(十一)死顔



 時は建安五年。今より七年も前のことであった。
孫策は呉都にあり、相変わらず戦に明け暮れる毎日であった。

「何、公瑾に子が生まれたと?」
早馬が持って来た周瑜からの書簡にはそう記されていた。
「男子であるそうな。いや、わが軍きっての智謀と美貌を兼ね備えた中郎将どのの長男となればさぞ将来が楽しみでありましょうな」
一緒に報告を聞いた張昭や張紘らもこぞって周瑜の長男誕生を祝っていた。
だが孫策の場合は微妙にその喜び方に違いがあった。
周瑜の子、というが周瑜の妻の小喬に子が生まれたのだと皆は思っているのだが、実はそうではないことを孫策だけが知っていた。
周瑜の子といえば自分の子である。
さて、そうなったら早く会いたい。周瑜に会って、よくやったと言ってやりたい。
「男子か!公瑾の子ならば、我が子も同然だ。だれか、すぐに使いを出して、呉都へ来るように言え」
孫策は上機嫌だった。
「狩に行って来るぞ。大物をしとめて戻ってくるからな!」
そう言って、数人の伴をひきつれて出ていった。



巴丘の周瑜が呉都から受け取った知らせは不吉なものにすり変わっていた。

「討逆将軍孫伯符、重傷」
その文を持って来た使者は急ぎ呉都へ戻るよう周瑜に要請した。
周瑜には信じられなかった。
一体、何が孫策の身に起こったのか。

暗殺。

その言葉が周瑜の脳裏を走った。
昨年来、呉都で起こった争いや揉め事のことは聞いていた。
呉の太守・許貢の裏切りをつきとめ、処刑したという。
もともと、許貢というのは呉の豪族の一人であって、孫家に膝を折らなかった者の一人でもあった。
孫策の部下であり先代からの武将である朱治によって何度か蹴散らされてついに孫家に下ったのであったが。
その残された家族が仇討ちを図ったのだ。
孫策は狩に出かけている最中に襲撃に会い、毒矢を左の頬に受けたという。
周瑜は舌打ちした。
自分が孫策の傍にいれば。

「あの伯符様が……嘘だ、信じられない…」

子を産んでまだ一月もたたぬ周瑜は今だ臥床から動けずにいた。
難産であったことも影響して、周瑜の体調は最悪だった。
すぐに出立する、という周瑜を抑えるのに小喬も世話係の者たちも必死だった。
「およしになって下さい!今、この体で長旅などなさったら、旦那様のお命の方が危ないです!」
「放せ…!行かねば。伯符様のもとへ…」

また呉都から文が届いた。
「孫策、危篤」

周瑜はそれを見て、いてもたってもいられず、部屋を飛び出した。
小喬が悲鳴を上げる。
周瑜はよろけながらも前へ、前へ歩こうとする。
しかし、結局そのまま倒れて気を失ってしまった。
徐盛が周瑜を抱き上げて部屋の寝台に横たえる。
周瑜はうわごとのように、孫策の名を呼びつづけていた。

目覚めた周瑜が聞いた報告は容赦のないものであった。

「孫策・死亡」

「嘘だ。そんなはずはない。伯符様が死ぬことなど、ありえない!」周瑜は叫んだ。

この訃報にさすがの小喬も動揺した。
将軍が亡くなったとなれば、どうしても呉都へ戻らねばならないだろう。
この知らせがどうか嘘であって欲しい、と願うのは周瑜ばかりではなかった。
「とにかく、誰が何と言おうと私は呉都へ行く。真偽を確かめねば」
周瑜はそう皆に言った。

その周瑜に徐盛が進言した。
「では、軍を率いてお戻り下さい。おそらく都は混乱しているでしょう。もしかしたらこの機に乗じて不穏な動きをする輩がいないとも限りません。そのためにも絶対的な力を持って都に入られた方が皆も安心するでしょう」
周瑜は少し驚き、不快に思って徐盛を睨み付けた。
徐盛のいうことは理に叶っている。しかしそれは孫策が死んでいたら、ということである。
周瑜自身、認めていないことを徐盛はやすやすと口にしたのだ。
「…文嚮のいうことにも一理あるが、そんなことをしていては時間がかかってしまう」
周瑜はそう言ったが、実は徐盛の狙いはそこにあった。
一軍を率いては進軍もゆっくりになるし、到着するまでに時間がかかる。
少しでも周瑜の体の負担を軽くしようと思っての提案だったのだ。

結局周瑜は徐盛の提案を入れ、巴丘の居城と江夏の城に二万の軍を置いておき、小喬と生まれたばかりの赤子を伴い、五千の軍を率いて出立することになった。

呉都まであと数里のところまで来て、周瑜は先に馬を飛ばした。
どうしようもなく、心が乱れている。
手綱を握る手にいやな汗がにじむ。



呉都の、孫策の居城に入ると、あたりは嘘のようにひっそりとしていた。
孫策の死を知らせる文を受け取ってから三日が過ぎていた。
その様子に不信感を持った。
そして、家人が数名うなだれて表に出てきたところを周瑜が呼びとめた。
家人は驚いてすぐさま館の中に知らせに走って行った。
周瑜が案内されたところは堂だった。

堂の重い扉を開いて中に足を踏み出す。
青年の、泣く声が聞こえた。
薄暗い堂のなか、灯篭がいくつも灯され、その中央に横たえられている棺に取りすがって泣いているのは孫権だった。
「おお、公瑾殿…」
だれかが、言った。
その声に、孫権が顔を上げる。
ゆっくりと棺に近づく。
見るのが怖かった。
しかし。おそるおそる棺を覗き込む。
棺の中には狭そうに、孫策が横たわっていた。
「伯符、さま……?」
そっと、手を伸ばす。
孫策の整った顔の頬に触れる。矢の刺さった傷跡があった。
周瑜の手は、その跡を癒すように撫でる。

「こんなところで、何をなさっておいでなのです?」
周瑜の声は、のんびりとしているように聞こえた。
一年近く会っていなかったその貌を周瑜は愛おしむように見つめた。
「さあ、起きてください。私はあなたにお会いするために馬を駆けてやっとここまで着たのですよ?いつまでそうして寝ているんです……さあ」
棺の中の孫策に、周瑜は手を差し伸べた。

思わず、周瑜のまわりから嗚咽が漏れ出した。

棺の前で孫策に語りかけている周瑜の肩を孫権が掴んで揺すった。
「公瑾…兄上は、お亡くなりになったのだ!公瑾!しっかりいたせ!」
孫権は涙ながらに周瑜にすがりついた。
「伯符様が、亡くなった……?」
孫権に、周瑜は薄く笑いかけた。
「嘘です、だってここに……」
棺の中の孫策を周瑜は見つめた。

閉じられた目は開かない。
血の気のない唇は語らなかった。
いくら呼んでも返事はない。。
そこに横たわっているのは、周瑜の愛する男の屍だった。
「伯……符」
声にならなかった。

どうしたらいいのか、わからない。
このまま気がふれてしまいたい。
命を懸けてまで尽くしたいと思った人なのに。
死んだ? あの剛胆な若武者が?

信じられない。
信じられない。

周瑜のまともな思考が、やっと孫策の死を理解しようと動き始めた。
周瑜は棺からのろのろと立ち上がった。よろけようとする身体を孫権が支えた。

孫権は、周瑜の表情を見て、周瑜が泣く、と思った。
だが周瑜はこれまで一度も孫策以外の人前で泣いた事はなかった。
そして今日もそれは例外ではなかった。
周瑜は泣かなかった。
そのかわりうつろな目で、じっと孫策の死顔を見ていた。
まるでその目の力で生き返らせようとしているかのように。
孫権は周瑜の身体を支えながら、その目がもう何も見ていないことに気付いた。

周瑜の脳裏でいくつもの思考が交錯する。
到底受け入れられない現実に、必死で抗おうとしていた。

(なぜだ。

 (なぜ?
   (なぜ、一人で逝ってしまう?

(これまでの私はなんのために生きていた?
  (こんな結末を見るためではなかったはずだ。
    (なぜ、このようなものを見せる?

(なぜ……
  (なぜ私を置いて……私を一人にして……あまりにも酷い。
      一緒に中原に臨もうと誓ったのではなかったか。

(何もできなかった。
  孫伯符という男の為に命を懸けていたはずだった。
    なのにどうだ?
      
   一体私に何ができたと言うのだ・・・・!!


周瑜の心は張り裂けんばかりに血を流し悲鳴をあげていた。
まともな思考などできなかった。
考えるより先に感情が飛び出して、それがちりぢりになって霧散してしまう。
ふいに視力が無くなった。
周瑜は意図せず気を失ってしまっていた。
孫権は驚いて、周瑜の体をかろうじて崩れ落ちる前に抱きかかえるように支えた。
そのときの柔らかい肌の感触。
「公瑾……おまえは……」
堂の外で控えていた徐盛が飛びこんできて、孫権から周瑜を奪うように抱きかかえて外に連れ出した。



伯符様・・・・。

誰にも聞こえない小さな声で意識のないまま繰り返し呼んでいた。

その周瑜の頬はうっすらと濡れていたことには、誰も気づかなかった。





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