかかった。
そのときは部屋から少し出ただけで声をかけず、通路を通り過ぎる周瑜を見送っていただけだった。
ただの偶然かとも思ったが、その次の夜も、孫権は気になってやはり起きて様子をうかがっていた。
毎晩、一体どこへ行っているのだろう?
兄のところだろうか、と見当をつけて、ある晩周瑜が通る時間より早く、孫策の寝所のある棟に歩いていった。
通路の正面奥に、周瑜がいた。
孫策の寝所に入っていくところだった。
なんだやっぱりそうか、と引き返そうとしたとき。
「……」
かすかに漏れ響く声。
女の、喘ぐような。
「……」
これは……。
(公瑾の声……?)
だが、しかしこれは男の声ではない。
まぎれもなく女の声だった。
孫権は息苦しさを覚えた。
周瑜が兄の部屋に夜中に入っていった。
そして聞こえたあの声。
なにが、どうなっているのだろう?
考えられることは。
孫権は回廊から見える月を見上げた。
月光に浮かび上がったあの美貌。
あの周瑜ならば女であっても不思議はない。
男であれ、女であれ、あの美しさは性別を超えている。
迷わないはずがない。
ふいにあの美貌が蘇り、孫権の胸を締め付ける。
急に、そこに立っていられなくなり、足音を立てないように自分の寝所に戻った。
牀台に身を横たえ、今聴いた声の主を思い浮かべた。
「しかし、まあ、見たわけじゃない。あれだって公瑾のものかどうかわからないし。侍女を引き入れていたのかもしれないし」
知らずのうちに言葉になって自分の口をついて出た。
自分に言い聞かせているかのように。
そうしなければ、自分の鼓動が耳について眠れそうになかった。
朝になっても悶々としてよく眠れなかった孫権は、仕方なく起き出してまた兄の部屋の近くまで足を運んだ。
ちょうど、孫策が起きてきたところだった。
「おお、早いな、権。良く眠れたか?」
「はい……」
しかし、孫権の目が赤いのを見て、孫策は悟ったようだ。
「なんだ、枕が替わったくらいで眠れないとでも言うか?そんなことでは戦はできんぞ」
孫策は孫権の肩をぽん、と叩きながら笑った。
「出立の準備をしろよ。今日はここを発つからな」
孫策が孫権の脇を通り過ぎて行く。
「……!」
孫権は孫策の去ったあと、その場に立ち尽くした。
孫策とすれ違ったとき、月光の中で嗅いだ、あの香りがしたのだ。
心のどこかで、そうであってほしい、と思っていたのかもしれない。
あの美貌の周瑜が女であって欲しい、と。
「あのときから、おまえは兄上の物だったんだろう」
語り終えた孫権の目が周瑜を射抜いた。
周瑜は孫権の顔を見ることができなかった。
「もっともそのあとおまえが兄上と合同の婚儀を挙げた時、俺の疑惑は一時薄らいだんだがな。だが…兄上が今際にうわごとのように言った事で俺は確信したんだ」
孫権が話す内容は過去の事実として周瑜の胸の内に封印されていた。
しかし、孫権のいううわごととは?そんな話は聞いていない。
「おまえには言っていなかったが、兄上はあのとき、こう言ったんだ…」
「公瑾…おまえを幸せに、してやりたかった…許せ…と」
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