「なあ、公瑾。もし俺が死んだら、おまえはどうする?」
少年の瞳が周瑜を射る。
明るい、大きな黒い瞳。
「……なんでまた急にそんなことを言い出すんですか」
「だってさ、俺たちだって戦に出て行くんだし、ケガしたり病にかかるかもしれないんだぞ?」
周瑜は読んでいた書物を閉じて、孫策の方を向き直る。
「今からそんなことを考えても仕方ないと思うのですがね。……さあ、どうしましょうか?伯符が寂しくないように一緒に死んで差し上げましょうか?」
周瑜は本気で相手にしていなかった。
この溌剌で活達とした少年と死という言葉があまりにも似つかわしくなかったからかもしれない。
「馬鹿。おまえ、そんなことをしたら俺は絶対許さないからな!」
急に大声になった少年に驚いて目をみはる。
「自刃なんて、絶対ダメだ。俺はそういう死に方が一番嫌いなんだ」
「では、伯符は私に何を望みます?」
「何をって、決まってんだろ。俺がもし夢半ばで倒れたらおまえしか意思を継ぐものはいないんだぜ?」
「伯符の後を継ぐのは弟の仲謀どのだといつもおっしゃっているではありませんか」
「そりゃあ、城とか領土とか、そういったモンはそうなるさ。俺が言ってんのは理想とか思想のことだよ」
「理想?……思想ですって?」
意外な言葉を聞いた気がした。
この文より武に秀でた少年が思想だなどと。
「これから世の中はどんどん乱世になっていくだろう。弱者は殺されて強者の餌になっていく。じっとしていたらダメだ。食われる前に行動すべきだ。権はそういう類の武将にはならんだろう。俺の見たところ、あいつは守る戦に向いている。だからあいつじゃ俺の意思は全うできないんだ」
「伯符は強い君主になれそうですね」
「なるさ。だが強さだけではダメだ。おまえのように知謀がなくてはこれからの戦は勝ち残れない。だから、さ」
「……」
「俺の意思はおまえが継げよ。いいな?」
「そんなこと今から言われても困りますよ」
「だから万一のときのことさ。俺は絶対戦で死にたいんだ。戦って、戦って力尽きたい」
「伯符」
万一なんて、あってたまるものか、と周瑜は思いつつも頷いていた。
「わかりましたよ。だからもう死ぬ話なんてやめてください」
「遺言できなくなるときだって、あるかもしれないだろ?」
「本当に、もう…」
周瑜は呆れていた。
だが、目の前の少年はいたって真面目だった。
「な。頼んだぞ…!」
耳元で囁かれたような気がして、目が醒めた。
「お気がつかれましたか」
枕元で声をかける者がいた。
「文嚮か……私は気を失っていたのか」
「はい。将軍の棺の前で」
「……そうか。手間をかけさせて悪かった」
「いえ。あなたのことは将軍から頼まれております故。お気になさいませぬよう」
徐盛は孫策から周瑜を守るよう命を受けていた。そしてそれが彼にとっての遺言となってしまったのだ。
「……」孫策の館の一部屋に寝かされていたようだ。
「公瑾殿が倒れられたと聞いて、魯子敬殿がここを訪れられました。そのときにおっしゃっていましたが、将軍は忌の際に、弟君に後を託す旨伝えられたそうです。張子布殿に弟君の後見になるように、と。また外交に関しては公瑾殿を頼れともおっしゃっておられたとか」
徐盛の言うことに耳を傾けながら、胸に込み上げてくるものを感じた。
「……伯符様はお亡くなりになられたのだな……」
今更ながら、ひとり言のように静かに言う。
「はい。誠に残念なことながら……。先ほど呉国母様がいらっしゃいまして、葬儀を明日なさるということでございました」
「そうか」
周瑜は牀から上半身を起こした。
「屋敷に戻る。……すまぬが手を貸してくれ」
「は」
周家の屋敷に戻ると、小喬が出迎えた。
やつれた様子の周瑜を見て心配し、すぐさまその身を寝台に横たえた。
小喬は寝台の脇に座り、じっと周瑜の様子をみている。
ひどく心配そうにしていた。
「……すまないね珠。心配をかけたようで。すまないがしばらく一人にしてくれないか」
周瑜はうすく微笑んだ。
それからふと思いついて尋ねた。
「循はどうしている?」
「よく寝ております。手間のかからない良いお子ですわ」
小喬はせいいっぱい明るく気丈に振る舞っていた。
孫策との、子。名を循と名付けた。
誰も、知らない。
だが、今の周瑜は母である前に武将であった。
そのことを申し訳なく思うと同時に、その子を腕に抱くこともなく逝ってしまったかの人への思慕が募る。
一人になって、目を閉じる。
先ほどの夢は、死んだ孫策の魂が、周瑜に語りかけてきたのだろうか?
後を継げだなどと。
…勝手なことを。
「なんと……残酷な。伯符様。あなたは私だけを置いて、なぜいなくなってしまおうとなさるのか!」
嗚咽が漏れた。
喉の奥が熱く、痛い。
なにか大きな苦い塊を呑み込んでしまったかのようだ。
涙が頬を伝って耳元に流れた。
孫策がもうこの世にいないことを改めて認識する。
もう二度と、あの声を聞く事はないのだ。
自分を愛し、慈しんでくれた腕も、目も、唇も。
二度と、抱いてくれはしない。
強烈な喪失感が周瑜の全身を押し包んだ。
「伯符……」
嗚咽まじりに何度も何度も呼んだ。呼べばまだ戻ってきてくれるような、そんな気がした。
それが虚しくこだまするだけだとわかっていても、呼ぶことをやめられなかった。
周瑜はその涙を寝台に押しつけようとしてうつぶせになり、声を押し殺して泣いた。
その声は降り出した雨の音に混じって消えていった。
夜になって、小喬が来客を伝えに来た。
「旦那様、呂子衡様と子明様がお見えです。いかがいたしましょうか?」
涙の枯れた周瑜は寝台から起きあがり朦朧としていたところだった。
「よい、客間にお通ししておいてくれ。すぐに支度する」
呂範、呂蒙とも孫策と共にあのとき別れて以来だった。
髪を結い、身支度を整えて、客間に入ると、客人二人は客間に座し、前の卓には茶が出されていた。
「公瑾殿、久しぶりだな」
呂範のまず第一声だった。
「ああ、お二人とも、ご無沙汰しておりました」
「今日貴公が呉都に着いたと聞いて矢も盾もたまらず伺った。許されよ」
「いえ。良いのです。私のことを心配していらしたのでしょう?」
周瑜が二人の前に座する。
呂蒙はじっと周瑜の顔を見つめる。
「やはり……泣いておられたのですか」
周瑜は少しうつむき加減になって自分の顔を隠そうとした。
それからやや、目を逸らすようにして呂範は言った。
「堂の中で倒れたそうだな」
「そんなことまでご存知なのですか」
「弟君も心配されておりました。もう大丈夫なのですか?」
呂蒙は周瑜の顔を注意深く見ていた。
「……ええ。あのときは取り乱してしまって、徐文嚮に迷惑をかけました」
「……その、俺すごく心配してたんです。公瑾殿は…その……殿の大切な方であられたから……」
呂蒙が何を言いたいのかはすぐにわかった。
周瑜は含むように笑って言った。
「何の心配を? …私が伯符様の後を追って自害するとでも思ってか?」
「い、いいえ……!そんな……」
図星だったと見えて、呂蒙はあわてて周瑜から目を逸らせた。
「大丈夫。そんな愚かなことはしないよ、子明」
言ってから、孫策の言葉が耳に甦った。そしてそれをそのまま口にした。
「私はそういう死に方が一番嫌いなんだ」
呂範は咳払いをひとつした。
「ところで今後のことなのだが……公瑾、君はどうするつもりなのか?」
「どう、とは」
「皆、動揺しておるのだよ。なんといっても今の孫軍は討逆将軍の武勇を聞いて集まってきたものばかりだ。あの弟君では代りにはなれぬ、と言う者が多い」
「軍を去ろうという者もおるようです」呂蒙があとを続けた。
「一部の豪族が反乱を企てつつあるという話もきいている」呂範も腕組みをしてうなるように言う。
「ふむ」
周瑜は顎に手をあてて、それらの報告を聞いていた。
「……どうやら、もう泣いている暇はなさそうですね」
周瑜はすっくと立ち上がって言った。
「明日の葬儀のあと、仲謀殿の後継の儀を執り行います。二張公にもそうお伝えください。伯符様の広げた領土をひとつたりとも他者の手に渡すわけには参りません」
「しかし、将軍のいない今、君はそれで良いのか?女として……」
「子衡殿」
周瑜はピシャリ、と言った。
「女の私は伯符様と共に死にました。今ここにいるのはこの東呉を守るためにいる周瑜という男です。よろしいか」
しばし、その場に沈黙が落ちた。
「……わかった。もう余計なことは言わないでおこう。わかっていたことではあるが……君は……強いな」
呂範は苦笑、としか言えないような笑いを浮かべて言った。
周瑜は無言で微笑した。
孫策の意思を継ぐこと。
それが彼への弔いなのだと周瑜は思った。
(仕方がない。昔から伯符様には逆らえないんだ、私は)
ふ、と笑う。
その瞬間の周瑜を見ていた呂蒙はぎょっとした。
あまりにも妖艶な笑みであった。
(十三)へ