(十三)微香
「……それで、殿は私を女だとおっしゃるのですか」
「ちがうか?ここでおまえに裸になれということもできるのだぞ」
「……」
「葬儀の前、倒れたおまえを抱きしめたときのあの感触、俺は忘れない。あれが男のものでないことくらいわからねば、俺は男を名乗る資格がない」
周瑜は深くため息をついた。
「先ほど私を都督に任じたのは殿ご自身です。それを取り消されるのでしょうか」
「いや。そんなことを言うためにおまえをここへ呼んだわけではない」
「では……」
「俺は兄上とおまえの間に何があってこういうことになったのかは知らん。詮索するつもりもない。兄上がおまえに対して守ってきたことは俺も守ろうと思う…ただおまえに知っておいて欲しかったんだ。俺がおまえのことをずっと何も知らずに戦に出させていたわけじゃないということを」
孫権は上座から立って周瑜の前に来た。
蒼い双眸が周瑜を真正面から射た。
「おまえは兄上に……愛されていたのであろう。おまえの子、あれは兄上の子か?」
孫権の問いに、周瑜は首を振った。
「あれは周家の子でございます。それ以外の何者でもございません」
「…そうか」
「殿はただ、命じてくださればよいのです。戦に勝て、と」
「おまえらしいな、公瑾」
孫権は苦笑した。
「しかし……なぜそんなに戦にばかり行きたがる?おまえは参軍として後ろにいればよい。前線に出る必要などないだろう?」
周瑜はそっと目を逸らせた。
「殿は私を買いかぶっておられる。戦は生き物ゆえ前線にいなければその状況は知れませぬ。私の策はその程度のもの。陣中にあって思い通りに勝利を得られるような仙術のごとき謀は残念ながら持ってはおりません」
「公瑾。おまえは剣の腕も立つ。しかし猛将と一対一で戦っては勝ち目はないぞ。あまり前戦には出るな。今回おまえを都督に任じたのはそういう意味もある」
都督、それも大都督ともなれば、この孫軍の全権を任される大将である。
全軍の指揮を行い、部隊長クラスに指示をだす。
最前線に出て、将兵と戦うようなことはまずないのである。
「ご配慮、ありがたく存じます」
周瑜は頭を下げた。
「結局、おまえにまた頼らねばならぬのだな。意外に東呉も人材不足だ」
「そんなことはございません。文武兼ね備えた武将も多いと私は思います。ただ先代に仕えてきた私がその中では古株の部類なのだというだけでございますれば」
「公瑾」
「はい」
「俺は、おまえの主人としてふさわしいだろうか」
「つまらないことをおっしゃいますな。そうでなければ私は今こうしてここにはおりませぬ」
「……すまん」
「ご主君ともあろうお方が一介の臣下などにそのように謝るべきではございませんぞ」
「……おまえはいつも兄上と一緒にいた。俺を兄上と比べたりして、情けなく思ったりはしないだろうかと、そればかり考えていた」
「そのようなことを思ったことはございません」
「俺はいつもこうだ。いつかおまえに愛想をつかされるのではないかと、内心不安で仕方がなかった」
孫権は伏し目がちに周瑜を見た。
「おまえは俺に真っ先に忠誠を誓ってくれた。……少しはおまえに認めて貰っていると、自惚れてもいいのだろうか?」
「殿…自信をお持ち下さい。この周瑜の持論は仕える者が主君を選ぶ、ということでございます」
「俺は」
急に、孫権は顔を上げ、周瑜を正面から見つめた。
「公瑾、俺はおまえが……」
「殿」
孫権の言葉を周瑜は遮った。
「それ以上はどうか、おっしゃらないでください。周瑜は殿の御為、必ずこの戦に勝利してご覧に入れます」
周瑜は有無を言わせぬ力強さで、孫権の蒼い瞳を見つめた。
孫権は、周瑜の軍服を脱がせ、その姿にふさわしい美しい繻子の衣を纏わせ、できれば自分の隣に置いておきたかった。
だが、それが叶う相手などではないことは百も承知している。
それでも、彼は男として言わねばならなかった。
だが、一番言いたいことを遮られてしまった孫権は、しばらく黙っていたが、そのうち口の端に笑みをたたえ、それから大声で笑った。
「そうか。わかった。期待している。ところでおまえの副将には誰がよいか」
「……では徳謀殿を」
「程普か。たしかおまえとは折りが合わなかったはずだが、本当にそれで良いのか」
「こんな分の悪い戦では若い将兵に激を飛ばせる歴将が必要です。それに徳謀どのの用兵には学ぶべきものがあります」
「たしかにな。だが向こうは何と言うかな。きっとおまえにあたるぞ」
「承知の上です」
「それで……おまえの秘密を知っている奴は他に誰がいる?あのとき堂に飛び込んできた……徐盛か、奴は知っているのだな」
「はい。あとは呂子衡、呂子明の三名だけです」
「うすうす感づいている奴は他にもいるだろう」
「……おそらく」
周瑜の脳裏に豫州からの使者の秀麗な顔が思い浮かんだ。
「このままでいいのか」
「さあ。今は目の前の戦のことで頭が一杯でそのような余裕はありません」
周瑜はあっけらかんと言い放った。
孫権は苦笑した。
「相変わらずだな、おまえは」
「勝算はあるのか」
「つけいる隙はあります。勝てるかどうかはやってみないとわかりませんが」
「……あまり無理をするなよ。もし負けても……必ず戻ってこい」
「私は負ける戦はしません。勝機があると考えたからこたびは開戦に賛同致しました。あの使者の口車にのったわけではありません」
「……わかった。おまえにすべて任せる。吉報をまっている」
「はい。では」
孫権は立ち上がりかけた周瑜の肩を引き寄せ、両手で抱き締めた。
「殿……」
「必ず、戻ってこい。……いいな」
腕の中の周瑜は頼りないくらい細かった。
「公瑾殿」
孫権の館から戻ろうとした周瑜の背に声をかける者がいる。
「子明か」
「殿とのお話は終わりましたか」
「……ああ。大丈夫。子明が心配するようなことは何もないよ。文嚮も、いるのだろう?」
すると呂蒙の後ろから徐盛が姿を現した。
呂蒙は驚いて後ろを振り返った。
「なんだ、おまえもいたのか」
「二人とも私を心配していてくれたんだね」
周瑜は笑顔を二人に向けた。
その笑顔にあてられて、呂蒙、徐盛とも頬を朱く染める。もっとも徐盛はいつものように表情に出さなかったが。
「殿のお話って、何だったのです?」
呂蒙の問いに周瑜は笑って答えた。
「殿はご存知だったよ。なにもかも」
「まさか!」
「殿は私が思うよりずっと大きな器をお持ちだ。東呉は殿の元ならば繁栄できる」
呂蒙は少なからずショックを受けたようだった。
「そ、それで? 殿からのご沙汰は何かあったのでしょうか?」
「いや。ただ、任せるとおっしゃってくださった」
「……」
朗らかに笑う横顔を二人の男は見ていた。
「二人とも、私のところへ来るか?酒くらいなら用意させる」
呂蒙はしばらく考えてから答えた。
「いえ、遠慮しておきます。公瑾殿もお疲れでしょうから」
「そうか、残念だ……文嚮は?」
「都督のお望みのままに」
「ではついておいで。珍しく今日は気分が良いのだよ。うまい酒が呑みたいのだ。つきあっておくれ」
「は。仰せのままに」
そう言って徐盛は軽く呂蒙に会釈をすると周瑜のあとについていった。
呂蒙は徐盛も断ると思っていたので、その様子を見てムッとした。
「なんだあいつ。抜け駆けしやがって」
二人は先に歩いて行ってしまう。
しばらく二人の背を見送っていた呂蒙だったが。
風に乗って、微かに周瑜の香りがした。
「都督殿……」
呂蒙は思わず呟いた。
いつまでも傍にいたいと思わせるような、蠱惑的な香り。
周瑜のまわりにはいつもそういう香りが漂っているような気がする。
おいて行かれた呂蒙は風が過ぎ去った途端、言いようのない寂しさを感じた。
「くそっ」
遠慮した自分が馬鹿みたいに思えてきた。
「待ってください!やっぱり俺も行きます!」
呂蒙は小走りに二人の後を追った。
先に歩いていた周瑜は振り返って、にっこりと笑った。
大輪の花が開いたような、そんな艶やかさの微笑であった。
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